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秘伝・剣の帰趨、拳の明日。



      秘伝・剣の帰趨、拳の明日。


 


         壱


 


 士郎が道場で美燕と対峙する前日の夜。


 自室で読書をしていた武人へ、庭に面する障子の向こうから声が掛かった。


「失礼します。武人さん、起きていらっしゃいますか?」


 文机に向かっていた武人は本を閉じ、顔だけ障子の方へ向けて、突然の訪問に驚いた様子もなく答を返す。


「美燕くんか、どうぞ、入りたまえ」


「失礼します」


 すらりと障子戸を開けて部屋に入った美燕は、閉じた障子を背に正座する。ここ数日でどこかやつれたような印象の顔に、今はある種の決意が満ちていた。


「お願いがあり、参りました」


 真っ直ぐ見つめてくる美燕に、武人は黙って頷き先を促す。


「……私と、立ち合っていただけないでしょうか」


「それは、稽古をつけて欲しい、ということかね?」


 武人の問いに、美燕は首を横に振った。


「本気で、お願いしたいのです」


「理由を聞いて良いかな?」


 真っ直ぐだった美燕の視線が、再度の問いに彷徨う。少しの間を置いて、躊躇いの見える口調で言った。


「……私は、剣を捨てなければいけません。ご迷惑なお願いをしているとは、解っています。ですが、一人ではどうにもならないのです。きっかけが……必要なのです。ご協力、いただけないでしょうか。この通り、お願い致します」


 美燕は両手をつき、畳に額を押しつけるようにして頭を下げる。


 それが、数日考えに考えて出した結論だった。


 例えそれが自らの半身を引き裂くことであっても、自分は剣を捨てなければいけない。


 いくら焦がれようと、もうあの場所に、すべてがあったあの場所に戻ることはできないのだから。


 全力を尽くして敗北すれば、剣を握る者としては一つの契機になる。


 それですべての問題が解決するわけもないが、ただ黙って剣を置くには、美燕は剣士であり過ぎた。


 武人の実力はいまだ見切れてないが、父が勝てなかったと言っていた相手だ。まさか美燕より腕が劣るということはないだろう。


 武人に、剣士としての懊悩、自分を縛り付ける思い出を、粉々に打ち砕いて欲しかった。剣にかけた誇りも、それに重ねていた想いも、根こそぎ無くなってしまえば、そこからまた始められる。


 武人には、美燕のそんな気持ちが見えているのか。複雑な色が浮かぶその目からは、判別がつかない。


 染みいるような沈黙の後、溜息と一緒に武人は言葉を吐き出した。


「すまないね、美燕くん。私では、君の期待に応えることはできないだろう」


「何故、ですか?」


 顔を上げた美燕の口調に責める調子はない。ただ、途方にくれた表情が、その顔に浮かんでいるだけだ。


 噛んで含めるように、ゆっくりと武人は言う。


「私には、その資格がない。亡くしてしまったのだよ。──自らの拳を持たない者に、他人へしてやれることなど何もないのだ」


 美燕にその言葉の意味を酌みきることはできなかったが、ようやく思いついた道もこれで絶たれたということだけは解った。


「代わりと言ってはなんだが」


 悄然と肩を落としていた美燕は、武人の声に顔を上げた。


「士郎とやってみないかね?」


「士郎さんと?」


 思いがけない申し出に、一瞬美燕は目を丸くする。


 それと同時に、腹の底でなにかがゴロリと蠢いた。


「……それは、私の腕が、士郎さんに劣ると、そういうことですか?」


「さて……それはやってみれば判ることと想うが」


 美燕の両拳が、強く握られる。


「士郎さんに勝てば、私と立ち合っていただけますか?」


 不思議な間が空く。


 その間、美燕は武人から目を逸らさず、武人もそれを受けて微動だにしない。


「──解った。承知しよう」


 長い間の後、武人はそう答えた。


 丁度良い。


 腹の底の塊がさらに転がり、じわりと暗いなにかがそこから滲み出してくる。


 そうだ、士郎には以前から含むところがあったのだ。叩き潰してやれば、さぞ溜飲が下がることだろう。


 武人も、大事な跡継ぎが叩きのめされれば、少しは本気を出してくれるに違いない。


 美燕は自分から士郎に伝える旨を武人に申し出て、その場を辞した。


 雨戸を閉め切った暗い廊下を歩く美燕の顔には、暗い酷薄な笑みが張り付いていた。


 


     **********


 


「ふん。さすがにあの野郎の娘だな、よく似てやがる」


 蝮が鼻を鳴らし、その言葉に武人が頷いた。


「そう思われますか」


「おう。いいところも、悪いところもな」


 美燕の先制で、勝負は済し崩しに始まった。


 そして数分。


 爪先をにじるように間合いを詰める美燕に対し、士郎は似た足運びで間合いを外す。


 大きな動作で逃げればその瞬間につけ込まれる。それはこの数分間の間に、士郎は身体で理解した。


 心の中に嵐が吹き荒れる。


 心臓は跳ね馬のように暴れ、脂汗が吹き出る。


 手足が自分のものとは信じられないほどに震え、呼吸すら上手くいかない。そこにすらつけ込まれると解っているのに、どうにもならない。


 絶妙な間で踏み出される足と同時に、美燕の腰から再び木刀が(はし)る。


 美燕の木刀は、手から先の部分が士郎から見えないせいで攻撃範囲が読みにくく、しかも微妙に距離を変えてくるので見切りも何もなく全力で避けているのに、完全には避けきれない。


 木刀の切っ先が士郎の皮膚を微かに擦る。


 滑るような動きにも関わらず、ぞっとする速度の踏み込みからさらに一閃。


 士郎はこれもなんとか躱し、やや遠目の間合いにやっとの思いで下がった。


 油断しないようにそっと息を整える士郎の、顔と言わず腕と言わず無数のみみず腫れが出来ていたが、今のところ出血だけはない。


 逃げるだけで精一杯だが、僅かずつだが間合いと拍子も読めてきた。


 逃げられず。やらなければやられるのなら、やるだけだ。


 乾いた唾を苦労して飲み込み、士郎は拳を握った。


 


「おっはよ〜〜う!」


 いつもの元気な挨拶が、無人の屋敷にこだました。


「あら?」


 土産の入ったビニール袋を下げたまま、葉弥乃は諏訪家の玄関で首を傾げた。


 静流が朝からいないのは聞いていたが、美燕と武人は在宅のはずだ。少し早めの時間なので、士郎もいるかもしれない。なのに、邸内には人の気配がない。


 その時、微かに稽古場の方から人の気配がした。


 朝練かしら? と思いながら、葉弥乃はビニール袋を上がり段に置いて、稽古場の方へと向かった。


 


 一見一方的に美燕の方が攻めているように見えるが、実際のところ美燕にそれほど余裕があるわけではなかった。


 本来美燕が得意とするのは、居合いや抜刀術である。


 そう何合も打ち合わせることは前提でなく、また技の性質としても必殺性の高いものを多く身につけている。


 抜いたら終わり。


 それは理想の一つであり、美燕自身はいまだ未熟であり、その境地にほど遠いという自覚もあるが、常に心懸けていることだ。


 だが、布石の一撃が避けられるのはともかく、必殺を期して繰り出す斬?すら紙一重で避けられているのはどういうことか。


 美燕は苛ついていた。


 この一ヶ月と少し、軽い鍛錬だけで怠けさせていた身体が、思ったよりも言うことを聞かない。それは、本当に微妙な遅延だったが、それがなければ士郎を捕らえられていた場面はいくつかあった。


 対戦を受けた時にも、少し鍛錬不足の懸念はあったのだが、それでも士郎相手ならば充分だとたかをくくっていたのだ。


 要するに舐めていた。


 しかし、事ここに至っては、美燕は認めなくてはいけなかった。


 自分が思っていたよりも、遙かに士郎は強い。


 反射速度も、身体能力も頭抜けている。


 少し萎縮して見えるのは場数を踏んでいないせいだろうが、それを補ってあまりある基礎能力の高さだ。


 だからこそ、美燕は苛ついている。


 武の道に生きる覚悟があるわけでもなく、思い入れもない士郎がそこまでの物をもっていることが納得できない。


 ただ男に生まれたというだけで、すべてを用意されている士郎が、それを己の我が儘で拒み続けている士郎が気に入らない。


 その気持ちが僅かな力みを生み、切っ先をさらに鈍らせていることに、美燕本人は気がついていない。


「ちょおっ……! なにやってんの?!」


 稽古場の入り口で、場内の異様な空気に葉弥乃が悲鳴じみた声を上げた。


 美燕は一瞬その声に気を取られた。


 士郎はその一瞬を見逃さなかった。


 爆発的な瞬発力で自分の間合いまで踏み込んだ士郎は、木刀を握った美燕の右手を、自らの右手で制しながら、踏み込みの勢いのまま肩で体当たりにいった。


 士郎は、美燕と水上の試合を見ていない。


 どんっ。


「お……っ?!」


 水上と同じく、士郎が瞬時に腰を落とした美燕に弾き返される。


 水上の時は違い、美燕もほんの少し体勢を崩したものの、たたらを踏んで下がる士郎よりも立ち直りが早い。


「待ちなさい!」


 追撃に入ろうとした美燕と、体勢を整えようとした士郎の間に、思い切りよく葉弥乃が割り込んだのはその時だ。


 かなり危ういタイミングだったが、美燕は瞬時に出足を止めて間合いを取り、士郎は驚きの表情でそのまま尻餅をついた。


「なによ、なにがあったの、みーちゃん?」


 座り込んだ士郎を背中に庇いつつ、心持ち青ざめた顔で葉弥乃は美燕に訊いた。咄嗟に士郎を庇ったのは、明らかに士郎の方がやられていたからだ。


「退いて下さい、葉弥乃」


 感情を含まない、冷たい美燕の言葉に葉弥乃が言葉を失う。


「危ないから、下がっていたまえ」


 いつの間にか歩み寄っていた武人が、まるで猫を掴むように葉弥乃の首根っこを捕らえて、ひょいと肩に担ぎ上げた。


「ちょおっとぉ!? おじさまっ?!」


 活きの良い魚のように暴れる葉弥乃を苦もなく捕らえたまま、武人は元の場所まで戻り、蝮の横に葉弥乃を座らせると、腕組みをして士郎と美燕の方を向いた。


「おじさま?!」


 怒った葉弥乃が武人を見上げると、隣の蝮が笑いを含んだ声で言う。


「まあまあ、葉弥乃嬢ちゃん。悪いようにゃしねえから、黙って見てろや」


「老先生?」


「必要なことだよ」


 ぼそりと呟く武人に、葉弥乃は座ったまま武人の顔を見上げた。


 何に、誰に、と武人は言わなかった。尋ねても答えてくれないのだろう。


 武人と蝮に挟まれて、飛び出そうとしてもまず確実に二人に捕まる。葉弥乃は諦めてその場に正座する。


 少なくともこの二人がいるということは、重大な結果にはならないだろうと信じて。


 ふらりと現れた蘭が、すたすたと葉弥乃の隣まできて座り込んだ。


 


 美燕は倒れている士郎から広く間合いを取り、木刀からも手を離し、瞑目して士郎が立ち上がるのを待っていた。


 葉弥乃が自分と士郎の間に割って入り、自分と正対した瞬間。


 気がついた。いや、本当はもっと前に気付いていたのだ。


 ──自分は、士郎は羨ましい。


 自分が持っていないものを総て持っている士郎に嫉妬している。


 だから士郎を恨んでいた。それは単なる八つ当たりでしかない。


 美燕にとっては認めがたい、あまりに利己的な感情だ。


 曖昧な形しか持っていなかったその気持ちは、今はっきりと形を取っていた。


 だが、不思議なことにそれを認めた瞬間、美燕の肩からはふっと力が抜ける。


 士郎は強いという事実。


 自分が士郎に嫉妬しているという事実。


 総てが自然に胃の腑に落ちた。


 そして、浮かび上がってきたのは、純粋で透き通った「克ちたい」という気持ち。


 己の弱さに、与えられた環境に、目の前の強敵に。


 迷いも、怒りも、恨みも、哀しみも無い。


 鍛錬が充分でなかったことを悔いても仕方がない。


 今、ここにある、ここにある状況での全力を尽くす。


 それだけだった。


 


 葉弥乃が武人に回収された後、すぐに襲いかかってくるかと思われた美燕が大きく間合いを取ったことを訝しく思いながら、警戒しつつ士郎は立ち上がった。


 ──強い。


 この数分間で嫌というほど思い知らされた。


 こちらに向かって構えられただけで身が竦む。


 武人程の実力差がないせいか、逆にその威圧感は圧倒的な現実味を帯びていた。


 恐怖で、手が、足が、震える。


 逃げたい。


 逃げてしまいたい。


 だが、逃げられない。


 一瞬を積み重ねた剣と拳の交錯で、士郎は一つ悟った。


 自分は、この場から逃げてはいけない。


 今この場から逃げてしまえば、自分はこの「場」に立つ資格を永遠に失う。


 そして士郎にとって、それは古い「約束」を果たす資格をも失うということだった。


 負けるか。


 負けられない。


 恐怖に、目の前に立ちはだかる強敵に。


 相手が自分を打倒する為に、その全精力と全存在をかけてきているのが解る。


 その相手に対し、自らも全精力、全存在をかけて打ち克つことこそが、この「場」n立つ者の使命であり、責任であり、なにより「約束」を果たすための資格なのだと士郎は確信した。


 奥歯を食いしばり、恐怖を下っ腹に叩き込む。


 すると、震えが止まり、性根が据わった。


 いつか、その「約束」に辿り着くため。


 湧き上がってくるのは闘志。


 強い相手に「克ちたい」という闘う意志。


 それは不思議な充実感を伴っていた。


 


「……士郎さん、次で、終わりにしましょう」


 立ち上がった士郎へ美燕がかけた言葉は、ただひたすらに静謐だった。


 士郎は黙って頷き、ゆっくりと構えをとる。


 その構えにも、その瞳にも戸惑いはなく。ただ強い意志だけがある。


 そうこなくては。


 美燕もまた、静かに構えた。


 ごくり、と葉弥乃の喉が鳴る。


 武術の心得がない葉弥乃でも、二人の間に静かで濃密な緊張感が満ちていくのが解ったからだ。


 距離を詰めるお互いの運足は、始めは大きく、近づくごとに小さくなっていく。


 そして。


 士郎の爪先が美燕の攻撃圏に触れようとした刹那。


 士郎が無造作にその一線を踏み越えた。


「ぇえいっ!!」


 裂帛(れつぱく)の気合いと共に美燕の一撃が(はし)る。


 それを読んでいた士郎はさらに半歩を踏み込んでいる。それでも拳を届かせるには足りないが、木刀の柄本で受けることにより威力を殺し、反撃に転じるつもりだった。


「……ぐっ?!」


 しかし、飛んできたのは弧を描く刀身ではなく、真っ直ぐ突き出された柄頭。それは鈍い音を立てて士郎の脇腹に吸い込まれる。


 美燕は木刀の峰に左手を添え、怯んだ士郎の胸に刀身を押しつけて自らは回転しながら士郎を自分の間合いへ弾き飛ばす。


 瞬間、妙に軽い手応えに美燕は違和感を覚えたが、構わず遠心力の乗った強力な一撃を叩きつける。


 木刀が空を切った。


 美燕が回転する、ほんの僅かな一瞬に士郎の姿が消えていた。


 一撃を振り切りつつ、美燕は士郎がどこにいるか見つけている。


 下。


 士郎は腹に一撃を喰らいながらも続く突き飛ばしの威力を殺し、その場に伏せていた。


 一撃を繰り出した直後の美燕は、続く士郎の伸び上がるような体当たりを避ける余裕が無い。


 美燕は先程のようにそれを弾き返そうと、重心を落とした。


「あ……っ」


 予想に反し、来たのは衝撃ではなかった。


 士郎の肩が柔らかくふわりと美燕に密着する。


 しまった、と美燕が思った時には、重心の下に入られる。


 体重と落とした重心共に、包み込込まれるように受け止められた。


 瞬転。どん、と士郎の足が生み出した衝撃が空気を震わせ、拍子と重心を狂わされて死に体になっていた美燕の重心が宙に浮く。


「ぉおうっ!!」


 士郎が吠え、その拳が真っ直ぐに突き出される。


 その一撃は、体勢を崩しながらも防御しようとした美燕の腕を弾き、その胸の中心へ吸い込まれた。


「がふっ……!」


 短い悲鳴を上げて美燕が吹き飛び、床で一度小さく跳ね、横向きに倒れる。


 美燕の手を離れた木刀が、乾いた音を立てて床板の上を転がり、止まった。


 


「そこまで!」


「みーちゃん!」


 武人の声と葉弥乃の悲鳴は、ほとんど同時に上がった。


 一撃を繰り出したまま放心状態で荒い息をついていた士郎は、その声で我に帰った。


 蝮が素早く倒れ伏した美燕に駆け寄り、葉弥乃も慌ててそれを追う。


 士郎も美燕に駆け寄ろうとしたが、武人に止められる。


「どうした士郎」


「あ……」


「お前の勝ちだ。ここにいる理由もあるまい?」


 武人の言葉に士郎の表情が歪む。


 美燕の顔は、士郎からは見えない。


 少し躊躇いを見せたが、士郎はそのまま黙って背を向け、稽古場を飛び出していった。


「士郎!」


 それを見ていた葉弥乃は一瞬士郎を追おうとしたが、倒れ伏した美燕が気になってしばらく逡巡していたものの、結局そのまま美燕の傍に残った。


「どれ」


 蝮は手慣れた動作で横向きに倒れた美燕を仰向かせると、胴着の合わせを広げ、鞄から取り出した鋏でサラシを切り開いた。


 美燕の汗ばんだ滑らかな肌と、緩やかな膨らみがあらわになるが、そこに残された打撃痕を見て、葉弥乃は口にしかけた抗議の声を飲み込んだ。


「ふむ……」


 軽く患部周辺を指で押さえて美燕の反応を見ていた蝮は、タオルでその汗を拭き取り、用意していた軟膏の瓶を器用に片手で開けて患部に擦り込んだ。


「どうですか?」


 武人が蝮に声をかける。


「おう、さすがによく鍛え込んであらぁな。骨は折れてねぇ。ヒビくれぇ入ってっかもしれねえが、心配いらねえよ。活入れなくてもすぐ目ぇ覚ますだろ」


 それを聞いた葉弥乃が安堵の息を漏らす。


「そういうわけだからな、葉弥乃嬢ちゃん。こっちは任せて、追っかけてやんな」


「え?」


「誰でも初めてはあらあな。まあ、放っておいて大丈夫だと思うが、気になんだろ?」


 士郎のことを言っているのはすぐに解った。


 葉弥乃は武人をキッと睨んだ。


「後で、ちゃんと説明してもらいますからね!」


 そう言って念を押すと、葉弥乃も足早に稽古場を出て行った。


「ははは、おっかねえ嬢ちゃんだな」


 蝮は快活に笑いながら、武人に瓶ごと軟膏を放った。


「日に二・三回、患部に擦り込ませろ。後で少し血を吐くかもしれねえが、多量じゃなけりゃ心配いらねえ。あんまり痛がるようなら、俺んとこによこしな」


 瓶を受け取って武人が頷くと、老人は荷物をまとめて立ち上がった。


「いや、久々にいいもん見させて貰ったぜ。こいつらも来年は高校だっけか? 楽しくなりそうだな、おい」


 蝮は物騒な笑みを浮かべて稽古場を後にした。


 武人もその背中に頭を下げて見送ると、気絶したままの美燕を抱え上げて稽古場を出て行き、いつの間にか蘭の姿も消えていた稽古場は誰もいなくなった。


 


         弐


 


 美燕は蝉の声で目を覚ました。


 陽の香りがする布団の上で顔を横に向けると、縁側の向こうに陽光溢れる庭が見えた。


 足下では扇風機が首を振りつつ穏やかな風を送ってきている。


 上体を起こそうとした美燕は、胸に走った痛みに呻いた。


 起き上がれなくも無さそうだが、そのまま横になる。


 髪は解かれ、着ているものも見覚えのない寝間着に替えられている。しまいこまれていたもののようで、少し強めに樟脳(しようのう)の香りがした。その香りに混じって、薬の香りもする。


 天井を見上げると古めかしい造りの天井が見えた。


 見るとも無しに天井を眺めながら、自分がここで寝ている理由をボンヤリと考えた。


 そうだ。


 確か自分は稽古場で士郎と立ち合っていたはずだ。


 そして……。


「目が覚めたかね」


 廊下から、洗面器を持った武人が現れた。


「あ……」


 美燕が慌てて起き上がろうとして、痛みに顔をしかめる。


「無理せずに横になっていなさい」


 武人はそう言ったものの、美燕は胸を庇いつつ起き上がり、髪を左肩から胸に下ろすと、寝間着の裾を直して布団の上に正座した。


「すまないね。悪いとは思ったが、汗に濡れたまま放っておくわけにもいかなくてね」


 勝手に着替えさせたことを武人は謝罪した。女手があればそちらに任せただろうが、諏訪家の女手は生憎と出はからっている。静流はでかけているし、葉弥乃は士郎を追いかけて出て行ったまま、お昼を過ぎた今も戻ってきていない。


 胸を庇いながらの少しぎこちない仕草で、美燕は武人に頭を下げた。


「お手を煩わせたようで、申し訳ありませんでした」


「いや、もともと士郎と手を合わせることを持ちかけたのは、私だからね」


 洗面器を美燕の枕元に置いて、武人も腰を下ろす。


 美燕はしばらく俯いたまま黙っていたかと思うと、不意にぽつりと訊いた。


「私は、負けた、のですね?」


 確認するように、途切れ途切れな美燕の質問に、武人は少しの間を置いて言った。


「うむ」


 長い間があった。


 ぽつん、と一つ、美燕の膝に染みができた。


 染みは、二つ、三つ、次々に増えていく。


 押し殺しきれない嗚咽が、喉の奥から漏れる。


 おかしいではないか。


 全力を尽くせば、納得できると思ったのに。


 全力を尽くして、その上で負けたのに。


 想いを断ち切れると思ったのに。


 握りしめた指の隙間から砂が溢れるように、堪えれば堪えるほど、染みの数は増えていく。


 砕かれてしまったのは想いではなく、今まで我慢し続けてきた心の壁だ。


 剥き出しになった心は白日の下に晒され、悲鳴を上げた。


 震える美燕の手がゆっくりと上がり、寝間着の合わせを強く握りしめる。


 ぎゅっと強く目を閉じた拍子に、ぽたたたっと滴が落ちる。


「痛むかね?」


 その様子をじっと見ていた武人が、優しい声をかけてくる。


 美燕は黙ってかぶりを振る。


 痛むのは士郎に打たれた箇所ではなく、もっとずっと奥の方だった。


「…………悔しい、です……」


 か細く震え、濡れた声で途切れ途切れに続ける。


「……私は……私が、父様と過ごした時間は……私が父様から受けたものは……こんなものだったのでしょうか……?」


 ずっ、と洟を啜る。


 情けない。


 きっと今の自分はみっともない顔をしているだろう。


 情けなく、恥ずかしい。


 人のいる目の前で涙を流すなど。


 でも、止められない。


「……確かに、士郎さんは強かったです……。でも……でも、……武の道を愛しているわけでもなく、それに生きる覚悟もない……。そんな相手に負けてしまうような、……その程度の、ものだったのでしょうか……?」


 武人は一言も発することなく、黙って美燕の言葉を聞いていた。


「……そんなだから、その程度だから……、私は父様に捨てられ……」


「美燕くん」


 美燕が口にしようとした言葉を包み込むように、武人が口を開いた。


 はっ、と涙と洟でグシャグシャになった顔を上げた美燕は武人を見る。


「君に、剣が捨てられるかね?」


 その質問に、美燕は頬を叩かれたような表情で、再び俯いた。


「捨てられ……ない、です……」


 噛み締めた歯の隙間から、細く頼り無く、美燕は小さく答えた。


「……でも、だからといって、……どうしたら良いのですか……。進む道も判らず、戻ることもできないのに、どうしたら……」


「捨てられなければ、捨てなければ良いのではないかね?」


 そっと武人が言った。


 美燕は弱々しく首を横に振る。


「……私の剣は、父様と共にありました……。父様のもとにいられなくなった以上、剣を取り続けることは、出来……ません……」


 つかえつつも答える。


 蝉の声と、庭の梢をさわめかせる風の音だけがする。


「言わずにおこうと思っていたのだがね」


 想い沈黙の後、武人が口を開いた。


「君がここに来る少し前のことになるが、君の話をするために彼がここに訪ねてきた時のことだ」


 俯いたままの美燕の身体が、僅かに緊張した。


「彼はね、私に頭を下げたよ。娘を頼む、とね。彼との付き合いはもう二十年近くになるが、彼が誰かに頭を下げるのを見たのは初めてだったよ」


 武人はそこで一度言葉を切り、さらに続けた。


「彼自身、古い剣を伝える旧家に生まれて、余人には解らない苦労をしてきたのだろうがね。この町で私と出会った頃は、形のないなにかに取り憑かれ、それに振り回されていた。もちろん、今はそんなものからは解き放たれているのだろうし、本人もそのつもりでいたのだろうが……。性分、というのは少し違うかも知れない。業、というのが近いのかも知れないね。今の彼は、その頃の自分に対して嫌悪すら抱いているようだ。それにも関わらず、その頃の自分を作った行いと同じ行いを自らの子供に施していることに気がついて愕然としたそうだ。二人目の子供が生まれて、初めて気がつかされたとね。──だからといって、それからどうすれば良いのか、彼には判らなかったそうだ。どうすればいいのか苦悩したまま、苛烈な訓練を止めようとしない君の姿を見るのは、辛かったとも言っていたよ」


 黙って武人の話を聞く美燕の両手は、膝の上できつく握りしめられている。


「親としては恥ずべき事だが、自分ではどうすればいいのか判らない。できるのは、なんとか君の選択肢を増やしてやることだけだ、とね。もし、たとえ剣が捨てられなくとも、自分が道を見つけられたこの町ならば、きっと何かを見つけられるだろうと」


 そこまで話し、ふぅ、と武人は大きく息を吐いた。


 美燕の頭の中では、たった今聞いた話がぐるぐると回っていた。


 それでは、自分は捨てられたわけではないのか。


 自分は必要ないと断じられたわけではないのか。


 ならば、すべては自分の勘違いだったというのか。


 でも、それならば何故、そう言ってくれなかったのか……。


「彼の事だ。言葉が足らず、君を苦しめてしまったのは否めないだろう。彼の選んだ手段も、最良ではなかったのかもしれん。しかし……ね」


 武人は、様々な感情が複雑に絡み合った微笑みを浮かべた。


「子を思わぬ親などいないよ。そうだね……そう、ほんの少し、その方法が判らないだけだけなのだと思う。それを理解してくれとは言わない。ただ、覚えていて欲しい。彼も、ましてや私も、未だ道の途中なのだということを。決して、達してなどいないのだということを」


 その言葉が耳に届いているのかどうか、美燕は黙ったまま何も言わない。


「……それと、もう一つ。士郎のことだ。士郎には、思い入れも、覚悟もない。先程君はそう言ったね。本当に、そう思うかね?」


 ぴくりと美燕の肩が震える。すぐに反駁できなかった。


「士郎はね、誰にも隠れて、いつも一人で鍛錬しているのだよ。目の届かないところにいる時は、大抵そうなのだろう。士郎は怠けてなどいないし、美燕くんと渡り合えたのも、士郎がそれだけのものを弛まず積み重ねてきているからだ。そしてそれは、強い覚悟無しに続けてこれるほど簡単なことではないはずだ」


 士郎の積み重ねてきたもの。


 剣を交わした美燕には、誰よりも肌で解っていた。


 あの柔らかさは、弛まぬ鍛錬でしか身につかないものだ。美燕にはまだ体現できない。


 心身ともに強さを持った者は、皆身につけている柔らかさだ。


 だが、まだ心に引っかかった僅かな反感が、それを認めることに抵抗を示していた。


 あさましい、と美燕は奥歯を噛む。


 この期に及んで、自己の正当性を失うのが怖いのだろうか。


 自らが積み重ねてきた感覚すら否定するなど、恥知らずにも程がある。


 そうだ、あの最後の一合、最後の一撃。


 納得するには充分ではないか。


「本人から聞いたわけではないが、どうやら士郎の目的は私に克つことらしい」


 自嘲めいた笑いが、武人の顔を過ぎる。


「士郎が私を嫌っているのは美燕くんも知っていると思うが、どうもそれが直接の理由ではないようだ。むしろそうすることによって、なにかに区切りをつけようとしているように感じるが……。だがそれがどんなことであっても、士郎自身が考え、決めたことなら、親としてはできるだけのことをしてやりたいと思う。私が士郎にちょっかいをかけ続けるのも、その過程で少しでも『勘』のようなものを身につけて貰おうと思っているからだ。もっとも、それもただの自己満足で、あいつに取っては迷惑以外の何物でもないのかも知れんが」


 美燕が少し視線を上げると、武人の目は庭を見つめていた。


「親というのは愚かなものでね。似て欲しくないところばかり似ていく子供が、愛おしくてたまらんのだよ。きっと、彼もそうなのだろう。君が剣の才を発揮すればするほど、喜びは深くなっていったのだと思うよ。だからこそ、気付くのに遅れたのではないかな……なんとなく、解るよ。私も同じく、愚かな親の一人だからね」


 すっと庭を向いていた視線が美燕に向き、ほんの僅かな間視線が絡んだ。


「美燕くん。捨てられなければ捨てなくてもいい。急に変われないのなら、少しづつゆっくり変わっていけばいいのだと思うよ。ただ、ありのまま知り、自分で考え、そして見定めて欲しい。私は、ここが君たち若者にとって、それができる場所になればいいと思っているのだ。すでに人を教え導く資格のない私には、傲慢な考えかも知れんがね」


「そんなことは……」


「武の道もまた、人の道だ。人が擦れ違い、共に歩み、自らの足で歩くからこその道だ。想いも、技も、受け止めてくれる相手がいるからこそ、そこにあることができる。一人だけがゆく場所を、道とは呼ばない。哀しみや憎しみすら、一人であるなら意味を持たないのだ。……私は、そんな簡単なことすら、受け止めてくれる、いや、届けるべき相手を永遠に失うまで気がつかなかった」


 武人の視線が、仏間の方へと漂った。


「君たち若者に、同じ轍を踏ませたくない。もちろん、それは私の我が儘で、年寄りの泣き言なのかも知れない。だが、どうか忘れないで欲しい。片方の掌だけで鳴る音などないのだということを」


 そう言って、武人は美燕に頭を下げた。


 美燕は慌てて何かを言おうとしたが、何も思いつかずに俯いた。


「……少し、私に考える時間を下さい……」


 武人が部屋を出て行った後も、美燕は正座したまま自らの膝を見下ろしていた。


 やがて、寝間着の上に一つ、染みが増える。


 その染みは、他の染みとほんの少しだけ色が違った。


 開け放たれた障子の向こう、広い庭は輝く陽光に浮かび上がっている。


 


        参


 


    **********


 


「士郎……。士郎……?」


 荒い呼吸の下、途切れ途切れの呼びかけに、士郎は目を覚ました。


 いつの間に寝入っていたのか。ずっと寝ないで看ているつもりだったのに。


 暗い部屋の中で、士郎は慌てて毛布を跳ね上げると、いつの間にか寝かされていた長椅子から飛び降り、ベッドに駆け寄った。


 白い清潔なベッドとそれを取り巻く機械類が、とてつもなく不吉なもののような気がして、士郎はそれらを見る度に心臓を掴まれる感覚を味わう。


 その不吉な機械達に囚われているように、母はベッドに横たわっていた。


 部屋の中に、士郎と母以外に人はいない。


 妹は一ノ瀬夫妻が連れて帰った。本当は士郎も連れて行かれそうになったのだが、士郎が頑として拒み、根負けした夫妻が残ることを承知したのだ。


「お母さん?」


 ベッドの上を背伸びして覗き込む士郎に、酸素マスクをしたままの母は優しい瞳を向け、弱々しくだが笑みを見せた。


「……ゴメンね、士郎。……あの人が帰ってくるまでは、頑張るつもりだったんだけど、ちょっと無理みたい……」


 母が突然倒れた時、武人は海外にいた。ろくに連絡のとれないところにいたらしいが、折良く日本に帰ってきていた一ノ瀬夫妻の尽力でなんとか連絡がとれ、数日の間には日本に戻ってくるはずだった。


「だから……、士郎。貴方に頼んでおきたいの。聞いてくれる……?」


「え?」


「……あのね、あの人に伝えて欲しいの。……わたしは、幸せでしたって。……お願いね、士郎。貴方にしか頼めないの……。約束、よ……?」


 そこまで言って、母は顔を歪めて苦鳴を漏らした。


「お母さん?!」


 母の様子に士郎は顔色を変える。


 しばしの間耐えていた母は、苦痛の波が過ぎると潤んだ瞳を士郎に向けた。


「ゴメンね、士郎……。もっと、もっと貴方たちと一緒にいたかったけど……。貴方と、静流を残していくことを許してね……。せめて、貴方たち三人は、仲良く、幸せにね……。お願いよ……。……ほんとうに、ごめんなさい……」


「お母さん?! お母さん!!」


 母が瞼を閉じるのと共に周囲が慌ただしくなり始めた。急変を知った医者達が騒ぎ始めたのだろう。


 そして、母はそのまま二度と目を覚ますことはなかった。


 


       **********


 


 沈みかけた太陽は、暖かな茜色に染まっている。


 士郎は刻々と色彩を変える空を、梢の間から眺めていた。


 ふと、ずっと握りしめたままだった自分の拳を見下ろす。


 あの日、母から託された約束は、まだ果たされてはいない。


 最初は、父に対する反感からだった。


 だが時が過ぎ、何度も何度もそれについて考えるうちに思うようになった。


 いつか父より強くなることができたら、その時母からの言葉を伝えよう、と。


 それは士郎自身の心のけじめであり、あの日、父にぶつけてしまった言葉に対する、自らに課した罰でもあった。


 そしてなによりそうすることが、父の心を本当に楽にしてやれるのだろうと、そんな確信が士郎の内にはあった。


 理屈ではなく、感覚。


 他人が聞けば、何を馬鹿なと笑うかもしれない。


 あるいは、子供っぽい感傷なのかもしれなかった。


 だが、士郎は自分で悩み、考え、自分なりの結論を出し、それを成すためにけして短くない時間、努力を積み重ねてきたのだ。


 それは士郎自身の真実だった。


 それが、あの日から始まった、士郎の拳の意味だった。


 拳を開いて、掌を見つめる。


 だが今日、それは違う目的で振るわれた。


 全力を尽くして向かってくる相手に、全力で答えるために。


 水上が言っていた「仕合」。


 その意味が少し解ったような気がする。


 ただ腕力を競うのではなく、技を試すのでもなく、己の総てを比べ合う。


 あれはそういうものだった。


 思い出すだけで、身体の芯に震えが走る。


 強敵であったという実感と、それに打ち克った充足感。


 そして、責任。


「士郎」


 突然かけられた声に驚いて、士郎はそちらに顔を向けた。


「葉弥乃?」


 手近の木に手をかけて士郎を見ていた葉弥乃はにっかりと笑い、少し乱れていた呼吸を整えてから、眼鏡を拭いてかけ直し、周りを見回した。


「そっか、放課後とかどこに消えてるのかと思ったら、こんなところにいたんだ」


 そこは、美燕がこの町に着たばかりの時に駅前から眺めた山の中腹、古い神社裏の林だった。諏訪邸からは、ゆっくり歩いて一時間くらいの距離だろうか。


 元々そこは地元の人間すらほとんど知らない神社で、手入れは最低限しかされていないし、普段はまったくと言っていいほど人が寄りつかない場所でもあった。


「なんでここが?」


「わかったかって? あっちこっち駆けずり回った挙げ句に、水上なら知ってるかと思って吊し上げたら、あっさり吐いたわよ。ここにいるかどうかはわからないとは言ってたけど」


「あいつは〜〜……」


 半眼で呻く士郎を無視して葉弥乃は言う。


「蚊取り線香まで用意してるんだ。準備いいわねぇ」


 士郎の足下で煙を上げる線香を見て、それから士郎を見つめて続けた。


「みーちゃんの怪我ね、大したことないって老先生が言ってたよ」


「そっか」


 罪悪感はないが、それが少し気がかりだったのだ。


 士郎に安堵の表情が浮かぶのを見てから、葉弥乃は改めて辺りを見回した。


 周辺では一際大きな木の洞にかかった青いビニールシートから、使い込まれたサンドバッグが顔を覗かせていた。


 葉弥乃はそれに近づいて、半ばはだけていたシートをめくる。


 サンドバッグと共に現れたのは、サンドバッグと同じが、それ以上に使い込まれた手製の鍛錬道具の数々だった。中には、文字通り血の滲んでいるものもあった。


「嫌いになったわけじゃ、なかったんだね」


 優しい笑顔を浮かべて、士郎を振り向く。


 士郎はその視線を避けて、そっぽを向き言った。


「嫌いだよ」


 すぐに嘘だと判る。本当の答は、使い込まれた道具達がなにより雄弁に語っていた。


「あのさ、士郎」


 サンドバッグに手をかけて、それを見るともなく見つめながら、少し改まった口調で葉弥乃は口を開いた。


「あたしね、あんたや、静流ちゃんや、みーちゃんにはね、出来る限りのことをしてあげたいとね、思ってるの」


 葉弥乃は、いつも相手の目を真っ直ぐに見て話す。しかし、今は士郎と目を会わすのを避けているように、サンドバッグに視線を落としたままだった。


「もちろんね、あたしのできることなんて多寡が知れてるし、してあげるなんてのも何様だって言われてもしょうがないけどさ。それでもね、そう思うの」


「…………」


「あたしがどんなに頑張ったってさ、おばさまや、みーちゃんのお父さんの代わりにはなれないけど……なにかしたいの。黙って見てられないのよ。何も出来ないかもしれないけど、なにか辛いことがあったりさ、悩んでる事があったら……話してよ。黙って見てるの、あたし、辛いよ。だってさ、あたしは、みんなのこと大好きだし、その、家族だと思ってるから、さ」


 訥々と話していた葉弥乃はそこで言葉に詰まり、ぐしっ、と洟を啜ると背を向けた。


「……ゴメン、今の無し。忘れて。駄目だな、あたし。ついこの間、静流ちゃんに愚痴っちゃったばっかりなのに。……先、帰るね。ここの事は誰にも言わないから安心して。それじゃ……」


「葉弥乃」


 踵を返して立ち去ろうとした葉弥乃の足が止まる。


「俺は、お前に凄く助けられてるよ。静流も、……多分彼女も、それは同じだと思う。ありがとうな、葉弥乃」


 瞬間、何かを耐えるように、葉弥乃の全身が強ばる。


 そして、葉弥乃は乱暴に眼鏡を外し、乱暴にゴシゴシと腕で目元を擦り、深呼吸して振り向いた。


「……ったくぅ、な〜〜に言ってんのよぅ! そんなことでお礼言ってたら、あんた一生あたしにお礼言ってなきゃいけないよ?」


「そうかもな」


 葉弥乃の顔を見ないように気をつけながら、士郎は少し笑った。


「もうすぐご飯なんだし、静流ちゃんだって帰ってくるんだから、あんたも早く帰って来なさいよ!」


 顔を隠すそぶりを見せながら、葉弥乃は足早に立ち去った。


 なおぅ。


 葉弥乃の背中を見送っていた士郎のすぐ傍で聞こえた、馴染み深い声は蘭だった。


 どこで嗅ぎ付けて来たかは知らないが、士郎がこの場所に通うようになってから、たまに姿を見せるようになった。


 猫は家の外では主人を判別できなくなると言われているが、蘭は士郎がどこにいてもふらりと現れるし、士郎を士郎とはっきり認識している様子だ。


 蘭がここに現れる時は、特に擦り寄ってくるでもなく、少し離れたところで士郎をじっと見つめていることが多い。


 しかし、今日は珍しく眼を細めて盛んに頭を擦りつけてくると、腰を下ろした士郎の膝上に乗り、丸くなって喉を鳴らし始めた。


 士郎はいつにない蘭の態度に少し驚きながら、その背中を撫でてやりつつ、再度傾いた太陽を眺めた。


 もうすぐ、それぞれの静かな夜が来る。


 一日が、もうすぐ終わる。


    


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