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奥伝・剣の思い出、拳の理由。



      奥伝・剣の思い出、拳の理由。


 


         壱


 


 葉弥乃が手土産持参で諏訪家にやってきたのは、剣道場の一件から二日後だった。


「やっほ、みーちゃん!」


 活動的なハーフパンツにタンクトップ姿、さらに大きな麦わら帽子という夏全開な姿の葉弥乃が、庭の木陰で読書に興じていた美燕へと声をかけてきた。


 いつもの剣士姿で正座していた美燕は、本から顔を上げて笑顔で迎える。


「おはようございます」


「おっはよ。ほーーらみーちゃん、お土産。水ようかん」


「水ようかんですか?」


 目の前にぶら下げられた包みに目を向けた美燕の喉が動いたのを、葉弥乃は目敏く見つけて笑みを深めた。


「ひょっとして、水ようかん好き?」


 あっさり感情を読まれたことが恥ずかしかったのか、美燕が少し赤面する。


「恥ずかしながら、好物です」


「あはは、そっか。よかったよかった。冷やしてから、みんなで食べようね。ところで、なに読んでるの?」


 美燕のすぐ隣にしゃがみ込んで、その膝に置いた文庫本を手に取る。背表紙には「遠野物語」とあった。


「渋い本読んでるねぇ。恋愛小説よりは似合ってるかもしれないけど」


「武人さんの蔵書から借りてきたのですが」


「みーちゃんなら、剣豪小説とか似合いそうなのに。おじさまのそういうの読むから、あったでしょ?」


「はあ……」


 葉弥乃の言う通り、その手の小説は嫌いではなかったが、なんとなく今は少しでもそういうものから遠ざかっていたいような気がしていたので、返事も曖昧になってしまう。


「そうそう、そういえば聞いたわよ〜〜?」


 言い淀んでいると、葉弥乃の方から話題を変えてきた。ニンマリとチェシャ猫のように曲線だけで構成された含みのある笑顔に、美燕は少し怯んだ。


「な、なんでしょうか」


「剣道部に乗り込んで、トップツーを叩きのめしたとか」


「……なんだかそういう言われ方をすると、とても人聞きが悪い気がするのですが」


 思わず半眼になる美燕に、葉弥乃は首を傾げた。


「違うの?」


「いえ、まあ、概ねはその通りなのですが……」


 苦笑いしつつ、金堂に誘われてからの経緯を葉弥乃に説明する。


「そういうわけで、別にそうしようと思って伺ったわけではないんです」


「ふうん、新聞部の後輩からの又聞きだったからさ、本人に確認しようと思ってね。みーちゃんにしては好戦的だなーとは聞いた時に思ったんだけど」


 一体どんな風に噂されているのやら。美燕はそっと眉間を押さえて溜息をついた。


「でも、須藤ちゃんと水上に勝ったってのは本当なんでしょ?」


「はい」


 結果を誇るでもなく、ただ単に事実を認める。その態度を好ましいと思ったのか、葉弥乃が再度笑み崩れ、芝居がかった仕草で腕を組んで何度も頷く。


「やっぱりみーちゃん強かったんだ。わたしの目に狂いは無かったってことよね。水上はヘラヘラしてるからいまいちそういうイメージ無いけど、須藤ちゃんは県内の中学生では屈指の実力者で、ここらの中学生レベルじゃ敵無しだったらね。なんか、すっごい落ち込んでるみたいよ?」


 言いながら、探るような視線を送ってくる葉弥乃に、美燕は軽く目を閉じて口を開く。


「勝負として向き合った以上、勝者と敗者が別れるのは当然のこと。敗者の立場になる覚悟が無ければ、最初から勝負の場には立たぬこと」


「みーちゃん、クールなのは知ってたけど、ドライだねぇ」


 目を丸くする葉弥乃に、美燕は目を開けて少し寂しげな笑みを浮かべた。


「父が言っていたことです。私自身はまだそこまで割り切れませんね。が、そういう覚悟は必要なのだろうなとは思います」


「厳しいお父さんなんだね。ま、とりあえず、中入ろ。ようかんも冷やしたいし」


「はい」


 


「海にいきましょう、海!」


 静流が用意してくれた麦茶を一気に飲み干した葉弥乃が、いささか唐突に言った。


「海ですか、いいですね」


 そういう葉弥乃の発言には慣れているのか、静流が驚きもせずに麦茶のおかわりを注いでやりながら同意した。


「海水浴ですか?」


「別に美味しい物を食べに行くでもいいけど」


「私は海に行ったことが無いのですが」


「へ?」


 動きを止めた葉弥乃と静流の視線を受けて、美燕は目を瞬いた。


「おかしいでしょうか?」


「いやまあ、そういう人もいるだろうけど。じゃあ、みーちゃん、ひょっとして泳げない人?」


「いえ、実家の側に川があったので一応は泳げます。けして上手くはないですが」


「じゃあ問題ないね。おじさまに頼んでおかなきゃ。士郎の奴は今日いるの?」


「お兄ちゃんなら、裏の縁側で日射病のアザラシみたいに転がってますけど」


「今日は暑いからねぇ。じゃ、ちょっといってくる」


 ひょいと立ち上がった葉弥乃は、そのままスタスタと居間から出て行った。


 その背中を見送り、美燕が静流に訊く。


「葉弥乃はいつもあのような感じなのですね」


「あんな感じです」


 クスクスと親愛の情が滲む笑いを静流は漏らす。


「麦茶のおかわり、どうですか?」


「はい、いただきます」


 


 その頃、静流の言うとおり士郎は裏の縁側で寝転んでいた。


 三人がいた居間の方に比べ、こちらはやや日当たりが悪いが風がほどよく通るので、多少涼しい。


 だらしなく転がる士郎の足下では、少々型の古い扇風機がカタカタいいながら首を振っていて、士郎の隣では蘭が士郎と似たような格好で寝そべっている。双方とも暑さは苦手なのだった。


 ふと、蘭がなにかに気付いたように片耳を振り、大儀そうに立ち上がって廊下の端に移動してまた寝転がった。


 それと同時に、そろりと忍び足で士郎に近づく人影一つ。


 もちろん葉弥乃だが、士郎は気付く気配がない。なかなか堂に入った忍び足だ。


 寝苦しそうに小さく唸り、寝返りを打った士郎がうつぶせになる。


 そこへ葉弥乃が襲いかかった。素早く士郎の右足を両足でロックし、その背中に密着しつつ背後からフェイスロック。プロレスで言う「ステップオーバー・トーホールド・ウィズ・フェイスロック」という技だ。


「隙有り!」


 完全に技が極まって逃げられない状態にしてから、勝ち誇ったように宣言。かなり意地が悪い。


「あだだだだだだっ!」


 この技は掛けられた方の頬骨に、掛けた人間の腕の骨が思い切り押しつけられるので、頸動脈を絞められるよりかなり痛い。


 上体を反り返されながら、慌てて葉弥乃の腕を叩き降参(タツプ)する士郎。


「修行が足りないよ、士郎」


 技を解いて立ち上がりながら葉弥乃が言う。


「……俺に心休まる場所は無いのか?」


「たったいま休まったでしょうが。感触楽しんだでしょ?」


 身長の割に、意外と発育著しい部分を傲然と突き出してみせる。


 士郎は半眼であぐらをかくと、嫌なものをみたように顔をしかめた。


「んな脂肪の塊押しつけられても、嬉しくないっつーの」


「なんだとう」


「しかも相手お前だし。ついでに大して大きくないし」


「失敬な!」


 顔面めがけて回し蹴り気味に飛んできた爪先蹴りを、士郎は首を傾けるだけで避け、顔のすぐ横に伸びてきた葉弥乃ふくらはぎをそっと押しやった。すると、力を逸らされた葉弥乃はくるりと横に一回転し、正面を向いて止まった。


「で、なんの用だよ」


「うん、海行こうって話」


 何事もなかったように話を切り出す葉弥乃。


「海? いつ?」


「まだ決まってない」


「お前な」


 士郎が呆れた感じで溜息をつくのを見た葉弥乃は、むっとした顔で士郎の額に人差し指を突きつけて、そのままぐりぐりとにじった。


「あ・ん・た・が、いついるかもわかんないから、先に話だけでもしとこうかと思ったんじゃないの。解ってる?」


「そりゃどーもご親切に」


 投げやりに答える士郎から指を離し、葉弥乃は士郎の目の前にしゃがみ込んだ。


「ねえ、士郎。あんた、みーちゃんのこと嫌い?」


「……なんだ突然」


「どう?」


 葉弥乃の妙に真摯な視線に、士郎がたじろく。


「初対面でいきなり斬りつけられたの、まだ根に持ってる?」


「そういうわけじゃねえけど。むしろ、嫌われてんのは俺の方じゃないか?」


「そうなの?」


「確信があるわけじゃないけどな。なんとなく、微妙に避けられてるような気がする」


「なんかしたんじゃないの? お風呂覗いたとか、着替え覗いたとか」


「してねえって」


「ま、それは冗談としてもね。みーちゃんも、あんたと同じで人見知りするタイプみたいだから。それに、こっちへくるのに色々あったっぽいし。それなりに長い付き合いになるんだから、まずは男の方からアクションとるのか礼儀ってもんよ?」


「なんの話だか」


 苦笑いしつつ、士郎はふと何日か前の稽古場でのやり取りを思い出した。


「……俺も少しぶっきらぼうだったかもな」


「だからまあ、心懸けておいてよ。無理にとは言わないけどさ」


 日頃の爆発的な行動力のせいで、あまりそうは見られないが、葉弥乃はこういった細やかな気遣いを見せることがよくある。


 持ち前の観察力と聡明さのおかげなのだろうが、本人はそういう気遣いをしていることを他人に知られるのが恥ずかしいらしいので、彼女と親しいものはわざわざそれに触れることはない。


 だが、士郎は葉弥乃のそういう気遣いに助けられた経験が少なからずあったので、葉弥乃のそういうところを尊敬していたし、助言に対しては素直に従うようにしていた。


「ああ、わかったよ」


「お願いね」


 そう言って、葉弥乃は時折にしか見せない、優しげな笑顔を見せる。


 その姿は、本人が言っていたように本当の姉のようだった。


 


         弐


 


 からりと晴れた昼前の諏訪邸。


 美燕達三人は、居間で顔をつきあわせて課題に精を出していた。


「あ〜〜、終わった終わった」


 葉弥乃は座ったまま、ぐーーっと伸びをして、そのままゴロンと後ろに倒れ込む。


「いいですね、三年生は課題が少なくて」


 恨めしげな目で、自分の課題を進めながら静流が言う。葉弥乃は横向きに肘を立てて腕枕すると、顔を起こした。


「終わったって言っても、問題集だけだけどね。それにあたし達三年生は、代わりに受験勉強ってもんがあるんだよ」


「受験勉強って、葉弥乃さん推薦受けるんでしょう? 葉弥乃さんほど成績良ければ、普通に受けたって合格確実でしょうに」


「まあね、あそこは入るのだけはそれほど難しくないから。そういや訊いてなかったけど、みーちゃんもあそこ受けるんでしょ?」


 問題集を解きながら、聞くとも無しに二人の話を聞いていた美燕は、話を振られて顔を問題集から上げた。


「なんでしょう?」


「進路の話」


「進路……ですか。特に決めていないのですが」


「へ? みーちゃん、あそこ受けるために転校してきたんじゃないの?」


「なにぶん急に決まった転校でしたので……。夏休みが明けてから、先生に相談しようと思っていたのです。その……父も進路については触れなかったので」


「と、言うことは、みーちゃん、あの学校のこと知らないの?」


「あの学校?」


 不思議そうに問い返してくる美燕の様子に、葉弥乃と静流は顔を見合わせた。


「どんな学校なのですか?」


 二人の態度を不審に思った美燕は、重ねて尋ねた。


 美燕が本当になにも知らないことを見て取った葉弥乃は、面白そうな笑みを浮かべて起き上がり、秘密めかして言った。


「おもしろい学校」


「おもしろい?」


 さらに不審な表情になる美燕に答えず、葉弥乃は美燕の問題集を覗き込む。


「夏休みが明けたら、先生から直接聞くといいよ。見学にいく機会もあるかも知れないし。みーちゃん頭いいみたいだから、慌てて受験勉強しなくていいでしょ。あそこは一芸入学もあったはずだし。お父さんも、まだ言う必要も無いと思ったんじゃない?」


「はい……」


 進路。


 これ以上は無いほどに現実的な話。


 だが、今の美燕には現実感の伴わない話だった。


 自分の進む道。


 私は、どこに向かって進めばいいのだろう。


「みーちゃん、そういえば海行くの明日だけど、準備は大丈夫?」


 その言葉に、美燕ははっと顔を上げた。


「そう、そうでした。そのことでも相談しようと思っていたのです」


「みーちゃんから相談事? なになに?」


 嬉しそうに身を乗り出す葉弥乃。


「私、水着を持っていないのです」


「水着を持っていないって。この前、泳げるって言ってなかったっけ?」


「川遊びをしていたのは十才くらいまででしたし、鍛錬の後はよく泳いでいましたが、いつも胴衣を脱いでそのまま飛び込んでましたので」


「そのままって……下着で?」


「下着というか、鍛錬の時にはサラシと下帯でした」


「下帯って、六尺ですか?」


「そうとも言います」


 思わず、もやもやとその姿を脳裏に浮かべてしまう葉弥乃と静流。


「……渋い上に、格好良いじゃない……」


「……ですねぇ……」


 なにやら難しい顔で想像を逞しくしている二人に苦笑いして、美燕は話を続ける。


「そういうわけで、水着を買いにいきたいのです。葉弥乃なら良い店を知っているかと思ったので」


「ん。任せてちょうだい。ぶらうに〜で水着も扱ってるから、お昼ご飯食べたらいきましょうか」


「今日は外食でいいですか? お父さんもお兄ちゃんもいないんで」


「おっけーおっけー。じゃあ、二人の課題が一段落したら出掛けましょ。麦茶のおかわり持ってくるね」


 葉弥乃は機嫌良く立ち上がり、三人分のグラスをお盆にのせて、台所へ向かった。


 


      **********


 


「やっぱり、ここにいたか」


「なんだ、珍しいな。なんか用か?」


「お前のトコに女剣士が来ただろ?」


「唐突だな。いるけど、それがどうかしたか?」


「聞いてないのか?」


「なにを?」


「この前の一件だよ」


「ああ、手酷くやられたって話か?」


「そうそう。でだ、あの女剣士、上泉さんだっけ? 紹介してくれよ」


「藪から棒だな。お前彼女いただろ」


「言っておくけど、お前が思ってるような理由じゃないからな」


「じゃあ、なんで?」


「ま、いろいろさ。解るだろ?」


「大体予想はつくけどな」


「そういうわけなんで、早速明日にでも」


「明日は無理」


「なんで?」


「海に行くことになってる」


「日帰りか?」


「多分な」


「俺も連れてってくれ。このままいくと、今年も部活だけで夏が終わりそうなんだよ」


「そういうことは、うちのイベント部長に頼め。彼女はいいのか?」


「ただいまズンドコに落ち込み中だ。しばらく放っておくさ」


「薄情な奴だな」


「そんなこと言ってもなぁ。フォローはするだけしたからな。後は本人次第だろ。どうにもできんさ。しっかし、あいつと顔合わせるのヤだなぁ、絶対馬鹿にされるし」


「自業自得って言葉知ってるか?」


「やかましいわ。で、いつものごとく、お前んちにいるのか?」


「いるんじゃないのか、多分」


「しかし、昔から思ってたけど、お前ら仲良いよな」


「……お前、姉妹いなかったよな?」


「正真正銘一人っ子だが」


「だったら、言ってもわからんだろ」


「なんだそりゃ?」


「なんでもない。それより、行くんなら早いところ行った方がいいぞ。最近うちの妹も合わせて三人で出掛けてること多いし」


「捕まんなかったら、電話掛けてみるさ。じゃ、またな」


「おう」


 


       **********


 


 そして、海水浴当日早朝。


 きらめく朝日が踊り、空気が眩しく輝いている。


 諏訪邸正門前に横付けにされているステップワゴンの後部で、武人と士郎がのんびりと荷物を積み込んでいる。この車は一ノ瀬家から借りたものだ。


 諏訪家にも車はあるが、五人乗りの乗用車にサイドカー付きのバイクは、今日のような荷物ありの遠出に向かないため、以前から小旅行の時には、こうして一ノ瀬家から車を借りていた。


 葉弥乃の父・(かなめ)は、仕事の都合で海外にいることが多く、たまにエンジンをかけてやらないと調子が悪くなるので、むしろ武人が車を使ってくれるのは歓迎している。


 自分の荷物を持って玄関から出た美燕は、見覚えのある人物が、荷物の積み込みを手伝っているのに気がついた。


 その人物は美燕の視線を感じて振り返り、へらりと笑って頭を下げる。


「あれ? 水上さん」


 美燕の後から玄関を出てきた静流が、その糸目の人物に目を止めて言った。


「お知り合いですか?」


「お兄ちゃんの友達ですよ。葉弥乃さんとも知り合いですし」


「おはよーっす! いやあ、晴れて良かったね。こりゃ絶好の海水浴日和だわ」


 キュロットの裾から、太すぎず細すぎずの健康的にすらりとした足を伸ばし、Tシャツ姿の葉弥乃が相も変わらず元気に挨拶した。


「おはようございます。水上さん呼んだのって、葉弥乃さんですか?」


「ああ、あいつね。別にあたしが呼んだわけじゃないけど、なんか彼女が遊んでくれないから暇らしくてね。枯れ木も山の賑わいとか言うし」


 思い切り聞こえるような声で言う葉弥乃に、水上の顔が引きつる。


「士郎の数少ない友達だから、あんまり邪険にするのもなんだしね」


 士郎の顔も引きつった。


「葉弥乃くんも来たことだし、出発するかね?」


 武人がうながし、全員車に乗り込む。


 至近の海水浴場までは、街からそれほど遠くない。大体三十分も車を走らせれば海岸線が見えるのだが、今日はその海水浴場ではなく、さらに北に車を走らせる。


 しばらく海岸線にそって車を走らせていると、やがてちらほらと岩場が見えてくる。そこからさらに少し進むと、岩場と砂浜が入り交じった入り江の海水浴場に辿り着いた。


 ここは県内の人間にもあまり知られていない穴場で、砂浜だけの海水浴場に比べて、岩場がある分遊び場が多いし、入り江の出口には小さいが、木が茂った小さな島もある。


 夏休みに入っているし、天気もいいのでやや人が多いが、充分に遊べる程度には空いている。


「ほんじゃ、また後でね」


 女の子一行は先に海の家の更衣室で着替えてもらうことにして、男衆は海岸の場所取りにいくことになった。


「では、いくか」


 ビーチパラソルと、大きなクーラーボックスを肩にかけた武人がいつもの作務衣姿で言った。


「ちょっと待て」


「なんだ?」


「一旦帰るんじゃないのか?」


「誰が?」


「親父が」


「なぜ帰らねばならんのだ。未成年だけで放っておくわけにもいくまい。保護者として同伴するのが当然だと思うが。それに、親子間のコミュニケーションというものをな」


「あ、逃げた」


 武人の言葉が終わる前に、士郎は脱兎の勢いで逃げ出していた。すでにその背中は小さくなっている。


「……いい逃げっぷりっスね」


「まあよかろう。水上君、荷物を運ぶのを手伝ってもらえるかな?」


「どうせ、逃げられやせん」


 武人は、とても嬉しそうに、にやりと笑った。


 それを見た水上は、相変わらず大変そうだなアイツ、とだけ思った。


 同情はあまりしなかったが。


 


 美燕は、母親が嫌いだった。


 いつからかは覚えていないが、少なくとも物心ついた頃には、すでにあまり良い感情を持っていなかった気がする。


 母のことを思い出そうとすると、まずその日陰に咲いた花のように儚げな佇まいを思い出す。いつも父の後ろへ隠れるように控えていて、美燕が知る限り、母がなにか我を張ったり、自らの意見を主張するところを見たことがない。


 人によっては美点ととるだろうが、美燕は母のそういうところが堪らなく嫌いだった。


 幼い頃から父に叩き込まれた剣士としての心構えと、おそらく同性であることが拍車をかけているのだろうが、母を見ていると歯がゆくて仕方がないのだ。


 だからというわけではないだろうが、愛情をかけられたという実感も無い。


 母は病弱なため、寝たり起きたりを常に繰り返していた。そのせいで一緒に過ごした時間が絶対的に少なかったし、実家での家事一切はお手伝いのタキが仕切っていたので、なおのこと家族的な役割としての母親という印象が薄い。


 お腹を痛めて産んだ子供なのだから、もちろんそれなりに愛情を持ってはいるのだろうが、母はそれすら表だって表すことが無かった。


 屋敷の中で顔を合わせても、どこかおどおどと曖昧な笑みを浮かべるだけで、話しかけても近づいてもこない。美燕は一時期、ひょっとしたら母は精神に障害があるのではないかと疑っていたことすらあった。


 今回、美燕が一人で家を出ることになっても、母はなにも言ってこなかった。病院に入院したままとはいえ、その話を聞いていないはずがない。伝言なり手紙なり、方法はいくらでもあったはずだ。


 だが結局いつも通り、母はなにもしなかった。別になにかを期待してたわけでもないのだが。


 それに加えて、母が弟を産まなければ自分は以前と変わらず過ごせていた、という思いがある。それをもって母を恨むのはお門違いであると重々承知しているし、生まれてきた弟を恨むつもりもまったくない。


 しかし、だからといって納得できるというものでもなかった。


「上泉さんは、泳がないんスか?」


 灰色のバミューダパンツの水上が、ビーチパラソルの下で正座して海を眺めつつ考え事に耽っていた美燕に声を掛けた。


 その手には、いつも美燕が持ち歩いている刀袋に似た濃緑色の袋を持っている。袋の上から見る限り、長さは三尺超。太さは美燕の木刀と同じくらいか。木刀と違って、明らかに反りが無く真っ直ぐな形をしている。


「きちんとした自己紹介がまだだったッスね。三年C組の水上涼児(みなかみ りようじ)っス」


 もともと細い糸目をさらに細めて、ニカッと笑う。


「隣、いいスか?」


 美燕が頷くと、水上はその隣にストンと垂直にあぐらをかいて座った。無造作な割に雑な仕草では無かった。


「水上さんこそ、あちらに混ざらないのですか?」


「くぅぅるうぅぅぅなああぁぁぁ!」


「ぅうわははははははははは!」


 ドップラー効果を引きずって、追いかけっこ──少なくともそうとしか見えない行動をとっている士郎と武人が、信じられない速度で二人の目の前を横切っていった。


 凄まじい勢いで砂を蹴立てる士郎に対し、仁王のような体躯の武人は、ほとんど砂を巻き上げずに士郎の後ろをぴったりとくっついていく。まるで幽霊のような走法だが、やけに嬉しそうな笑顔と相まって大変気持ちが悪い。


 それなりに人が多い浜辺が、二人の進行方向に向かって二つに割れている。


「あれに混ざる度胸はちょっと無いッスね。色々な意味で」


 強ばった顔で二人を見送った水上が、波打ち際に顔を向けた。


「どうせ混じるなら、あっちの方がいいっス」


 そちらでは、黄色と黒のツートンカラーのセパレートを着込んだ葉弥乃と、白地に可愛らしい花柄のワンピース姿の静流がビーチボールで遊んでいる。


 ちなみに、美燕が着ているのは、紺色基調で肩紐のない、後ろから見るとセパレートタイプに見えるワンピースの水着だ。今はその上からヨットパーカーを羽織っていた。


 どちらも葉弥乃に見立てて貰ったものだ。


 本当はもっと派手な水着を勧められたのだが、さすがにあまり布の面積が少ない水着は抵抗があったので、今のものに落ち着いたのである。


「水上さんは、剣道が本分ではないですね?」


 不意に美燕が言った。


「剣道場で手を合わせた時にも思ったのですが、なにか古い武術をおやりでは?」


「なんでッスか?」


 面白がっている口調で、水上は問い返す。


「さきほどの座り方を初めとして、立ち居振る舞い全般に、そういう匂いがします。それに……」


 ちらり、と水上が肩に立てかけた刀袋に目をやる。


「それが木刀の類でないことは、見れば判ります」


「ははは、それもそうッスね」


「なにか、私に用があるのではないですか?」


 ずばり、と前振り無しで美燕が切り込んだ。


 その質問が聞こえなかったような態度で、水上は笑いを消して濃緑の刀袋を片手で持ち上げた。


「これ、なんだと思うッスか?」


「杖、もしくは仕込みの長柄物と見受けられますが」


 すらすらと答えると、水上が嬉しそうに笑った。


「……やりあえば、なんだか判るッスよ」


 不思議と挑戦的な響きの無い声で水上は言った。


 そういうことか。


 水上の用がなんなのか見当のついた美燕は、視線を膝に落としてそっと溜息をついた。


 それを見た水上は、取り繕うように付け足す。


「別に意趣返しってわけじゃないッスよ。元はと言えば、剣道やってたのは、こっちの方に少しでも役立つかと思ってのことなんで、負けても大してショックでもないですし。まあそりゃ多少は悔しいッスけどね。そんなことは関係なく、オレはこっちで上泉さんとやってみたいんスよ」


 視線を逸らしたままの美燕に膝を向けて、水上は熱のこもった口調で続ける。


「上泉さんなら解るでしょう? 解るはずッス。立ち会った瞬間に、自分は上泉さんに同じ匂いを感じたんスよ。同じ種類の人間だって。お願いです、この通り」


「こぉらっ!」


 身を正して両手をつこうとした水上の頭に、目付きの悪いペンギンがプリントされたビーチボールが命中。中のビーズがジャラリと音を立てる。


「な〜〜にみーちゃんに良い寄ってんのよ、彼女にタレ込むわよ!」


 驚いた水上が振り返ると、眉を逆立てた葉弥乃がこちらを睨んでいた。慌てて弁解しようとする水上を牽制しておいて、葉弥乃は美燕をちょいちょいと手招きした。


「みーちゃん、こっちおいで。一緒に遊ぼうよ。そんなエロ糸目の側にいると、なにされるかわかったもんじゃないからね」


「エ、エロ糸目……」


 なにやら衝撃を受けている水上を尻目に、美燕はパーカーを脱いで丁寧に畳んで置くと立ち上がる。


「水上さん」


「はい?」


「申し訳ありませんが、貴方の期待には添えません」


 水上の視線を避けるように、小さく、しかしはっきりと美燕は言った。目に見えて水上の表情が曇る。


「そッスか。ま、しょうがないッス。無理強いはできないッスから」


「水上さん、貴方は」


「はい?」


「どうして……」


 口にしかけた言葉は、口から出る寸前にほんの少し形を変える。


「武の道を歩むことを選ばれたのですか?」


「どうして、ッスか」


 水上は少し考え込むように間を置いて、腕を組んだ。


「大した話じゃないッスよ。まあ、また今度ということで」


 にやりと笑って、葉弥乃達の方を目で示す。


「あんまり待たせると後が怖いッスから、主にオレが」


「……そうですね」


 美燕は水上に一礼し、落ちているビーチボールを拾って葉弥乃達のところへ向かった。


 それを見送った水上は盛大に溜息をついて、苦笑いを浮かべる。


「やれやれ、フラれちゃったか」


 呟くと同時に、どこからか聞き覚えのある悲鳴が聞こえた。


「あ、捕まってる」


 悲鳴が聞こえた方を見ると、士郎が波打ち際で武人に捕まっていた。海水浴場の端までいって折り返してきたらしい。


 二人はしばらくもみ合っていたが、武人が士郎を担ぎ上げたかと思うと、槍投げのようなフォームで助走して、笑いながら海に向かって力一杯投擲した。


 士郎は悲鳴の尾を引きつつ、綺麗な放物線を描いて驚く程遠くまで飛び、盛大な水しぶきを上げて着水。そのまま土左衛門になってもおかしくなさそうだったが、すぐに士郎らしき頭がぷかりと浮かび上がり、猛烈な勢いで沖の小島に向けて泳ぎ出す。


 それを確認した武人も海に入り、波の立たない不思議な泳法で、これまたかなりの速度で士郎を追った。


 一部始終を眺めていた水上は、ぼそっと呟いた。


「トラウマものだよなぁ、あれって」


 


「次はお祭りね!」


 海の家で昼食を摂っている最中、またしても葉弥乃が言い出した。


「また出たよ……」


 散々武人に追い回されたせいか、あまり食欲が無い様子でモソモソと握り飯を食べていた士郎が、疲れ果てた声で言う。


 武人は士郎を追い回したことで満足したのか、早々に食事を済ませバスタオルを腹に掛けて寝息を立てている。見た目に反してイビキもかかない妙に静かな寝姿で、なにも知らないで見たら、死んでいると勘違いしそうな感じだった。


「なんか言った?」


 半眼で士郎を睨む葉弥乃が食べているのは、弁当もあるというのにわざわざ出店で買ってきた焼きそばだ。


 不審そうな美燕に、半分は雰囲気を食べているんだ、と説明していたが、どうもあまり美味いわけではないらしい。


「あ、オレは無理ッスよ。先約があるんで」


「誰もアンタにゃ訊いてないわよ」


「……ヒドイッスね」


 無下に扱われた水上が泣き真似をするが、その間もしっかり貝の串焼きや魚の浜焼きを手元にキープしつつ、図々しいほどの勢いで消費している。彼も弁当持参だったが、今は手持ちの食料と出店で買い出したものがすべてテーブルの上に広げられ、それをみんなでつついていた。


「というわけでぇ、みーちゃん浴衣は?」


「……あの、また、おつきあい願えますか?」


 尋ねられた美燕は食事の手を休め、気持ち上目遣いで恥ずかしそうに葉弥乃を見る。


 美燕の視線を受けて、葉弥乃はこれ以上はないほど嬉しそうな笑顔を浮かべる。


「いいわよぉ。いくらでも付き合っちゃうよ〜〜」


 そのやり取りと見ていた水上が、士郎にそっと耳打ちした。


「……一ノ瀬って、そっちの趣味があんの?」


「いや、知らんけど。もしそうなら、うちの妹が真っ先に毒牙にかかってそうな気が」


 無言で水平に振り抜かれた葉弥乃の足を、士郎と水上は揃って頭を下げて避けた。


 その後、武人が寝たままなので身の危険がない士郎と、士郎が加わったので気兼ねが無くなった水上を含めた五人で夕方まで存分に遊び、帰りの車の中では武人を除いた全員が眠りこけることになったのだった。


 車が諏訪邸に着いた頃には陽が沈みきり、辺りはもう暗くなっていた。


 水上は丁寧に礼を述べて、諏訪邸には寄らずそのまま帰る旨を述べた。葉弥乃はいつものように夕飯を食べていくようだ。


「それじゃ、オレは先に失礼させてもらうッス」


「気をつけて帰るようにね」


 武人の言葉に頭を下げた水上は、美燕にも頭を下げて家路につく。


「水上さん」


 武人達が家に入っていった後、しばらくその背中を見送っていた美燕が、水上を呼び止める。大きくは無いが、よく通るその声に水上が立ち止まって振り返る。


 訝しげな顔の水上に歩み寄り、美燕は深々と頭を下げた。


「本当に、すいません」


 誠意が滲む謝罪に面食らった様子の水上だったが、すぐに苦笑いして頭を掻く。


「いやあ、気にしなくてもいいっスよ。無理にお願いするつもりも無かったッスから。そのつもりなら、最初からなにも言わずに仕掛けた方がてっとり早いでしょ?」


 平然と物騒なことを言う水上だが、美燕も眉一つ動かさない。


「そうしても良かったのかも知れないッスけど、それじゃあ面白く無さそうですし。ま、もしも気が変わったら、お願いします。オレの方はいつでもおーけーッスから」


「……はい」


 少し気まずい沈黙の後、唐突に水上が言った。


「偶然、師匠の鍛錬を見たんス」


「え?」


 きょとんとする美燕に、笑みを見せながら続ける。


「昼間の話の続きッス。自分で言うのもなんスけど、オレって小さい頃から小器用で、なんでもそこそこにこなせたんス。そのせいなんでしょうけど、ハナタレのくせにノラクラしてて、その上ヒネたところがあって、いまいち真面目になれなかったんスね。自分でもそういうところが嫌だったんスけど、ある時、偶然師匠の鍛錬を見たんス」


 水上の目が思い出に飛ぶ。その視線には、深い憧憬が込められていた。


「いやぁ、格好良かったッスよ。綺麗で、(はや)くて、鋭くて……そしてなにより、真っ直ぐだったんス。オレは、なによりその真っ直ぐなとこに惹かれたんスよ。もお、その場で土下座してお願いッス『オレにも教えて下さい』って。そこからがまあ、また大変だったんスけど、今は置いておきましょう。あともう一つ理由があります。士郎ッスね」


「士郎さん?」


 意外な名前が出てきて、美燕は目を瞬いた。


「そッス。あいつとは、幼稚園の頃から知り合いなんスけどね。オレは師匠に会うまで武術の武の字も知らなかったんスけど、あいつはその頃からもう親父さんに仕込まれてましてね。で、一緒に遊んでると、よくそういう話をしてました。こんなことを教えてもらったとか、あんなことができるようになったとか。そんな話をしてる時のあいつは、今よりずっとガキだった目で見てもイイ顔してて、それがスゲェ羨ましかったんスね。師匠と会って、脊椎反射みたいに弟子入り志願したのは、士郎の影響は確実にあるでしょうね」


 照れ臭そうに、水上は鼻の頭を掻く。


 葉弥乃にも聞いていたものの、士郎が以前は武術馬鹿だったというのは本当のことのようだ。今の士郎を見る限り、美燕にはどうも腑に落ちなくはあるが。


「オレがこんなこと言ってたなんて、士郎には言わないで下さいね。恥ずかしいんで」


 水上はそう言って悪戯っぽく笑い、糸目のせいで分かり難いウインクをしつつ、口の前で人差し指を立てた。


「ここまで喋っておいてなんですが、まあ後付けの理由かもしれないですね。ホントのところはオレにもよくわかりません。なんだかんだで、オレの性格が治ったわけでも無いですし」


「……」


「別にいいんじゃないですかね、今はわからなくても。師匠の言葉を借りれば『歩み続けるからこその?道?』だそうですから。誰に言われるまでもなく続けてるってことは、多分自分にとって必要だと感じてるからなんだと思いますし」


 その言葉に、どうとも形容のしがたい表情をする美燕の耳に、美燕を呼ぶ葉弥乃の声が届いた。


「ほら、一ノ瀬が呼んでるッスよ。長々と喋っちゃってすんませんッス。じゃ、また」


「あ」


 踵を返して歩み去る水上が塀の角に消えるまで見送り、美燕は溜息を一つ吐いた。


「自分にとって必要、ですか……」


 


         参


 


 お盆も間近に迫り、平穏な日々がしばらく続いていた。


 ぱしっ! ぱぱぱんっ! どしっ!


 手首の返しが効いた左の突きから手技の連打、そして綺麗に腰の入った下段蹴り。すべてが正確に、武人が構えた二つのミットと足の防具に吸い込まれていく。


 諏訪家の鍛錬場の片隅で正座した美燕が、ほう、と感心の声を漏らす。


 今、美燕の目前で武人に向かって突きや蹴りを打ち込んでいるのは静流だった。


 兄の影響なのか、武人の教育方針か、それとも本人の意志なのかは知らないが、普段の立ち居振る舞いから多少は使えるのだろうと見当をつけていた美燕だったが、その意外な練度の高さに驚いていた。


 さすがに葉弥乃と比べても一回り小さい体格ゆえの重量不足はともかく、その攻撃速度と足運びの見事は瞠目に値する。


 武人の巧みな誘導で無理なく動かされているのは確かだが、基礎的な体捌きや体重の使い方はしっかり身についているようだ。


 この練度で身体を使えるなら、どんな運動でもある程度の勘の良ささえあればこなせるだろうな、と美燕は思う。


 ふと、美燕の脳裏に「血統」という言葉がよぎる。


 美燕自身は、向き不向きはあるとしても、その差は意志と修練で埋められると考えているので、そういう生まれながらに持っているものの多寡に対しては、あまり良い感情を持っていない。


 しかし、自分の目で士郎や静流を見ると、そういう差というものは確かにあるのかもしれない、と認めたくなってくる。


 今までさほど気にしたことが無かったが、父も自分の子供を後継者にすることに拘っていたような節があったので、無視できないほどのものなのかも知れない、と思う。


 静流の小気味の良い動きを見ながら美燕がつらつらと考えていると、その手元で時計のアラームが鳴った。


「それまでです!」


 美燕が声をかけると同時に、静流はぱっと間合いをとり、大きく息をついた。二分ほどだったが、運動量が多かったのですっかり息が上がっている。


「それでは、申し訳ありません。昼食の支度がありますので、お先に失礼します」


「すまんな美燕くん、手伝ってもらって」


「いえ、できることがあればいつでも」


 早くも呼吸が整いつつある静流に整理体操を指示し、自分は掃除の準備を始める武人に一礼して、美燕はその場を辞する。


 寮での生活にも慣れてきたということで、美燕も台所を任せてもらえるようになった。することもなく、ぼんやりと読書などで時を過ごすよりも有意義なので、美燕としては有り難いことだった。


「みーちゃん、お盆はずっとこっち?」


 お昼時、三日ぶりに現れた葉弥乃は、モギュモギュと白米を口に詰め込みながら美燕に尋ねた。


 夏休みなど長期休暇中の葉弥乃は諏訪家で食事をいただくことが多いので、来る場合ではなく、来ない場合に連絡を寄越してくる。今回間が空いたのは、新聞部の夏合宿に顔を出していたからだそうだ。


 一応食べているだけでなく、たまに料理の腕を振るったりもするが、なにかしらのお土産を持ってくることの方が圧倒的に多い。あまり料理は得意でないらしい。


「とりあえず、学校を卒業するまで里帰りの予定はありません」


 鰺の開きを綺麗な箸使いで骨と身に分けつつ、美燕が答える。


 そのやりとりを聞いていた武人が口を挟んだ。


「そうなのかね? では、うちの墓参りでよければ一緒にどうかな?」


「え? あの、はい、ご迷惑でなければ」


「うむ。賑やかな方が、あれも喜ぶだろうからな」


 大きな身体に似合わず、武人の箸使いも美燕に劣らず上手い。


「みーちゃんのお味噌汁、美味しいねぇ」


 なにを食べる時もそうだが、特に大勢で食事する時の葉弥乃はとても幸せそうだ。


「そうですねぇ」


 静流も同じくらい幸せそうに同意する。


 士郎は今日もいない。


 


 輝く白さが抜け、暖かみのある赤が混じり始めた日の光が照りつけている。


 諏訪家の墓は、安?(あんりやくじ)という寺にあった。


 寺の歴史は古いらしく、本道を見る限り築百年では足りなさそうだ。


 武人達は本堂前で手桶に水を汲み、本堂裏手の墓地に向かった。結構な広さのある墓地は砂地で石畳などは敷かれておらず、少し歩きにくい。


 お盆初日なのだが、まだ陽が高いせいか綺麗に掃除された墓地にはほとんど人影が見えず、香の匂いもまだそれほど濃くない。


「早い時間に来て良かったねぇ、おじさま」


 お供えの花束を抱え直して葉弥乃が言った。


 両親がほとんどの期間海外にいて帰国が不定期な一ノ瀬家では、お盆の墓参りという習慣が無い。一ノ瀬家と諏訪家は古い付き合いであるし、個人的に知っている人物が葬られていることもあり、葉弥乃は毎年諏訪家の墓参りに同行している。


「うむ、去年は車が多くて往生したからね」


 本堂の横を抜けたところでふと見ると、林立する墓石の間を縫うように歩きながら、所々で足を止めて経を上げている老僧の姿があった。


 禿頭に真っ白い立派な髭を蓄えたその老僧は、武人に目をとめて、柔和な表情で手を合わせつつ頭を下げた。


 武人も、ゆるゆると歩み寄ってくる老僧に礼を返す。


 目の前までやってきた老僧は改めて礼をして、諏訪家一行をぐるりと眺めた。


「ご無沙汰しています、住職」


 山羊のような見かけの住職は、笑みを返しつつ頷く。


「うん、この前掃除に来られた時には、会えなくて残念だったよ。そちらのお嬢さんは初めてだね?」


 細い体格ながらも渋味と張りのある声で、住職は美燕に尋ねた。


「はい、初めまして。上泉と申します」


「また、うちの寮を再開することになりまして。その最初の店子です」


「ほ、そうかえ。お嬢さん初めまして、わしはこの寺の住職をしとる応胤(おういん)というものだ。時に、上泉という名は?」


「住職のご想像通りです」


 問いかけの内容を察した武人が答えると、応胤は嬉しそうに破顔した。


「そうかえ、そうかえ。あの屋敷もまた賑やかになるの。ほんに、よいことだ」


 何度も頷いてから葉弥乃や静流にも一声掛けると、ひとつ手を合わせ、応胤はまた墓石の間へと戻っていった。


 何気なくその後ろ姿を眺めていた美燕は、応胤の足下が、砂地の上だというのに、石畳の上を歩いているように安定していることに気がついた。


「さすがに目敏いね、みーちゃん」


 美燕が応胤の歩き方に目を取られていると、その様子に気がついた葉弥乃が声を掛けてくる。


「あのご住職様、槍の達人だよ。もう随分前に引退したそうだけど」


 なるほど、と納得した美燕は、先に歩き出していた武人の後を追った。


 郊外にあるせいか、安?寺の墓地はかなり広い。その敷地の奥に、諏訪家の墓はあった。墓地全体に管理が行き届いており、諏訪家の墓の周りも綺麗に掃除されていた。


 二つ並んだ御影石の墓は、片方が諏訪性で、もう片方は荒木性。


 武人が言うには、荒木という人は屋敷の元持ち主で、武人にとっては義理の叔父に当たる人なのだそうだ。


 砂地に根を張った黒松が枝を伸ばし、僅かな日陰を石の上に落としていた。


 少し前まで誰かがいたのか、二つの墓前には花が供えられ、短くなった線香が白く細い煙を青空に伸ばしている。


 武人達はそれぞれに持ってきた雪洞(ぼんぼり)や花などの供え物をし、線香と水を上げてひとしきり手を合わせた。


「家内は健康だけが取り柄だ、というのが口癖でね」


 合わせていた手を解いて、墓を見つめながら呟くように武人が言った。


 それが自分に向かって言われていることが解った美燕が、居住まいを正す。


「出産の時以外は病院にかかったこともなく、逆にいつも怪我ばかりしている私の心配ばかりしていた。だからなのだろうか、知らないうちに無理を重ねていたのだろうね。あっけないものだった。せっかちなとこともあったからね、私のことも待たずに、簡単にいってしまったのだよ」


 武人は静かに、すうっと立ち上がり、美燕を振り向いた。やや武骨な造りの顔に、優しく大きな笑顔が浮かんでいた。


「家内は賑やかなのが好きでね。美燕くんが来てくれたことも、きっと喜んでいると思うよ」


 どういう顔をすればいいのか解らない美燕は、ただ黙って頭を下げた。


 その後、帰り支度を済ませて本堂まで戻ってきたところで、武人は住職と少し話をしていくと言って本堂に向かい、美燕達三人は本堂横の集会所でそれを待つことになった。


 しばらくそうしていると、住職の奥さんらしい老婦人が冷たいお茶とお菓子を持ってきてくれたので、三人は腰を落ち着けることにする。


「好きなだけ飲んで構わないからね。足りなければ、新しいものを持ってくるから」


「ありがとうございます」


 愛想のいい老婦人から、山盛りの菓子とピッチャーごと出された茶を受け取り、美燕達は礼を言って頭を下げた。


「暑さ寒さも彼岸まで、とかいうけど、お盆になったばっかりじゃまだまだ暑いね」


 冷茶をそれぞれのコップに注ぎなから、葉弥乃は言った。どうやら水出しらしい緑茶からは、爽やかな香りが漂っていた。


「彼岸って、秋分の日のことでしたっけ?」


「春分の日と秋分の日の、前後一週間のことだそうですが」


「物知りだねぇ、みーちゃん」


 ここしばらく、何度となく繰り返されている他愛ないやりとりが少し続き、不意にふつりと会話が途切れた。


 それを良い頃合いと見たのだろう、美燕が単刀直入に切り出した。


「あまり立ち入ったことを訊くのも失礼とは思うのですが……。なぜ、士郎さんは、来られなかったのですか?」


 美燕の表情は静かだったが、声の調子にほんの少し怒りの色が混じっている。


 いつかのように、葉弥乃と静流が顔を見合わせた。


「出発する時に、誰も探そうとしませんでした。初めてではないのですね? 士郎さんが来られないのは」


「うん、そうだけど」


 美燕が苛立っている理由に見当がつかないのか、葉弥乃が不審そうに答える。


「士郎さんは、お母様とも折り合いが悪かったのですか?」


「んーん、そんなことないよ。あたしもちっちゃいころ可愛がってもらったけど、覚えてる限り凄く優しい人だったし。士郎がおばさまを嫌う理由なんかないはずだけど」


 きゅっと美燕の眉根が寄る。


「ならば、どうして来ないのですか。故人に対して礼を欠いていると思うのですが。武人さんは立派な方だというのに、そのご子息であるところの……」


「あの」


 棘のある口調で言い募ろうとした美燕を、静流の小さな声が遮った。


「お兄ちゃんは、お母さんのお墓参りに来たくないわけじゃないんです」


 向けられる美燕の視線を受けながら、困った顔で静流は続ける。


「さっきお墓に、お花とお線香が供えられてましたよね? あれ、多分お兄ちゃんです。お兄ちゃんがお母さんを粗雑に扱うなんてこと、絶対にありませんよ。……お兄ちゃんは、お父さんと一緒にくるのが嫌なんです」


「武人さんと?」


「お兄ちゃん、お父さんとあまりうまくいってませんから……。お父さんの方は、お兄ちゃんが可愛くてしょうがないみたいですけど」


 美燕の眉間の皺が深くなる。


「……なにが不満なのですか?」


「え?」


「士郎さんは、なにが不満なのですか? 武人さんからは後継者として望まれ、故人とはいえ優しいお母様がおられて、とてもいい方々に囲まれて。一体、なにがそんなに不満なのですか?」


 語気が荒くなる。


 目の前にいる葉弥乃や静流が悪いわけでもないのに、苛つきが口をつく。


「私には理解できません……!」


 美燕の吐き捨てるような口調に、静流が傷ついたような、怯えを含んだ顔になる。


「みーちゃん?」


 取り立てて大きな声では無いが、はっきりと咎める響きのある葉弥乃の問い掛け。


 はっ、と我に帰った美燕は、子供を叱る母親の目をした葉弥乃と目が合う。


「どうしたの? ちょっと、らしくないんじゃない?」


 そう言われて、初めて萎縮した様子の静流に気付き、美燕は罪悪感に駆られる。


「……すいません、言葉が過ぎました。でも、やはり、納得できません」


 気まずい沈黙が降りる。


 だが、それからすぐに武人が戻ってきたので、その話題はそのまま済し崩しに終わったのだった。


 


      **********


 


 一般的には北国に属するこの地方では、お盆に入ると早くも暑さの質が変わってくる。


 どこがどうというわけではないが、日差しの中にほんの少しづつ秋の匂いが混じってくるのだ。


 しかし、たとえ暑さの質が変わろうとも、暑いことには変わりがない。


 例によって暑さが苦手な士郎は、稽古場の床にへばりつくようにして俯せになり、暑さをしのいでいた。


 稽古場は風通しがよく造られていて、窓を全部開け放つと随分涼しくなる。その上で床に寝転ぶと冷たくて気持ちいいのだった。


 同じく士郎の隣では、蘭が溶けたように平たくなっている。


「たのもー」


 気の抜けた声が、稽古場の入り口からかかる。


 士郎が首をねじって声の方を見ると、コンビニの袋と刀袋を下げた水上が、よっ、と片手を上げて挨拶してきた。


「相変わらずダレてるなぁ」


 サンダルを脱いで稽古場に上がってきた水上は、士郎のすぐ隣であぐらをかくと、コンビニの袋を開いた。


「ガリガリ君とホームランバー、どっちかいい?」


「バニラバー」


「家の人たちの分は冷蔵庫に入れておいたからな」


「ひとんちに勝手に上がるな」


「そういうことは、ちゃんと戸締まりするうちの人間が言うことだと思うけどな。なんか盗りに入ったどころか、お土産置いてきたんだし」


「冗談だよ」


 士郎は億劫そうに起き上がり、のろのろとアイスの包み紙を剥がし始めた。


「他の人たちは墓参りか?」


「多分そうだろ」


「いい加減だな。家の人間がなにしてるか知らないのか?」


「あんまり、家にいないんでね」


 蘭がガサガサと音を立てて、アイスの冷気が残っているビニール袋に頭を突っ込む。


「そういや訊いてなかったけど、どうなったんだ?」


「なにが?」


「うちの店子と」


 四角く青いアイスの角をかじりとり、ああ、と水上は頷いた。


「空振り、かな」


「ふうん。どうでもいいけど、お前も酔狂な奴だよな」


「ん?」


「好きこのんで、相手を探す必要もないだろうに」


「お前にも、わかんないかね。真剣勝負、したことないのか?」


「週に最低四回は親父とドツキ合ってるけどな。少なくとも、俺はいつも本気だぞ。親父はどうだか知らんけど」


「そうじゃない、仕合さ」


「試合?」


「仕合」


「なんか違うのか?」


「意味が違う。一度でも、そう言える勝負をしたことがあるなら、解るさ。そうだな、ちょっとやってみるか? 一度、お前とはやってみたかったからな」


 軽い口調だが、明らかに本気がこもっている。


 糸目の瞳が僅かに色を変え、左手が刀袋に伸びていた。


 それに気付いていないわけではないだろうが、士郎はつまらなそうに目を細めた。


「やめろよ。前にも言ったろ、俺は(これ)に一生を捧げるつもりなんか無いんだ。目的を達したら、すぐにでもやめるつもりだってな。……俺は、お前らみたいにはならないし、なれないよ」


 複雑な感情の動きがこもった士郎の言葉に、水上は雰囲気を和らげ苦笑いする。


「つまらん奴だな。お前の目的ってのを訊いたこと無いけど、色々な人間とやるのはその目的とやらにも役に立つと思うんだけどな。ま、お前にはお前の考えがあるんだろうけどさ」


「悪いな」


「悪いと思うなら、少しはつきあえよ」


 唇を尖らせる水上に、ひとしきり笑い声を上げると、士郎はふと振り返った。


「どうした?」


「親父達、帰って来たみたいだな。葉弥乃んちの車の音がする」


「お前耳良いな」


 首を傾げながら耳を澄ませていた水上は呆れたように言って、じゃれつく蘭からビニール袋を取り返し、アイスのゴミを入れて立ち上がった。


「帰るのか?」


「ああ、近くまで来たから寄っただけだしな。上泉さんはあんまりオレと顔合わせたくないだろうし。お盆に長居するのも悪いだろ。また改めて寄らせてもらうよ」


 じゃあな、と立ち去る水上を見送り、士郎はまた横になった。


「もう一眠りするか……」


 


     **********


 


「士郎さん、少しよろしいですか?」


 うつらうつらと舟を漕いでいた士郎は、その棘を感じる声に起こされた。


「……ん?」


 士郎は寝ぼけ眼をしばしばさせながら上体を起こす。床に押しつけていた顔に、くっきりと床の継ぎ目がついていた。


 窓からの日差しが落とす影の位置があまり動いてないところを見ると、二度寝してからそれほど時間が経っていないようだ。


「あんたか、なんか用かい?」


 眠たそうな表情であぐらをかく士郎を厳しい目付きで見下ろし、美燕は口を開く。


「お話があります」


「はなし? ……なに?」


 妙な雰囲気を察したのか、士郎の顔が警戒を滲ませる。


「なぜ、皆と一緒にいかないのですか?」


「は?」


「お母様のお墓参りのことです」


 眉間に皺を刻んだ美燕が鋭く厳しい口調で問い正す。


 士郎にとってあまり嬉しくない話題な上、妙に喧嘩腰なのも士郎の気に障った。


「あんたには関係ないだろ」


 返す士郎の声と口調にも不機嫌さが隠せない。そのぶっきらぼうな物言いに、美燕の表情もさらに険しくなる。


「確かに直接の関係はありません。ですが、だからと言って目前で行われている不義理と見逃すことはできません。一体なにが不満なのです。ご自分がいかに恵まれているのか、解っておられないのですか!」


 後半はほとんど怒鳴るように口調が荒くなる。


 完全に眠気の去った士郎は激昂しかけたようだが、すぐにそれを押し殺した士郎は黙って立ち上がった。


「どこにいかれるのですか? まだ話は終わっていません!」


 美燕の追求には答えようとせず、士郎はすれ違いざまに、無理矢理押さえ込んだ怒気に溢れた言葉を吐き捨てた。


「なにも知らないくせに勝手な事言うんじゃねえよ、お嬢様がっ……!」


「っ?!」


 一触即発の気配が膨らむが、士郎はそのまま振り向かずに稽古場を後にした。


 後には、火の出るような目でそれを見送る美燕と、お互いの腹の底に沈んだゴロゴロと角張った怒りだけが残った。


 


         四


 


 また幾日が過ぎ、夏休みも終わりに近づいてきた頃、町に祭りの日がやってきた。


 この町には年間に何回かの祭りがあるが、この辺りの一の宮、諏訪神社で行われるこの夏祭りが一番盛大で、地元の人間は皆この祭りを楽しみにしていた。


 そして、そういうイベントが好きな人間がここにも一人。


「さあさあさあ! 登り台輪も見たし、今日からは遊ぶわよ〜〜!」


 不必要に力強いガッツポーズで葉弥乃が吠える。


 祭り初日の早朝、まだ静謐な空気が残っている人通りの少ない路地を、諏訪家一行は家路についていた。


 神社の境内に大きな台輪が集う登り台輪を見物した帰りである。


 大きく派手な台輪に関わらず、静かな行列はどこか厳かな雰囲気を持っていて、初めてそれを見た美燕は、なかなか興味深く眺めることが出来、それなりに満足していた。


「だからなんでそんなに元気なんだよ、お前は……」


 今にも倒れ込んで寝てしまいそうな様子の士郎が、目をしばしばさせつつ呻くように言った。どうも、朝は苦手なようだ。


「人生にかける気合いが違うのよ、気合いが。ね、みーちゃん?」


「え、あ、はい、そうですね」


 突然話を振られた美燕は、ちらり、と一度士郎の方へ振った視線をすぐに戻し、曖昧に頷いた。


 少し前の一件から、もともと仲がいいわけでは無かった士郎との関係は、より一層ぎくしゃくしたものになっている。


 葉弥乃なり静流なりはそれを感じているのだろうが、原因が判らない二人にはどう触れていいものか判断がつかないようで、手を出しあぐねている様子だ。


 幸い、士郎と二人きりになったりする機会もないし、今のところは進退窮まっているようなわけでもないので、そのままずるずると来ている。


「で、どうする? お昼から見て回ろうか。それとも夕方からにする?」


「そうですね……せっかく葉弥乃に見立てていただいた浴衣がありますので、夕方からの方がいいかと」


「静流ちゃんは?」


「わたしもそれで良いと思います」


「んじゃ、そうしよう。五時頃迎えにいくから、それでいい?」


 葉弥乃の言葉に美燕と静流が頷くと、士郎がぽつりと訊いた。


「俺には訊かんのか?」


「あんたはどーせ起きたら型抜きでしょうが。訊くだけ無駄よ」


「……祭り小遣いくらい稼いだ方がいいだろが」


「祭り小遣いはやっただろう。足りんのか?」


 一行の最後尾で、子供達のやりとりを微笑ましく眺めていた武人が、士郎の言葉に不思議そうに首を傾げる。


 一瞬言葉に詰まった士郎は、ふい、とそっぽを向いて、素っ気なく言った。


「指先使うのが好きなだけだよ」


「葉弥乃、型抜きとはなんですか?」


「みーちゃん見たことない? 祭りに出るちょっとしたゲームみたいなもんよ。出店回る時に、ちょっと寄ってみようか。見た方が早いし」


 他愛のない会話を交わしながら、一行はのんびりと歩いて行く。


 朝日は色を濃くしていく。


 今日は良い天気になりそうだった。


 


「さ! まずはざっと見て回りましょうか!」


 神社前の大通りにずらりと並んだ出店を前に、葉弥乃が溌剌とした声を上げる。


 なんだか本当に嬉しそうな様子で、今時小学生でもこれほどテンションを上げないだろうと思うほどだ。


 いい加減そういう彼女のノリに慣れてきてはいるものの、なんとなく苦笑いを浮かべつつ、境内に足を運ぶ葉弥乃と静流の後を美燕は追った。


 広い境内にはそれぞれの町内が保有する台輪が何台もずらりと並び、なかなかに壮観な眺めだった。オレンジ色の光に照らされた神社の鳥居内にも多くの出店が並び、よく賑わっている。


 本殿に賽銭をあげてお参りを済ませた葉弥乃一行は、夜店を片端から見ていくことに決めて歩き出した。


 夜店巡りの面子は、葉弥乃、美燕、静流の三人。もちろん浴衣着用だ。


 ちなみに士郎は帰宅後二度寝したかと思うと、昼頃起きてきてふらりといなくなってしまい、武人は町内会の飲み会に呼ばれているとのことで、今日は帰りが遅くなるそうである。


「なにか軽く食べようか?」


 大通りの夜店に比べて飲食系が多い境内を見回す葉弥乃の浴衣は、薄紅色基調に朝顔の模様があしらわれたもので、赤い帯は雲雀(ひばり)に結ばれている。腰に当てた手からは、桃色の巾着が揺れていた。


「甘い物の方がいいです」


 おでんや焼きそばなどの、しょっぱい物中心の夜店を覗きつつ、静流が答える。こちらは白地に金魚柄の浴衣で、グラデーションのかかった帯は、蝶々の羽のような四つ葉。


「みーちゃんは?」


「私は、よくわからないのでお任せします」


 美燕の浴衣は葉弥乃と同意匠で、薄い水色基調の涼しげなものだ。帯は鮮やかな青。美燕は浪人結びしか知らなかったので、例によって葉弥乃とのすったもんだが少々あったのだが、今は葉弥乃と同じく雲雀に結んでいた。


 着慣れていない、というか慣れない帯に違和感があるのか、どこかぎこちなさが残っていて少々浮いた感じを受ける。水着の時にも身の回りから離さなかった刀袋がそれに拍車をかけているのは確かだが。


「んじゃ、適当に見て回りながら、美味しそうなのがあったらつまむってことで」


 沈みかけた太陽が空を赤く染め、そろそろ人が増え始める時間になりつつある。


 やはりというかなんというか、三人の夜店巡りは食べ物中心となった。それはもう、食い倒れるつもりかと思うほどの喰いっぷりだった。


 最初が甘い物だっただけで、その後は、お好み焼き、明石焼き、おでん、焼きそば、フランクフルト、シシカバブ、ホットドッグ、伸しイカ、ラムネ、フラッペにアメリカンアイス。さらにはリンゴ飴やアンズ飴、べっこう飴のの定番からチョコバナナ、ローカルな蒸気パンなどに至るまで。一人一つずつ食べたわけではないものの、見ている人間が少し引いてしまうほどに手当たり次第だ。


「あれ? 一ノ瀬じゃないッスか」


 聞き覚えのある声に三人が振り向くと、紺の浴衣姿の見覚えがある糸目が近づいてくるところだった。


「おお、今日は三人とも浴衣なんスね。可愛いッスよ」


 すいすいと人混みを避けてきつつ如才なく褒め言葉を口にする水上の後ろから、少しキツめの目元が特徴の、赤い浴衣に緑色の帯という出で立ちの少女が、水上の背中に不機嫌そうな視線をぶつけながらついてきた。


 ポニーテールを揺らしたその少女が、美燕に気付くとなにやら複雑な顔をしたのに美燕は気がついたものの、美燕の方は少女に見覚えが無い。


「この間はどうも」


 その少女は美燕の前まで来ると、美燕の顔色を窺いつつ頭を下げた。


 その声に聞き覚えがあるような気がするものの、まだ訝しげな表情を浮かべる美燕を見た水上が、少女を肘で軽く小突いた。


「誰だかわかってないみたいッスよ。確か、上泉さんに顔見せてなかったっスよね?」


 言われて、少女が慌てて自己紹介する。


「ご、ごめんなさい。わたし、須藤旭子(すどうあきこ)です」


「須藤? ああ、あの時の」


「その節は、その、勉強させていただきました」


 改めて頭を下げる須藤。


「いえ、こちらこそ……」


 美燕の語尾が曖昧に揺れる。


 妙な間が空きそうになったところで、葉弥乃が思い出したように訊いた。


「そういえば水上、あの馬鹿見なかった?」


「士郎っスか? 昼間は神社横の型抜き屋にいたっスけど、会わなかったスか?」


「覗いてみたけどいなかったよ。もう帰ったかな」


「ハシゴしてるんじゃないっスか? あいつ稼ぎすぎてよく追い出されてるっスから」


「ふうん、ま、いいわ。じゃ、あたし達もういくから。あんた達も楽しんでね」


「うっス」


 別れ際に美燕へ一つ会釈をして、水上達は神社の方へ歩いて行った。


 夜店周りを再開した葉弥乃達は、その後もそれなりに知った顔と行き会ったが、美燕に見覚えがあったのは最初にあった二人だけだった。


 葉弥乃が言うには何人かクラスメイトもいたそうだが、美燕にはさっぱり判らなかった。ほんの何時間くらいしか教室にいなかったし、会話もろくに交わさなかったのだから、仕方がないと言えば仕方がないが。


 そして夜店の列が途切れる商店街の終わりにつく頃には、随分遅い時間になっていた。真っ直ぐくればそれほどの距離ではないが、一つ一つの夜店を覗いてきたので、少し時間が掛かったのだ。


「どうする? お城の方まで足伸ばしてみようか?」


 変身ヒーローのお面を斜めに被り、黒い出目金の入ったビニール巾着と水風船を下げた、これでもかというお祭りルックの葉弥乃が、二人に訊く。


「そうですね。飲み物でも買って、少し休みにいきましょう。美燕さんもそれで?」


「はい」


 葉弥乃と大差のない様相の静流に、美燕が頷く。美燕は生き物系や玩具系には手を出さずに見てるだけだったので、ほとんど荷物は増えていない。


 祭りの喧噪からやや離れてしばらく歩くと、公園のように開けた場所に出た。


 広く大きなお堀と、歴史を刻む城壁に残った物見櫓が、控えめな照明の中に浮かび上がっている。この町にある城は、すでにその本体を失っており、堀に正門、物見櫓の一つだけが完全な形で残っていた。正確には城ではなく、城跡と呼ぶべきだろう。


 お堀周りの遊歩道には桜の木がずらりと並んでいて、その枝振りから春にはさぞ見応えがあるだろうと思われた。


 ちらほらと人影が見えるが、休憩には神社近くの公園の方が向いているせいか、それほど多くはない。


 物見櫓までは自由に出入りできるのだ、と葉弥乃に説明されながら、遊歩道にある石造りのベンチに並んで腰を掛ける。


「結局全部見てしまいましたね」


 ライトを反射するお堀内の噴水を眺めて、美燕が息をついた。


「うん。でも、お祭りの間、少しだけど夜店の内容も変わるし、昼間にはイベントもあるから」


 冷たいお茶の缶を開けながら、ご機嫌な葉弥乃が答える。


「葉弥乃、それに静流さん」


 改まった美燕の声に、二人は茶を飲む手を止めて顔を向けた。


 美燕は立ち上がると、二人に向かって深々と頭を下げた。


「ありがとうございます」


 不意に示された感謝の言葉に、葉弥乃と静流は顔を見合わせた。


「知り合って間もないというのに、お二人には本当に良くしていただいています。こんな言葉だけでは、全然足りないとは思いますが……」


「なに言ってんのよぅ、みーちゃん」


 ほのかな外灯の光に、葉弥乃の優しい笑顔が照らされる。


「最初にお世話になったのはこっちだもの。そんなの恩返しにもならないよ。だってこっちもみーちゃんと一緒にいるのは楽しいもの。ねえ?」


 葉弥乃に話を振られた静流も笑顔で頷く。


 表情にも、言葉にも、真情と優しさが溢れていた。


 じわり、と美燕の胸の内が暖かくなる。


「……ほんとうに、ありがとうございます」


 もう一度ゆっくりと、美燕は頭を下げた。


 長い年月そこに佇んでいた物見櫓は、ささやかな灯りに照らされ、それを見下ろしていた。


 


     **********


 


 士郎が歩く度に、アーミーパンツのポケットがジャラジャラと鳴る。


 昼前から繰り出してハシゴを繰り返したので、祭りの間充分遊んでいられる小銭が稼げてしまった。


 食べきったアンズ飴の串を咥えたまま、ふらふらと夜店を冷やかして歩く。


 葉弥乃達とどこかで擦れ違うかと思っていたが、行き違ったらしく見かけなかった。


 ふと伸しイカの匂いが鼻をくすぐり、蘭に買っていってやろうかと一瞬思ったが、すぐに猫はイカが食べられないことを思い出す。


 立ち止まって見回すと、何人かが並んでいる蒸気パンの屋台が目に入った。


「土産でも買っていくか」


 蘭には後でコンビニから猫缶でも買っていってやろうと思いつつ、士郎は列の最後尾に並んだ。


 


     **********


 


 祭り中日の夕方。


「あれ?」


 今日は文化会館で行われるイベントを見に行く為、諏訪邸へ迎えに来た葉弥乃が、玄関から出てきた美燕を見て、思わず口にした。


「いつものやつ、どうしたの?」


 昨日と同じ浴衣姿の美燕の手には、いつも携えている刀袋が無い。


 問われた美燕は、少しぎこちなく笑った。


「もう、必要のないものですから」


「ふうん?」


 いまいち納得のいかない顔ながら、葉弥乃はそれ以上訊ねなかった。


 


 落ち着かなさげに左手を握り、開く。ぶらぶらと振って、帯の辺りを意味もなく触る。


 イベントの行われる文化会館は、商店街通りの中程で大きな十字路を曲がったところにある。商店街通りは今日も人通りが多いものの、多少離れて歩いたところではぐれてしまうほど混雑もしていない。


 美燕は、並んで歩く葉弥乃と静流から、一歩下がって歩いていた。


 左手の軽さに、そこはかとない不安を感じる。


 今までも持ち歩かない日はあったはずなのに、言いようのない感覚がずっとついて回っていた。


 仕方ないと言えばそうなのだろうが。


 きっと、そのうち慣れるだろう。慣れなければいけない。そう美燕は自分に言い聞かせる。


「どしたの? みーちゃん」


 いつの間にか、二人との距離が離れていた。美燕は、なんでもありません、と首を振って、足を速めた。


 今日文化会館で行われるイベントは浴衣美人コンテストだ。かなり時間的な余裕を見て家を出たはずなのだが、葉弥乃達が会場に着いた頃には席が全部埋まっており、立ち見になってしまった。


 大盛況の会場は美人コンテストということで男性客が大半だが、女性客も意外に多い。


 やがてコンテストが開始されると、充分空調が効いているはずの館内がぐっと熱気に包まれ、プログラムが進むごとにボルテージもどんどん上がっていく。


「な、なんだか凄いですね」


 大量の人間というものにもとから慣れていない上に、大がかりなイベントというのが初めての美燕は、気圧されながら呟く。


「あはは、この町の人って、お祭り好きが多いからね」


 お祭り好きの筆頭が、美燕の反応に笑いながら答える。


 ふと、ステージ上の一際華やかな女性が、壁際で立ち見をしている美燕達に気付いて、小さく手を振ってきた。


「?」


 見覚えが無い相手に首を傾げていると、葉弥乃と静流が女性に手を振り返す。


「お知り合いですか?」


「『ぶらうにー』の店長だよ」


「え?」


 慌ててステージ上の女性を見直す美燕。確かに、いつもと化粧の仕方が違うのでパッと見には分かり難いが、確かにあの洒脱な女店長のようだ。


「本当ですね」


 感心が溜息のように口から漏れる。


「あの店長もお祭り好きだから。こういうイベントがあると必ずいるのよね」


 葉弥乃のその言葉に、美燕は首を傾げて訊いた。


「葉弥乃もお祭りが好きなのでしょう? どうして出場しなかったのですか?」


「あたし? あははは、柄じゃないって。それにこのコンテスト、参加資格が高校生以上なのよ。あ、そうだ、みーちゃんのことエントリーしておけばよかったかな。みーちゃんなら高校生で通っただろうし、書類審査なんていい加減なもんだしね」


「そんな、私なんて……」


「みーちゃん」


 じっと自分を見つめる葉弥乃の目に、美燕は言葉を途切れさせた。


「『私なんて』とかって言葉、使わない方がいいよ。それは悲しい言葉だから。ね?」


 小さな子供に言い聞かせるような優しい声色に、美燕はちょっと赤面しながらステージに目を戻した。


 ふと、ほんの一月前この町に着たばかりの時、駅前の観光案内所で、このコンテストのポスターを見たことを思い出す。


 あの時は想像すら出来なかった浴衣姿。他人にどう見えているかはともかく、自分はその姿で今ここにいる。


 このまま変わっていければいい、そう思った。


 


 突然、木材が叩きつけられる音と、ガラスの割れる音が通りに響く。


 コンテストを見終えた美燕達が、喫茶店前の長椅子でかき氷を食べていた時だ。


 騒音の元は少し離れた駐車場に設けられた露店の飲み屋で、三人が駆けつけた時には、すでに人だかりができていた。


 葉弥乃が野次馬の一人をつかまえて、何事か尋ねる。


「おう、葉弥乃ちゃんか。なに、酔っ払いの喧嘩だよ」


 顔見知りだったのか、痩せぎすの中年男は愛想良く答えた。


「けんかぁ? 珍しいねえ」


「ああ、余所もんみてぇだな」


「じろじろ見てんじゃねえぞ、コラァ!」


 葉弥乃と中年男のやりとりが、酔っ払いの下品な怒鳴り声で遮られる。


 その品というものが感じられない声に、美燕の眉がぴくりと小さく動いた。


「なんかあったんスか?」


 意外なほど近くで聞こえた声に、美燕が驚いて振り向くと、刀袋を肩に担ぎ持った浴衣姿の水上が片手を上げて挨拶してきた。


「ういっス。よく会いますね」


 見慣れてきた糸目が、笑みの形に変わる。


「あれ? 今日はお一人ですか?」


 静流の問い掛けに、水上は愛想良く答える。


「旭子を家まで送ってきた帰りっス。それより喧嘩っスか? まだ誰も止めに入ってないみたいっスね」


 きらん、と糸目が光る。


 引き続き別の野次馬の一人と会話を交わしていた葉弥乃が、水上を目にとめて言った。


「あ、水上。ちょうど良かった。なんか、止められる人間が出はからってるみたいなの。頼める?」


「OKっス。ほんじゃ邪魔が入らないうち……もとい、怪我人が出ないうちにオレが止めてきましょう」


 嬉しそうな笑顔を浮かべて刀袋の口紐を解きつつ、水上は現場に足を向ける。


 美燕は慌ててその背中に声を掛けた。


「水上さん、私も」


「駄目っス」


 助太刀します、と口にしかけた美燕の言葉を、水上は即座に斬って捨てた。


「深くは訊かないッスけど、上泉さんは手を出さない方がいいんじゃないっスか?」


 肩越しに言われた水上の言葉に、美燕は今の自分が無手だということに気付く。


「大丈夫です、無手でも多少の心得は」


「そうじゃないっス」


 またも全部を言わせずに被せる。


「上泉さんは、手を出しちゃ駄目っス。決めたんじゃないっスか?」


 静かな声に、美燕ははっと胸を押さえた。


 水上は、ほんの少し寂しそうな笑いを見せる。


「ま、ここはオレ一人で充分っスよ」


 言うが早いか、水上の背中は野次馬の向こうに消えた。


「任せておいて大丈夫よ。みーちゃんほどじゃないけど、あいつだって強いんだし」


 葉弥乃の声が、遠くから聞こえたような気がした。


 その時美燕の心を支配していたのは、なぜか自分が置き去りにされたような、深い寂寥と孤独だった。


 そしてこの騒動は、水上が割って入ったことであっけなく解決した。


 


         五


 


 美燕は一人、人混みに逆らって歩いていた。


 夜の駅前通りは、三日続いた祭りの締めである帰り台輪を見に来た観客で溢れかえっていて、その人混みをかき分けるように美燕は城方面に向かっていた。


 諏訪家の面々と帰り台輪を見に来たのだが、 商店街通りから駅前通りに出た辺りで、気がついたらはぐれてしまっていた。


 昨日から注意散漫になっていたことに加え、観客のあまりの多さに、はぐれたことに気付くのが遅れてしまった。慌てて一行を捜して歩き回ったものの、周りは観客でごった返しているし、運も悪いのかまったく見つからない。


 しばらく商店街通りの辻で一行が通らないか待っていたが、その気配もなかった。


 一応諏訪家の電話と葉弥乃の携帯の番号を知っているので、いざとなればそちらに連絡すればいいと思い直し、丁度一人になりたかったこともあり、美燕は雑踏に一人歩み入った。


 まだ帰り台輪が始まるまでには時間があるので、人が多い割には流れが滞っていないが、流れに逆らって歩くのはそれなりに骨が折れた。それでもなんとか人混みを抜けて城まで出た美燕は、大きく深く息をつく。


 皆、帰り台輪を見るために通りの方に行っているのだろう、城周辺は昨日に増して人気が無い。開け放たれた城門が目に入った美燕は、なにかに誘われるように門を潜って中に入った。


 城内は外と同じく人気が無い。申し訳程度の照明が、物見櫓の入り口までを照らしている。


 櫓と入っても小さい城のような造りで、古ぼけた階段をきしませつつ上に上がると、八畳程度の広さの物見部屋も無人。


 高さもせいぜいビルの三・四階程度しかなく、見下ろすというより横に眺めるような感じだ。祭りや通りの灯りは見えるが、それも灯り程度しか見えなかった。


 自分以外には誰もいない。


 それが随分久し振りだということに美燕は気付く。


 諏訪邸に来てからというもの、常に誰かしらが側にいたので、それに慣れていた。


 それはけして不快なことではなく、煩わしくもない。むしろ、そのおかげでどれだけ救われているかわからない。そう、葉弥乃や静流には感謝している。嘘ではない。


 だが、それでも。


 美燕は自分の左手を見下ろす。


 そこには、昨日は手にしていなかった紫の刀袋が握られていた。


 持ってこようと意識したわけではない。物思いに耽っていたために、無意識に持ってきてしまったのだ。


 長年の習慣は、一朝一夕には無くならない。


 刀袋越しの堅い感触に、慣れ親しんだ安心感が広がる。たった一日手放していただけなのに、自分がどれだけ不安を感じていたのかを自覚する。


 首を回して、美燕は物見窓を見た。


 当然ガラス戸など無く、板戸が開けっ放しの窓だ。


 微かにお囃子の音がそこから入ってくる。帰り台輪が始まったらしい。


 黒ずんだ木の手すりに手を掛けて窓から通りの方を眺めると、神社の方から灯りがゆるゆると伸びていくのが見えた。


 その暖かな光は、美燕の中から一つの記憶を呼び覚ました。


 それは、古い、古い記憶。


 その日も、遠くに祭りの灯を見ていた。


 


 美燕が物心ついたばかりの頃。


 最初で最後、父が遊びに連れていってくれた時の事。


 近隣の村々が共同で行う大きな祭りの中、生まれて初めての人波とそれが生み出す雰囲気に酔った少女は、気がつくと人混みの中で一人になっていた。


 一人になった少女の興奮は、簡単に恐怖へすり替わった。


 父を呼びながら、その姿を探す。


 少女に対して手を差し伸べようとする者もいたが、怯えた少女の目に、見知らぬ人の手は恐ろしいものにしかうつらなかった。


 泣きながら父を捜し、見知らぬ手から逃げ、走り続けた少女は、いつの間にか祭りから離れた石段の上で立ち尽くしていた。


 辺りは暗く人気もない。


 ただ遠くを流れる河のような祭りの灯が見えるだけだ。


 孤独と恐怖から抜け出そうとした少女は、さらに深みへはまったことを知った。


 暗闇と空腹が少女の内へ染みいってくる。


 少女はうずくまって啜り泣き始めた。


 大きな声で泣くほどの体力は残っていなかったし、自分の声が暗闇から何かを呼び寄せてしまうような気がしたから。


 どれだけの間そうしていただろう。不意に闇の中からかけられた声に、少女は涙と鼻水でグシャグシャになった顔を上げた。


 目の前に父がいた。


 とても、怖い顔をしていた。


 怒られる、と思った少女は、父が手を伸ばすのを見て、目を閉じて身を竦めた。


 しかし、父は少女をぶつわけでも叱るわけでもなく、ただ何も言わずにその手をとり、ゆっくり石段を下り始めた。


 父の顔にどんな表情が浮かんでいるのか、少女からは見えない。


 安堵から、少女はまたしゃくり上げ始める。


 父はやはり何も言わず、ただほんの少し強い力で少女の手を握っていた。


 それは、どんな言葉よりも頼もしく、確かな感覚で。


 その手は、とても暖かかった。


 


 捨てられるわけがない。


 握り続けた剣は、あの日の父の手だった。


 辛い鍛錬に耐えてこられたのも、それを手放すことで、また孤独の中に落とされるのが怖かったからだ。


 剣を握り続けること、強くなり続けることで、孤独から逃げ続けてきたのだ。


 そうして過ごした日々は、美燕の一部、血となり肉となった。


 剣を捨てるということは自らの身体を引き裂くことと同意であり、何よりそれは、あの日の温もりをも捨て去らなければいけないことを意味していた。


 それらは、父と共にあった日々の中では考える必要のなかったことであり、無意識に考えないようにしていたことでもあった。


 我知らず、美燕は紫色の刀袋を抱きしめていた。


 いつの間にか、布越しの故郷の香りは薄れている。


 胸の痛みは、薄れてなどいなかった。


 あの日のように、鬼灯(ほおずき)色の河が闇の中を流れている。


 だが、差し伸べられるはずの手が、そこには無かった。


 


     **********


 


「もう三日だよね。みーちゃん、どうしたんだろう」


 諏訪家の居間で、扇風機の前に寝転がる蘭の耳の後ろを掻いてやりながら、葉弥乃が静流に呟いた。


 美燕はここ数日、必要がない限りは自室に閉じこもっている。食事の時なども上の空で、話しかけても会話にならないのだ。


 静流は麦茶の用意をしながら答えた。


「上り台輪を見に行った時にはぐれてからですよね、美燕さんの様子がおかしくなったのって」


「……うん。ねえ、静流ちゃん」


「なんです?」


「悩みとか哀しみとかって、自分で乗り越えないと意味ないとかいうじゃない? じゃあ、周りの人がその人の為にできることって何もないのかな?」


 喉を鳴らす蘭の顔をぼんやりと眺めながら、葉弥乃は続ける。


「もしそうなら、それって凄く寂しいよね。だって、周のやることが全部余計なことになるってことだもん」


 珍しく弱音のようなものを吐いている葉弥乃に、静流はとっさに言葉が出ない。


「……ごめんね、静流ちゃん。何言ってるんだろうね、あたし」


 疲れたように言って、溶け崩れるように蘭の横へ寝転がる葉弥乃。


「誰かの役に立つなんて、無理なことなのかな」


「葉弥乃さん」


 静流は知っている。


 多分、兄も気付いているだろう。葉弥乃の世話焼きを、一見嫌そうにしながらも受け入れているのだから。


 葉弥乃がしつこいくらいにお節介な理由。


 もちろん本人がそう言ったわけではないし、おそらく昔から家族同然に過ごしてきた静流達にしか判らないだろう。


 葉弥乃は現在、叔母にあたる女性と二人暮らしである。


 仕事柄、海外各地を転々とすることが多い両親は、時には危険な地域にいくこともある自分たちと一緒に、彼女を連れて歩くかどうか悩んだことがある。


 色々と紆余曲折があったものの、葉弥乃の叔母が同居を申し出、武人も保護者になると承知し、さらに幼い葉弥乃が両親に負担をかけまいと日本に残ることを主張したため、安心とはいえないまでも、娘とその周辺を信用して両親は海外へと出ている。


 葉弥乃の両親は善良な人柄である。浅薄な人間でもない。


 だが、見えてないものがある。娘の人格を尊重するあまり見えなくなっているものが。


 いくら聡く賢くとも、葉弥乃はまだ子供だったのだ。自分の望みと、周りの望みとの間で折り合いをつけるには、経験が絶対的に足りなかった。


 その齟齬により沈殿した心の澱は、寂しさという形をとって、葉弥乃の中に根付いている。


 本来の葉弥乃は、誰よりも寂しがりやなのだ。


 だから、誰よりも明るく振る舞うし、常に誰かの側にいようとする。


 美燕に対して初対面から親身だったのも、自分に相通じるものを感じていたのかも知れない。端から見ても、思い入れが強いのがわかった。


 どこまでが献身で、どこからが代償行為なのかは、静流達はもとより、本人にすら解っていないだろうが。


「わたし、難しいことは解らないですけど」


 葉弥乃の方へコップを押し出しながら、静流は静かに微笑んで言った。


「どんなことでも、それが本当の気持ちなら、無駄にならないですよ、絶対」


「そうかな?」


「そうですよ」


 葉弥乃はごろりと寝返りを打ってから起き上がって目の前の麦茶を一気に飲み干し、全身で思い切り息を吐き出した。


「うん、そうだよね。そうだといいね。ありがと、静流ちゃん」


 そう言って笑った葉弥乃は、いつもの葉弥乃だった。


 


          六


 


       **********


 


『お父さんは、なんでもできるんじゃなかったのかよ!』


 違う。


 父は、そんなことを一度も口にしたことは無かった。


 その強さに憧れた少年が、勝手にそう思い込んでいただけだ。


 だが、父は何も言い返してこなかった。


 ただ何も言わず、もの言わぬ伴侶の顔を呆然と見つめていた。


『なんできづかなかったんだよ?! なんで助けられなかったんだよ?!』


 言葉というものが、どれだけ人を傷つけることができるかを知らないゆえの、苛烈な言葉。そこに理屈はなく、深慮もなく、それゆえに純粋なまでの感情が溢れていた。


 少年はまだ知らない。


 言葉がどれだけ強い力で人を縛るのかを。


 言葉が自らに返ってくるものだということを。


 泣き疲れて眠っていた妹が兄の声に目を覚まし、火がついたようにまた泣き出す。


 まるで、泥のように澱んだ時間の中に、彼らはいた。


 


       **********


 


 目を開けると、障子の隙間から朝日が部屋に差し込んでいた。


 むくりと上体を起こすと、かけていたタオルケットが膝の上に落ちる。


 ボリボリと頭を掻き、妙な違和感を感じながら士郎は寝床から抜け出した。


 居間に行くと、他の面子は食事を終えたらしく、ちゃぶ台の上に一人分だけが小さな蚊帳を被せて置いてあった。その横には静流の書き置きがあり、今日は夕方まで学校の友人と出かけるとの旨が、綺麗な字で書いてある。


 時計を見ると、八時を回ったところだ。


 のろのろとジャーから飯を盛りつけたところで、士郎は違和感の正体に気がついた。


 今日は士郎の当番でないにも関わらず、武人の襲撃が無かったのだ。


 得体のしれない気味の悪さを感じながらおかずの蚊帳を開ける。


「?」


 おかずと一緒に、古めかしく左前に閉じられた手紙が置かれていた。


 表には墨字で「士郎様」と書かれている。見覚えのない字だ。開いて中を見ると、二つ折りの紙に短く「朝食後、稽古場までこられたし」とだけ書かれていた。


 なんだか猛烈に嫌な予感を覚えながら、とりあえず士郎は朝食に手を付ける。


 武人でもなく、葉弥乃でもなく、静流が書いたものでもないなら、残りは一人だ。


 無視しようかとも思ったが、ただでさえ険悪になっている関係をさらに悪化させるのもどうかと思ったので、嫌々ではあるが士郎は道場に向かうことにした。


 まさか果たし合いということもないだろうと思いながら。


 士郎は左前に閉じられた手紙の意味を知らなかった。


 もしも知っていたなら、この時点で逃亡を企てただろうが。


 


 食後の茶まで堪能してから自室に戻って着替え、士郎は稽古場へ向かった。


 特に時間の指定もなかったし、遅れていったところで文句を言われる筋合いもない。


「おう、遅かったな」


 身についた習慣で、一礼してから稽古場へ入った士郎に声を掛けてきたのは、隻腕の男・蝮だった。


 思いもかけない人物がいたことに士郎は少し驚いたが、すぐ蝮に会釈する。


 蝮と士郎は顔見知りで、たまに尋ねてきた時に会えば言葉を交わすし、機会は多くないが、怪我をしたりした時には世話になることもある。その伝法な雰囲気も士郎は嫌いではなかった。


 蝮は大きな革の鞄を携えて、稽古場の神棚の下であぐらをかいていた。


 その隣にはやはりというか、武人が立っている。


「待っていたぞ。美燕くん、いいかね?」


「はい」


 道場の真ん中で神棚に向かって正座していた美燕が立ち上がり、くるりと士郎の方を向いた。


 美燕の姿はいつもの剣士姿で、見ると金属板を貼り付けた鉢巻きを着け、手には木刀がある。袴の帯には刀袋から取り外した鉄片が下げられ、身にまとった雰囲気も慣れたものとは明らかに違っている。


 士郎の嫌な予感は最高潮に達した。


「おい」


 士郎は半眼で武人を睨みつける。


「どういうことか説明してもらえるんだよな?」


 士郎の視線を涼しげに受け流し、武人が言う。


「言わんでもわかると思うが、お前には美燕くんと立ち合って……」


「なんで?!」


 皆まで言わせずに言葉を遮ってくる士郎に、武人は怪訝な顔をする。


「お前、茶の間に手紙を見てきたのではないのか?」


「そうだけど」


「左前の手紙は果たし状だぞ、知らんのか?」


「は?!」


「最近のガキはモノを知らねえな」


 顎が落ちそうになっている士郎を見て、蝮が面白そうに笑う。


「なるほどな。お前のことだから逃げ出すと思っていたのに、馬鹿正直にやってくるから変だとは思ったのだ」


 一人納得の体で頷く武人に、士郎がさらに噛みつく。


「大体、立ち合う理由がないだろうが、理由が?!」


「理由か? 美燕くんの方にはあるのだがな」


 身動き一つせずこちらのやりとりを見守っている美燕をちらりと見てから、武人は士郎に目を戻す。そして、至極真面目な顔で言った。


「ならば、理由を作ろう。もしもお前が美燕くんに勝てたら、お前を無理に跡継ぎにするのはやめよう」


「なっ……?!」


「もちろん、お前が嫌がってる修練もやらなくていいし、朝の襲撃も止めてやろう。どうだ?」


「あ、あのなぁ!」


 なにか反論しようとした士郎の首筋を、冷たいなにかが撫でた気がした。


 士郎が弾かれたように仰け反る。


 一瞬前まで士郎の首があった空間を、何かが空気を切り裂きながら走り抜けた。


「いつまで、無駄なおしゃべりをしているおつもりですか」


 慇懃にして冷徹な声。


 いつの間に間合いを詰めてきたのか、士郎には判らなかった。


 美燕は刀の間合いのぎりぎり外で構えている。その姿からは、直前に何をしたのかまったく感じ取れなかった。


「貴方の相手はこちらです。勘違いなされぬよう」


 烈風のような一撃を放ったはずの美燕を見た士郎は、美燕が徒手であることに驚いた。


 否、違う。


 軽く落とされた美燕の腰には、右手が添えられた木刀の柄が見えている。刀身の方は背後に隠されているため、士郎からは一瞬徒手のように見えたのだ。


「今の一撃は避けさせました」


 空気を凍てつかせる声。


 その視線は焦点を結んでおらず、どこか虚ろにも見えたが、それにも関わらず士郎は「観られている」ことを全身で感じた。


「次は、斬り(あて)ます」


 殺気を伴った、手触りすら感じられそうな威圧感が士郎の背筋にねじ込まれる。


 跳ねるように鼓動を早める心臓とは逆に、血の気が引いていく頭で士郎は確信した。


 逃げられない。


 目の前の相手は、明確な打倒と不屈の意志を漲らせ、それを自分に向けている。


 それは、士郎が生まれて初めて対峙する、本物の「敵」の姿だった。




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