血に酔う街Ⅲ
「この辺でかなり腕のある医者が居るって聞いたんだけど、知ってる?」読んだ新聞紙を渡して、彼女が質問する。
「医者だって?ハハッ!何言ってんだよ」
渡された新聞紙を燃やして昼間から灯油缶の焚き火に当たる男達。
歯の無い歯茎を剥き出しにして笑いながら、「そうさ。ヒヒッ!ココが医者だよ!コ・コ・ガ」
三十代ほどの白髪混じりの男が応える。薄汚れた服を着て、常日頃、残飯を漁る生活のようだったが、妙に健康そうだった。頭以外は。
「は?」
彼女は首を傾げている。こんな返答が八人。理由は「知るかそんな事」の一点張りだった。
彼女は腕時計を見ると四時半を回っていた。「ぎょ」
これだけで2時間もたっぷり貴重な時間を浪費して、しまった!と時計から顔をそむける。
彼女は長いため息をついて、口をへの字に曲げて立ちつくす。
しばらく黙っていると、向こう側からの四人組の警官が、やけに嬉々とした表情でやって来た。
それを見るや突然、青ざめて彼は狭苦しい路地へ逃げ出した。
「あっちょっと!まだ聞いてない事が」
そして周りの連中も何時の間にか姿を消して、通りには誰もいなくなった。私を残して。
冷たい風が辺りに吹いた。彼女は少し睨みつけるような表情で振り向いた。彼女に取り巻く男が四人。
「見ない顔だな、何時からここに居座ってる?」
異常にたくましい肉体と短髪に制服姿。男達は、見下ろすように立ち、聞いた。
「外から来た人間だな。いつ来た?」
両手をズボンのポケットに入れたまま冷然として答えた。
「ついさっき」
「生まれは?」
「ココ」少し、驚いて
「来る前はどこに居た?」
「フランスに」
「あそこはガラクタ《アンドロイド》ばかりで大変だろ?居心地の悪いのなんの」
「ええ、色々大変でした」
「安心しろここには一体も居ないぜ。かなり前に居なくなった。どっかのイカレ野郎が大暴れして、一体残らず破壊した。確か名前は×××××」
その言葉に聞いたとき一瞬表情が動いた。
「何だ、知り合いか?」
「いえ……多分違います」
「何だ…つまらん」警官は肩をすくめた。
「そう言えばまだだった。IDカードとNI(非感染)カードを見せろ」
「そんなの有りませんよ」
そんな解りきっている事を何故警官が聞くのか?嫌な予感が脳裏によぎる。
見合わせた後ろの三人は粗ばらな歯を一杯に剥き出してニタニタ笑っている。
その答えはすぐに出た。
段々、論理や話し合いで終わる気配が失せてゆく。
そして、「へぇ〜〜そうなんだ」と面白そうに言って身を屈め、彼女の顔を覗き込んだ。
粗野丸出しの下種の視線が彼女の全身を舐めまわしす。
「そりゃ、大変だな。あれが無いと病院どころか買い物も出来ないんだぜぇ。無論、被害届けも出せない」
そいつは彼女の頭から爪先までじろじろ見てから、にやりとと笑った。
「そういえば、名前聞いてなかったな」
無言。名乗っても仕方がない。名乗りたくも無かった。
「おいっ!なんだよ?聞いてんのか!?」
彼はいきなり手を伸ばして、グイと右腕を掴んだ。
「放してよ」
跳ねのけると、血走った眼が見つめていた。
「っあ――…いってえェ〜〜おい、コラ女。痛いだろ」
ゴツい拳が顔面を襲う。 予期せぬパンチを喰らうと、衝撃で一メートル程、後方に吹っ飛び尻餅をついた。
女の唇から、細い朱のすじが流れ落ちる。それを手の甲で撫でた。
『―――はぁん(笑)』
うつむく口元が幽かに吊り上がる。彼らはそれに気がついてはいないようだ。
男は薄笑いを浮かべながら、右肩を揉みほぐすように左手を当て、右腕をブンブン振り回す。
男の拳の関節は、盛り上がっていた。格闘技で言うと拳ダコだ。
「あ――あ、大ちゃん怒らせた。知ンねーぞォ〜〜?」
リーダー格の含み笑いが一同を振り向かせる。
五分狩りの頭を撫で回しながら「俺達今、ストライキに入ってよ。金がなくて風俗にも行けないんだ」
「だからさ頼むよぉ、俺達と一発どうよ?」
「なぁ〜にこんな奴、歯一本折れば、何でも言うこと聞くようになるさ」
彼女はゆっくりと立ち上がる。
彼女は逃げようとはしなかった。そして、辺りを見渡した。
「残念ながらテメェを守るのはテメェしかいねーよ」
「殺すなよ。それに顔を狙うなブサイクになる。ボディー狙らえ、ボディー」
「最初は俺からだからな」脇でもう一人が言った。
「分かってるよ。一発で――」一歩踏み込み、右フックを放つ。
「はい、終わりっ!!」
その時、彼女の身体が突然、ブレた。
彼女の体に触れず空を切る右腕。その腕の筋肉がまるで彫刻のような筋をつくる。
手加減はなかった。見守る全員が風を感じた。
食い扶持を繋げる為に参加した、裏世界のベアナックル・ファイト。それが今の彼の収入源であった。一夜明ける毎に玉座の変わる、今夜も渡さない王者の最強のパンチが躱されたのだった。
二周りも小さい女に。
神速のダッキングで髪の毛が乱れ、懐に入る。
身を沈めて、逆立ち。そのまま両手がバネのように跳んだ。
両脚が股間目掛けて、撃ち込まれる。
靴が股ぐらに食い込んでいく。身長二メートルの筋肉の塊が地面から十センチ程浮いた。反転した瞳に彼女の薄笑いが映る。一撃で彼の睾丸が潰された。
言いようのない苦痛が全身を駆け巡り、肺の空気が一気に逆流する。身体を二つに折り、呻きが舌を押し出し、すぐに前のめりに倒れた。無様な格好で横たわる。
死にかけていが生きていた。ちゃんと痙攣もしている。
良かった。死んでない。
リーダーはチラリと一瞬、潰された股間を見つめた。赤いものが地面に沁みを作っているのを眼にする。
「てめえ!!!」
アレの同情より先に、死刑執行の合図が下った。
全員の視線が彼女に集中する。そうして二歩、三歩と前に出る。
ショートカットの髪の下から、彼女の瞳がこちらをむいた。
「この女ぁ!」四方から襲いかかる屈強な男達。
女の手足は男達の何倍も速く動く。それはまるで水のようだった。
後方から右脚を薙いだ。
蹴られて横転する顔面へ引いた足の膝が叩き込まれる。顔から膝が外される時、ポロポロと口から歯が零れ落ちる。
可哀想に彼は二度とホットドッグをかぶれない。
特殊警棒で打ちかかる。殺人レベルの高圧電流が彼女に触れたと思った刹那、渦を巻くような鮮やかな一回転、その渦に警棒を握りしめたままの腕が巻き込まれる。そして肘が明後日の方向へ曲がった。その痛みを感じる間もなく、彼は脳天から地面に激突する。
関節を極める、投げる。そして、折る。今や国際競技となった柔道の影に隠れがちだが、その技は凄絶なものに変わりはなかった。
「この野郎」
一歩下がり、警官が脇のしたへ手を入れ、ショルダー・ホルスターに刺さったベレッタM96FSを抜き、構え、引き金を引く。
それまで、三動作。
彼女はそれと同時に右手を開き、軽く振った。
それまで、一動作。
掌に朱色のすじが走り、音も無く裂け始めた。
それはクパッァと、口を開け、鈍い光が走った。
彼は最初、日頃よく眼にするワイヤー系か飛びナイフの類に思えたが違う。明らかに何かが、何かが、手から生えたかように見えた。
それは眼に見えない糸に操られるように手の甲に突き刺さる。一メートルほど繰り出したそれは、鞭のようにしなりそこから、刺さったまま、大きくネジれ、メリメリと肉と骨を分ける。
えぐり出される傷口から鮮血が舞った。
右の袖口へと鋭い切尖が血の糸を引きつつ、緩やかな弧を描いて、手に吸い込まれていく。
「……ぐぅぉ」
銃を抜こうとした右手を押さえて、全身の力を抜いて膝をつく。
すぐあとにこめかみの辺りで空気が揺れた。
その刹那、凄まじい衝撃が脳を震動させる。
鮮やかな前蹴りだった。そのまま、崩れ落ちる。
一息ついた彼女はジャケットを脱ぎ、埃を払い落とす。また、羽織る。
警官の髪の毛を掴んで、妖々とささやいた。
「女抱きたいなら、『金を払う』か『惚れさせなさい』まったく」
警官は情けない呻きを漏らして、眼を細く開ける。目尻を切り、鼻血がタラタラ流れていくのを感じながら。
「お前こんな事でただで済むと――」
「思ってんの?」
凄みの聞かせた声が彼を黙らせる。
「さっきのは許してあげるから私の質問に答えて」
彼女の方に向いた顔は、不安と恐怖を隠しきれず、顔は、シャツと同じ薄汚れた白い色に変わった。やがてそこから冷や汗が吹き出し始める。
「こうゆうの治療出来る医者を探してるの」
彼女は右手を開いた。
また〝アレ〟が掌から生えてくる。それは首に纏わりついて来た。
「ヒィイイ―――」
何だこれ。何だこれ。何だこれ。何だこれ。何だこれ。何だこれ。何だこれ。何だこれ。何だこれ。何だこれ。何だ(ry
沼地に住む両生類のようなヌメヌメした肌触り、形容し難い芳香が鼻腔を通り、脳髄を刺激する。
その匂いのせいか狂乱に陥った脳は冷静さを取り戻した。
「それは言えねえ。言ったら何されるか、これ何とかしてくれ!」
「いいわよ、後でね」
彼女は破顔して、アレは首に力をこめる。
「がぁっ!……はっっ…」
「質問に答えて」
「分かった…話す」
「素直で宜しい」
彼女の表情が千変万化し、彼を嘲笑う。
「山本沙耶って女医だ」
閉鎖した、K大学病院だ、そこの闇医者だよ。正確には獣医だけどな」
半年前にいきなりやって来て、一口咬ませたらあっと言う間に今じゃこの辺のワル共が跪いてる」
「何でその獣医さんがあんた達とつるむの?」
「よくわかんねぇがお前みたいな化け物の扱い方知ってる奴だ」
「違う」
「はぁ?」バチィッン。男の目の前で火花が散った。遠くで『化け物なんかじゃない』そう聞こえたような気がしたのは、男の気のせいなのか。男の世界はフッとフェードアウトした。
「獣医ね…」
艶消しの黒い刃物を掌から引きずり出される。粘液が糸を引いていた。
「あたしにピッタリかもね。ある意味かな?」
血の付いた刃先を舐めた。それを再び掌の中に帰した。右手の中で開いてた口が閉じる。右手を眺めながら何度かにぎにぎする。
「それにしても病院か。注射器とかだったらやだな」 考えただけで痛くなってきた。
「動くな」
背中で嫌な空気を感じる。荒々しい靴音が聞こえてきた。
振り向いた。その数、十四人。 周囲に人数分だけの拳銃が、彼女に向けられた。どれも遊底を引き、初弾を薬室に送り込んだ体勢だ。
彼女は四方へ眼を走らせ、声に出さず舌打ちした。
少し間を置いて銃声が鳴った。