血に酔う街Ⅰ
大地に線路を敷くのをやめて、大海原に根を張る真空チューブの中を、時速約2200㎞で滑る高速装甲鉄道〝轟天〟。位置エネルギーだけを動力とし、空気抵抗0で滑る革新的発想。車両は元々、宇宙用に設計されたが、それが開発者の眼に止まり現在に至った。七年前の災害時、走行中の車両に死者は一人も出さず、8日間海に沈んだと言う。一部では、核シェルターより頑強だと言われる。しかし、特に注目する点は、その真空チューブの強度である。未曽有の災害で陸路は殲滅したが真空チューブの損壊は世界全体で、僅か8%。
ファンの間では列車側かチューブ側どちらの方が丈夫かで良く論争となる。更に、製造メーカー側も自社の作品に異常な執着振りを見せ、両社一歩も退かず日夜更なる発展に突き進む。
開発者の発表では、これは真空チューブと車両の絶妙なパワーバランスで成立する頑強さであり、一方に強度が偏り過ぎるとたちまちバランスが崩れると言う。
因みにその開発の原点が、ある東洋の国に行った時の、絶叫マシンばかりの遊園地だと知る人は少ないだろう。あの日から、七年。今も、世界中から信頼される地球で一番安全な乗り物である。
しかし、その血と汗と涙の結晶の中で、今まさにそれに対して怒りしか沸いてこない一人の女性が居た。
そこで彼女は〝ある意味で〟生死を別つ決断を下す。
口を半分開けたまま、スパークリングウォーターの消えかかっている泡をただ見つめている。
ゴクリ。と生唾を飲んだ彼女の額に、一筋の汗が流れる。
兆候を表している、頭痛。目眩。
「いくら何でも一口ぐらい飲んでも…うん。ダイジョブ、ダイジョブ」
ガブリと一口飲むと、彼女はその一口を後悔した。ジワジワと冷や汗が吹き出してくる。頭痛も酷くなってきた。だが、それよりも胸のあたりに言い様のない不快感がグルグル回り始める。そして、
………ゲプッ……ヴッ!
胃の中からわいて出てくる二酸化炭素。それを吐き出し、呼吸をする度に吐き気が増す一方。そしてついに、それは暴れ出す。
「 ヤ バ い 」
臓腑の底から沸き出してくる戦慄と共に、我を忘れ、立ち上がりトイレにむかって走る。
口を抑えながら、早足で慌てずに、かつ素早く、トイレに向かう。
四十分おきにトイレに顰めっ面で駆け込む姿に他の乗客達はどよめき、眉を顰める。
すれ違う度に皆の眼が、彼女に注がれていた。そんな眼でじっくりと見つめられたら、そのたびに猛烈な自己嫌悪に陥ってしまう。果たして読者に耐える自信はあるだろうか。
ご免なさい。すみません。許してください。通して。
ドアがバタンと閉まった。と同時にざわめきがやんだ。静寂が二秒。
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
便器に顔を埋めて嗚咽が洩れた。
一度洩らすと、それは途切れることなく、流れる水の音とともに、まるで変奏曲のように響き渡り、唄のように巡る。
冷ややかな眼差しは、いつしか同情に変わっていた。
「おい。彼女、診てやれよ。それでも医者か?」
一組の老夫婦の会話が始まった。
「何言ってんのよ。アタシは歯医者よ。それに街に着いたら、多分大丈――」
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
「本当に大丈夫かしら?」 そんな視線など意中に無く。ただ吐く。
音も無く走り、十円玉が立つほどの揺れの無さ、ゆったりとした座席。冷房のきいた車内でどうしてあそこまで。
だか、子供達の遊ぶポータブルゲーム機のボタンの音や後ろの禿頭の寝息が、彼女にとっては不協和音でしかなく、ひたすら苦痛でしかなかったのであった。
吐く物がとうに尽きているが、胃痙攣は留まることを知らず、口の端から唾液が滴り、なおも苦しみ続ける。
やはり、気になりだした乗務員がトイレの前に立ち、声をかける。
「大丈夫ですか?」
「……はい…」
乗務員にトイレのドアを外からノックされ、中から出てくる。
「大゛丈゛夫゛……です」
そっとまわりを見回して、顔を出した彼女の憔悴しきった顔は、極めて絶望的な色であった。
「本当に大丈夫ですか?」
「……はい」
やさぐれた彼女の心中を察して、緊急時の個室を勧める。
彼女は頭痛や目眩に苦しみながら、酔って乱れる足で乗務員達に案内された。彼女は軽く頭を下げた。
そこには寝棚があり、彼女は直ぐに、仰向けにひっくり返った。
「もうすぐつきますからね」
「…ずい゛ま゛ぜん」
その時、彼女の黒い瞳が一瞬、青く変わるのを目撃した。
「失礼します」
乗務員は出たあと、我に返って一度ふり返り、また歩き出す。気のせいだろう。
一人になってからしばらくして、彼女は深いため息をついた。今の気がついたかな?
天井を見上げたまま、じっと動かない。
あと一時間程で到着し、この無限地獄からも解放される。それまでの辛抱と彼女は心の中で言い聞かせて十五分後、再びトイレに駆け込んだ。
状況は悪化の一途を辿る。
「もう…勘弁して」
腹を押さえながら、トイレから戻る彼女の目の前に、一人の少女が現れた。
生まれてから無菌室で育てられたような風貌で、どこか浮世ばなれしたかぐや姫のようだった。
その小さな手には、一粒の飴玉が握られていた。
「アメちゃんあげる。これ舐めると気持ち悪くなくなるの」
すると、彼女はようやく眉間の皺をゆるめた。
「ありがとう」そう言って飴玉を受け取った。
「こら、だめよまだ走っちゃ!」
一つ向こうのVIPルームから母親らしき声が聞こえた。
「はぁーい」と、少女は手を振って、まるで今まで籠の鳥だったように走り回り、列車内の探検を開始した。
真空チューブから、抜け出した列車が海から浮上する。
直後、船底が変形して、列車は水面走行へ変わった。
真っ暗闇なスモッグを映していた車窓が切り替わる。青い世界はに変わり、乗客達は感嘆とした声を上げた。
あの少女も大きな目を見開きながらその光景に魅入っている。だが、その後ろの彼女は少し違う。
分厚いガラスの向こうに広がる倒壊した建物の瓦礫の山。それで埋まる海が現れ、彼女は、それをただ傍観する。どこか懐かしい物を見るように。
蛇行をしながら進む数キロ進む、不気味な曇天の下に広がる、巨大な摩天楼が見えた。
周りから次々と浮上し、併走する同型車両。いずれも同じ目的地を目指しているに違いなく、目的も同じ。
あそこが故郷の街。旧××県××市。しかし、現在での名称は日本第四特異地点『DEAD・ZONE』
周りで歓声が上がる最中、彼女は口にアメちゃんを放り込んで、「寝よ」と一言。それどころではないと、さっさと戻ってしまった。
あのアメちゃんの効果は絶大だった。箱買い決定。
そして、列車は予定より二十分遅れて到着した。断じて私のせいじゃ無いと信じている。
電磁弁のロックが解除され、分厚い装甲が動く。静かなモーター音だけを立てて扉が開いてスロープになった。
『第四地点ターミナル。第四地点ターミナル。お出口は左側。なお、この装甲列車は本日、臨時ダイヤで運航しておりますので御注意下さい』
駅のアナウンスがスピーカーから流れる。
バンクから起き上がりながら、彼女は黒いジャケットを着て、緩めていたベルトを締め直す。
そこに乗務員が入っていく。
片手には、革張りのブリーフケースが下げられていた。
「だいぶ楽になりましたか?」
「こちらがお預かりした、物です。銃のお受け取りは受付でお願いします」
「本当にスイマセンでした」
「あの…どうしてあんな所に。もしかして賞金稼ぎ《バウンティ・ハンター》か案内屋の方ですか?」
「やだなぁ、違いますよ。ちょっと人探しです。でも、物騒な街って聞いてるし、やっぱり…」
その時、彼女の表情が変わる。
「お客さ……」
それを見た乗務員は、突然、硬直した。
「マズい」
「ちょっと…まだアレみたいです。じゃっ失礼!」
彼女はそそくさと荷物片手に出て行く。
「どしたの?」戻りの遅いので同僚がやってくる。同僚は後ろから肩に手をかけた。
「ひいっ」と洩らした彼はその場に昏倒した。
一体彼が何を見たのか知るものはいない。
吸い込んでだ空気は車内のビュッフェより美味く感じた。
「はぁ……死ぬかと思った」思わずつぶやく。
先程、アメをくれた少女が手を振る、装甲列車へ振り向いた彼女は唖然とした。
今、外から見て気がついた。もう遅い事だが、私の居たすぐ真下には電磁浮遊用の発電機の車軸が回っていた。道理でさっきよりキツい訳だ。って、判っててあそこに連れて来たのか?アイツは?信じられない。
「まっ…いーや」
すぐに開き直って改札口に向かい、出て行った。
「ねぇ、大丈夫だったでしょう。ああゆうのは気持ちの問題なのよ」
それは先程の老夫婦だった。
「あぁ。で、お前はどうだ?」
ご婦人は腹部に手を当て、そして笑った。
「えぇ。大丈夫よ」
空気は冷たく、のぼせた額に気持ちよかった。
故郷の大地を再び踏みしめた感触が心地よかった。実感しながら、様々な音を聞く。吐き出される人々のざわめき。興奮した甲高い声。
生温い風が頬に当たり、彼女は空を見上げた。灰色のどんよりとした低い雲に覆われていた空を睨む。
恐らくあと、二時間程で雨が降り出すだろう。気象庁の天気予報は嘘をついた。最近の予報は当たらない。予報士はサイコロで決めているのだろうか?
腕時計の針は2時50分。
「まだ早いかなぁ」
さっきの荷物を一旦預けて、ターミナルから市街地に繰り出した。バスに乗ろうとしたが繁華街は富裕層の人混みでごった返す。明らかに場違いな空気が嫌になった。交差点にさしかかっり脇道に入って、そこから裏の小路に出た。
だか、裏街道に一歩入ると、そこには予想通りと言えば、予想通りの光景だった。
ここは見捨てられた横丁。澱んだ空気と古い小便の混じり合った匂いで支配され、今は宿代にも事欠く浮浪者達の溜まり場と化した。今の世間で言う『敗退者』アンダーグラウンドピープル達。歩道の片隅にはヘッドディスプレイで電子ドラッグに吹ける若者が白昼夢に浸り、干からびている『干物男』。ほかにも正体不明の胡乱な連中がうようよ居る。その歩く格好は明らかに人間以外をものといいような感じだった。
行く手の街路に埃っぽい風が吹いて、新聞紙が足元に飛んできた。彼女はそれを拾い上げる。くたびれた新聞の文面に目を凝らす。