表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/6

初伝・剣は拳に出会う。


      初伝・剣は拳に出会う


 


       壱


 


 濃緑の作務衣姿の男は、まるで苔むした大岩のような存在感を辺りに発散していた。


 みたところ、歳は少なくとも不惑を越えているようだが、では具体的に何歳かと問われると、首を捻ってしまう不思議な雰囲気の持ち主だ。


 眼光は生気に溢れ、百八十センチはゆうに越える体躯は、しなやかさと厳めしさ、相反しそうな二つの要素を絶妙なバランスで内包している。


 もし動物に例えるなら「猫科の熊」とでも表現できそうだった。


 骨格のしっかりした頑健な見かけに反して、その雰囲気は刺々しさのない柔らかく暖かなものだった。


「そういうわけで、今日から知人の娘さんがくるので」


 唐突に彼の口から出たのは、そんな言葉。


「──……は?」


「二人とも粗相のないようにな」


「ちょっとまて」


 ジメジメとした梅雨も明け、日に日に暑くなる、夏休み前最後の日曜日、午前七時。


 最近はどこの家庭でもすっかり珍しくなってしまった、日本の朝食風景。縁側から広い庭が見える純和風の八畳間で、ちゃぶ台を囲むのは親子三人。


 一枚板の天板に並ぶ朝食もまた純和風。焼き海苔に卵、納豆、焼き魚、そして味噌汁。


ちなみに、味噌汁の具は麩と大根菜っ葉。数々のおかずはほんのりと湯気を上げているが、まだご飯は花柄の電気ジャーの中だ。


「なんだ?」


「聞いてないぞ」


 半眼で、ジャーのご飯をしゃもじで混ぜる父親に言ったのは、十代半ばほどの少年。


 だが、父親は彼を一瞥しただけで、ジャーからご飯を茶碗に盛りつけつつ、なんでもないように言った。


「そうだったかな」


「あのな!」


 声を荒げてちゃぶ台へ乱暴に手を振り下ろそうとした少年は、次の瞬間音もなく畳の上に転がっていた。


 見れば、振り下ろそうとした手を、両手がふさがっていたはずの父親の片手に捕らえられ、そのままうつぶせに押さえつけられていた。しかも、体格差はあるとはいえ、それほど力を入れているようにも見えないというのに、見えない岩にでも乗っかられているのかと思うほど、少年は身動きが取れなくなっていた。


「せっかくの朝食がひっくり返ったらどうする。食い物は大切にせんか」


 動けないなりになんとか抜け出そうともがく息子を見下ろし、やれやれと溜息をつく。


 ただ重いだけなら多少はなんとかなりそうなものだが、不思議なほどにビクともしない。慣れてなければ、そのどうにもならない妙な感覚に笑い出していただろう。


 たっぷりと十秒ほど、作務衣の袖も揺らさず息子を押さえ続けていた父親は、少年が諦めて動かなくなるのを確認してから、ゆっくりと訊いた。


「メシの盛りは?」


「……大盛りで」


 大いに不満がありそうな様子の少年を解放した男は、何事もなかったように飯の盛りつけに戻り、しっかり盛りつけたスミレ柄の茶碗を残りの一人である少女に手渡す。


 こちらの少女は少年よりもいくつか歳が下だろう。意志の強そうな眉と目元が父親と兄によく似ている。


 父と兄のやりとりを慌てもせず、むしろ微笑ましげに眺めていたのは、細身の見かけに反して胆が太いのか、それとも単純に見慣れているからなのか。


「ねえ、お父さん。その話って、この前の話に関係あるの?」


 受け取った茶碗を目の前に置いて、ショートボブの可愛らしい頭を少し傾げる少女。


静流(しずる)は察しが良いな。その通りだ」


「この前の話?」


 捕られていた腕の関節とくりくりと回してほぐしつつ、少年が問い返す。


「お兄ちゃんも聞いてたでしょ? 寮の方、女子寮として再開するって」


 親子の住むこの屋敷は、庭・建物を含めてゆうに二百坪以上の広さがある。その内、建坪が約三分の二。さらに建坪の内半分が親子の生活する母屋で、残りの半分が道場とそれに隣接する形で寮があるのだが、今は諸事情あって店子はいなかった。


「冗談かと思ってた」


「そんな冗談を言ってもしょうがあるまい。家屋も使わないと傷む一方だし、あちこちから再開しないかとの声もかけられていたのでな」


「……どっかの誰かさんが、寮生を残らず叩きだしたのは何年前だったっけ?」


「礼儀というのは痛い目にあって覚えるものだと、私は思うがな」


 半眼でちくりと言ってくる少年の言葉を、さらりと受け流す。


「色々と事情があって、女子寮ということにした。折良く頼まれて、友人の娘の下宿先を相談されたので、どうせならということで、うちで面倒を見ることになった。本格的に寮生を受け入れるのは来年からのつもりだったがな」


 喋りながら三人分の御飯と味噌汁の準備を終え、両手を合わせる。


 少年と静流もそれにならって、正座で手を合わせた。基本的な躾が良いのだろう、二人も綺麗な姿勢だ。


「で、だ。静流、後で駅まで彼女を迎えにいってもらえるか?」


「うん。何時?」


「十一時過ぎの電車で来るはずだ。それと、士郎(しろう)


 味噌汁をすすっていた少年の手が止まる。


「朝飯が終わったら、寮の部屋の掃除をするから手伝うように。逃げてはいかんぞ」


 釘もしっかり刺されたにも関わらず、なにも聞かなかったような態度で食事を再開する士郎の肘を、静流がつついた。


「可愛い人だといいね、お兄ちゃん」


「別に」


 笑みを含んだ目で囁いてくる妹に、兄は素っ気なく返す。


「一応言っておくが」


 こちらは悪戯っぽい調子で父。


「その娘さんは、幼い頃から古流剣術を仕込まれているからな。手を出すなとは言わんが、そのつもりがあるなら、覚悟だけはしておいた方がいいぞ」


 妙に嬉しそうな言葉に、士郎は鼻の頭に皺を寄せて唸った。


「なんだか、猛烈に嫌な予感がしてきたんだけどな……」


 


 かつて、闘神と称された男がいた。


 長い時を闘い、勝ち抜き、そしてある日を境に武の場から姿を消した。


 男の名は、諏訪武人(すわたけひと)


 現在の彼が家族と共に過ごす、日常的な朝の風景だった。


 


     **********


 


 美燕の後ろで電車のドアが閉まった。


 ガタゴトとホームから電車が出て行く音を背中で聞きながら、剣士姿の少女は荷物を肩に担ぎ直して改札口に向かった。


 美燕の姿を見て笑みを深めた駅員に切符を渡し、大した広さのない駅の構内を出ると、妙に閑散とした町並みが目の前に現れた。


 美燕が聞いた話では、そこそこ大きな街ということだったが、駅前の様子を見る限り都会的という言葉とは無縁な雰囲気だ。


 背の高い建物はほとんど見あたらず、山に囲まれた田舎である美燕の故郷に比べ、随分空が広いような気がする。


 しかし、古い建物がそう多いわけでもないのに、なぜか歴史の香り漂う町並みに美燕は逆に好感を抱いた。


 駅の方を振り向くと、駅の向こうにそれほど高くない山並みが見える。


 しばらく町並みを眺めていた美燕は、はっとして辺りを見回した。


 バスの発着場がある駅前のロータリーは、駅と同じくそれほど広くなく、中心の植え込みにはレトロな雰囲気の時計塔が立っていた。


「……まだ少し、時間がありますね」


 大きな時計が指しているのは十時と少し。待ち合わせは十一時半なので、まだかなりの時間がある。本当はもう一本遅い電車で来る予定だったのだが、なんとなく実家に居たたまれず、早めに出てきてしまった。


 美燕は形の良い眉を微かに曇らせ、溜息をそっとつく。


 とりあえず、どこかで時間を潰そうと歩き出した。


 美燕の見送りには誰も来なかった。


 あまり身体の丈夫ではない母は、産後の肥立ちが悪くいまだ入院したままだったし、美燕の扱いに同情した何人かの弟子達と、お手伝いのタキは見送りを申し出てくれたが、これは美燕自身が丁重に断った。


 あの日以来父とは会話らしい会話も無く、家を出る時も姿すら見せなかった。


 見送りに来てくれなくても良かった。


 なんでもいい、声だけでもかけてくれたら。


 それだけで良かったのだ。なにもないよりは、どんなにひどい言葉であっても、その方がまだマシだったのに。


 物思いに耽りながら歩いていた美燕の足が、駅前の観光案内所の前で止まる。


 まだ真新しい四角い建物の前面は厚いガラス張りで、内側からこちらに向けてポスターや告知などが色々と貼ってあった。


 その内の、一際目立つ鮮やかなポスターに目を引かれる。


 一月後の夏祭りに行われる、浴衣美人コンテストの告知ポスターだった。ポスターの中では、緑を背景に水色の清涼感漂う浴衣を綺麗に着こなした美女が、少女の美燕から見ても魅力的な笑顔をふりまいていた。


 美燕は、いわゆる女の子らしい格好というものをした覚えがほとんど無い。物心つく前にはそれなりにあったのだろうが、少なくとも木刀を握るようになってからは皆無だ。


 別に父なり母なりがそう仕向けたわけではなく、美燕自身がそういう世間一般の女の子が興味を持つようなものに興味を持たなかっただけだ。


 これからは、自分もこういう格好をすることもあるのだろうか。


 想像の中で自分にも同じ格好をさせてみるが、物憂げな溜息が漏れるだけだった。


 頭を振って想像を振り払うと、その拍子に肩にかけた刀袋から堅い感触を感じる。


 つい最近、美燕が素材から選んで手ずから削りだした赤樫製の木刀の感触だ。


 ふと、改札を通る時に見た駅員が笑っていたのを思い出す。


 あれは、自分を笑っていたのではないだろうか。


 自分にとっては当たり前の胴衣姿。春夏秋冬、防寒に何かを上から羽織ることはあっても、大半の時間をこの姿で過ごしてきた。


 今までそれをおかしいと思ったことは一度もないが、他人がそれをどう見るかなど考えたことがなかったと気付く。


 これも変えなければいけないのだろうか。


 道を絶たれたからには、剣も捨てなければいけないのだろうから。


 ──新しい生活を、始めなければいけないのだから。


 もう一度首を横に振って考えを頭から追い出し、美燕はガラスに映る自分の姿から目を逸らすと、逃げるように歩き出した。


 とにかく、待ち合わせまで時間を潰さなくてはいけない。


 そう思いながら首を巡らせると、刀袋越しの堅い感触と合わせ、削ってから時間の経っていない木の香りを感じた。


 それは故郷の香りでもあった。


 ほんの数時間前まで踏みしめていた故郷の地が、今は遙かに遠い。


 胸の奥が鋭く痛んだ。


 もう一度、ゆっくり木の香りを吸い込む。


 この香りが薄れる頃には、胸の痛みも少しは薄れているだろうか。


 


        弐


 


「いたっ……!」


 掴もうとしてくる手から身を躱そうとしたところで、背中がブロック塀にぶつかり、太いお下げ髪が揺れた。


 小柄な少女は一瞬痛みに顔をしかめたが、すぐに気を取り直し、眼鏡の奥から相手を睨みつけた。


「なんなのよ、あんたたち!」


「だから、さっきから言ってるじゃねえの」


 気丈な態度で威嚇する少女に対して、少女よりも幾つか年上で、見るからに頭の悪そうな高校生らしき柄の悪い二人組が、だらしない舌足らずな口調で言う。


「おれたちゃヒマしてんだよ。おれたちと遊んでくれるか、遊ぶための『これ』」


 と親指と人差し指で丸を作る。


「めぐんでくれねーかなーってさ?」


 ニヤニヤ笑いを浮かべながら、かくんと首を傾げる。連れらしいもう一人も、一歩引いたところで同じような笑いを浮かべている。


 その言葉を聞いた少女の顔が、はっきりと軽蔑したものに変わった。


「なにかと思えば、カツアゲ? ……あんた達、この辺の高校生じゃないわね?」


「そうそう、わざわざとおくからきたボクタチに愛の手をってな?」


 なにがそんなにおかしいのかと疑いたくなるなるような調子で、二人共にゲラゲラと笑い転げる。


「まあ、そうでしょうね。ここら辺じゃ、そんな命知らずはいないでしょうから」


 ぼそっと小さく呟き、少女は目だけで辺りをうかがった。


「もう! こんな時に限って誰も通りかからないんだから……っ!」


 その時、通りの角を曲がって、こちらに向かってくる人影が見えた。


 少女の顔に僅かな喜色が浮かぶ。


 現れたのは、見たところ少女よりも幾つか年上のように見える、胴着姿に刀袋を担いだ、どこからどう見ても剣士の少女だった。


 急に瞳が輝き出した眼鏡の少女を訝しく思った少年達が、その視線を追って振り向く。


 三人分の視線を受けた女剣士は、特に驚いた様子もなく、冷ややかな視線を少年達に注ぎ、続いて眼鏡の少女に目を向ける。


 一瞬だけ二人の視線が絡む。


 眼鏡の少女は「お願い」という視線を女剣士に向けたが、女剣士の方はついと視線を逸らし、なにも見なかったかのように、歩みを緩めもしない。


 あからさまに「関わりたくない」という態度に見えた。


 救世主だと思った人物のそんな態度に、眼鏡の少女は軽い失望を覚えたが、すぐにこの状況から逃げ出す算段に思考を切り替える。


 それにしても、と思う。


「……おっかしいな。立ち居振る舞いからして、かなり『使える』人かと思ったんだけど。関わりたくないってだけかな?」


 女剣士の登場に、少年達はしばし緊張しながらその動向をうかがっていたが、女剣士が黙ったまま通り過ぎようとするのを見て取り、眼鏡の少女に向き直ろうとした。


 隙アリ!


「あ、てめえっ!」


 眼鏡の少女は、その隙を見て逃げだそうと素早く走り出す。


 少年達は驚いて、それを追いかけようと女剣士に完全に背を向けた。


 三人の視界が、完全に女剣士から外れた瞬間。


 ご、と鈍い音がした。


 しばらく妙な間があって、少年の一人の目がくるんと裏返ると、そのまま糸が切れた操り人形のようにぐりゃりと垂直に倒れ込んだ。


「お、おい!」


 片割れが慌てて支えるその横を、つむじ風のごとく眼鏡の少女が走り抜ける。


 加速しながら女剣士の方に目をやると、その意外に女性的な背中は、刀袋の口を縛りながら次の角の向こうに消えるところだった。


 間違いない、彼女がなにかしたのだ。


 なにをしたのかは、まったくわからなかったが、このチャンスを逃す手はない。眼鏡の少女は文字通り脱兎の勢いで、女剣士とは逆の方向へ逃げ出す。


 背後から怒声が追いかけてきたが、それもすぐに聞こえなくなった。


 


 はぁ、と美燕は長々と溜息をつく。


 つい、見ていられずに手を出してしまった。


 父の友人とはいえ、これから他人様のお世話になろうというのに、さっそく厄介ごとに首を突っ込んでしまったことに軽く自己嫌悪を覚える。


 だからといって、後悔もない。ああいう輩は、美燕の最も嫌悪する人種だ。力を持つ人間は、その力でもって他人を抑圧してはいけないと美燕は幼い頃から心に刻んできた。


 どうしても見逃せなかったのだが、やはり「やってしまった」という意識はどうしようもない。


「思い切りの良い人でしたね」


 ふと、先程絡まれていた少女を思い出して微笑を浮かべる。


 目の前で起きたことに気を取られずに、咄嗟の判断で躊躇無く逃げ出していた。しかも、自分とは逆の方向にだ。


 普通窮地から逃れようとする人間は、無意識に助かる可能性の高い方を選ぶものだ。さっきの場合、人のいる方、つまり美燕の方だ。


 なのに、あの少女は迷うことなく逆を選んだ。他人に依存しない性格なのか、騒ぎにしたくないこちらの意図を酌んでくれたのかは知らないが、的を散らすという意味でも良い判断だったと思う。


 つらつらと考えながら刀袋の、刀で言えば鯉口の辺りを指でなぞると、堅い鉄の感触がある。木刀での抜刀を考え工夫された抜刀補助用の鉄片が、そこに仕込まれていた。


 そう、先刻の男を昏倒させたのは、抜刀術の一手。


 行き違った相手の首を、こちらも後ろ向きのまま背後から切りつける。幕末に暗躍した人斬りの一人が編み出したものだ。


 もちろん真剣ではないし、殺すつもりなど無いので、気絶させただけだが。


 美燕はこの技を祖父から習った。祖父は幕末に京都にいたという、祖父のさらに祖父から教わったとのことだったが、まさか使う機会があるとは思わなかった。


「へい、か〜〜のじょ。お茶しな〜〜い?」


 いきなり横手から、妙にレトロな内容に似合わない、可愛らしい女の子の声をかけられ、美燕は驚いて顔を上げた。


「貴女は先程の……」


 美燕の驚いた顔に、路地の壁に背を預けていた眼鏡の少女はニカッと満面の笑みを浮かべて、美燕の前に立った。


「さっきはありがとうね、女剣士さん!」


「逆方向に逃げたのではないのですか?」


 やや不審げに眉を寄せる美燕に対して、臆することなく少女は笑みを深めた。


「一旦逆方向に逃げてから、ぐるっと回ってこっち来たの。助けてくれた恩人に、お礼もしないのは仁義に反するでしょ? あたし、一ノ瀬葉弥乃(いちのせ はやの)っていうの、よろしくね。葉弥乃って呼び捨てでいいから。あなたの名前も訊いていい?」


 人懐っこく言う葉弥乃に、美燕は飲まれたように目を白黒させ、どうしたらいいのかわからず、そのまま突っ立ってしまう。


 気まずい沈黙が落ちかけたところで、愛嬌溢れる表情を崩さない少女は「ん?」と小首を傾げる。


 その仕草に自然と笑み崩れた美燕は、大きく深呼吸してから告げる。


「私は上泉、上泉美燕(いずみ みえ)です」


「じゃあ、みーちゃんでいいかな?」


「み、みーちゃん?」


「うん」


 馴々しいといえば言える言動だが、あまり人と打ち解けないところのある美燕ですら、なぜかそれを感じさせない雰囲気が葉弥乃にはあった。それどころか、美燕は知り合ったばかりの少女に対して妙な親近感すら覚え始めていた。


「ね、みーちゃん、さっきのお礼にお茶でもどう? 近くにいきつけの喫茶店があるんだけど」


 葉弥乃の申し入れに、美燕は少し考えてから答えた。


「そうですね。ご相伴にあずかりましょうか」


 いつもの美燕なら断っているところだが、美燕自身この葉弥乃という少女に少なからず興味が出てきたし、なにぶん見知らぬ土地である。さすがに一人でいるのは少し不安もあった。


「じゃあ、いこっか」


 葉弥乃が美燕の右手をとり、先になって歩き出す。


 美燕は少し驚き、そんな風に他人から触れられるのは、覚えがないくらい久し振りだということに気がつく。


 それは、不快な感触ではなかった。


 


「不思議なお店ですね、ここは」


 出されてきた抹茶を飲み終え、美燕は店内を見回して言った。


 個人経営としては、やや広めな店の内装は、一見無難にまとめられているように見えるが、注意して見ると様々な国の要素が散見された。


 おそらくアフリカ辺りが由来に見える古びた木像が景色に溶け込んでいるかと思えば、こっそりとトーテムポールのような彫刻が隠れていたりする。


 みな違和感なくまとめられているため、意識しないと、普通に見逃してしまいそうな感じだった。


 メニューも銘柄はやや少なめなものの、国の東西を問わず幅広く取りそろえられている。あまりに雑多に揃えられているため、それぞれの香りが死んでしまいそうな気もするが、一口飲んだ抹茶は充分薫り高いものだった。


 どんな魔法を使っているのか知らないが、マスターの腕も管理も確かなようだ。


 二人が座っているのは、窓際のボックス席。日曜日の午前中だというのに、店内に客の姿はほとんどない。


「気に入った?」


「そうですね。あまりこういう店に入ったことがないので比較はできませんが、良い店だと思います」


 美燕の答えに満足そうな笑みを浮かべて頷き、続けて訊いた。


「みーちゃんは、この街に来て間もないの?」


「はい、今日来たばかりです」


 美燕が、父親の友人のところに下宿人として世話になる予定だと説明すると、葉弥乃が腕を組んで考え込んだ。


「なんかどっかで聞いた話ねぇ。……ああ、おじさまのところに来るって話の。ねえ、みーちゃん、その友人って諏訪ってひと?」


「え? あ、はい、そうです」


「やっぱり、あれってみーちゃんのことだったんだ」


「諏訪様をご存じなのですか?」


「うん。おじさまのところにはよく遊びにいってるから。そこの士郎って馬鹿とも幼馴染みだし。ところで、みーちゃん歳いくつ?」


「今年で十五です」


「へえ、キリッとしてるから年上かと思った。じゃあ、あたしと同い年だね。その士郎ってのも同い年。おじさまのところに下宿するなら、中学も一緒になるね、きっと」


 嬉しそうに笑ってコーヒーの最後の一口を飲み干す。ちなみにブレンドのブラックだ。


 曖昧に笑って視線を逸らした美燕は、店内のクラシカルな柱時計に目を止めた。針は十一時を回るところだ。


「あの、申し訳ないのですが、待ち合わせがあるので失礼したいのですが……」


「待ち合わせ?」


「諏訪様に、迎えにきて頂くことになっています」


「何時?」


「十一時半です」


 葉弥乃は腕時計で時間を確認すると「ちょっと待ってて」と美燕を身振りで抑えつつ、折りたたみ式の携帯電話を取りだし、カウンター内でグラスを磨くマスターに向かって片手で拝む。マスターが頷くのを確認してから、手早く短縮ダイヤルを呼び出した。


『はい、諏訪です』


 2コールで電話口に出たのは少女の声だった。


「もしもし、静流ちゃん?」


『あ、葉弥乃さん』


「今日、静流ちゃんのところ、上泉ってお客さんくるでしょ?」


『はい、今から迎えに出るところだったんですけど。どうしたんです?』  


「ちょっと色々あってね、さっきその本人と知り合ったの。あのね、あたしがそっちまで案内しようと思うんだけど、構わない?」


『いいんですか?』


「うん。今日もそっちに寄るつもりだったし」


『じゃあ、葉弥乃さんさえ良ければ、お願いします。お父さんにも伝えておきますね』


「おっけーおっけー。それと、お昼御飯は食べていくから。んじゃ、また後でねぇ」


 あっという間に算段をつけた葉弥乃は、携帯を閉じ、美燕ににっこりと笑いかけた。


「というわけで、御飯食べたら案内するね。なに食べる? ここ、ペペロンチーノが絶品なの。もちろんあたしの奢りだから遠慮しないでね」


「はあ」


 どう言っていいやら判らず、美燕は溜息と一緒に頷いた。


 


        参


 


 狭い診療所へ転げ込んできた二人組に、机に向かい書類を書いていた、痩身で小柄な初老の男が片眉を吊り上げて振り返った。


「なんでぇ騒々しい。今日は休診日だぞ。急患か? うちは骨接ぎ屋だぜ」


「な、なんでもいいから診てくれよ! 突然倒れたんだよぉ!」


 ぐったりとしている相棒を引きずってきた少年が、泣きそうな声で頼んだ。


「突然倒れただ? 若ぇのに卒中かよ。しょうがねえな、診るだけ診てやっからそこ上げろ」


 椅子を回して少年達を向き、診療台を顎で示した男の左袖がゆらりと揺れる。男は隻腕のようだった。


 言われた少年は、慌てて隻腕の男が示した台に相方を乗せる。


「どれ」


 慣れた手つきで脈を取り、気を失っている少年の下まぶたを親指でひっくり返す。


 そして、ふん、と鼻を鳴らした。


「気絶してるだけじゃねえか」


「へ?」


「気絶してるだけだってんだよ。……ん? おうアンちゃん。ちょっとこいつをうつぶせにしてくれや」


「あ、ああ」


 言われるままに相棒の身体をひっくり返す。


「今時、珍しい技ぁ使う奴がいるな」


 うつぶせにされた男の、首の後ろをしばらく観察していた隻腕の男はぼそりと嬉しそうに呟き、じろりと突っ立ったままの男に目を向けた。


「良かったな、この程度で済んでよ」


「あん?」


 言葉に込められた濃厚な揶揄に、訳のわからない様子だった少年の顔が険しくなる。


 だが、隻腕の男はそれを歯牙にもかけず、うつぶせに寝かされた少年の背中に手を当てると活を入れる。すると、まるでスイッチが入ったように少年が目を覚まし、頭に手を当てて呻きながら立ち上がった。


 特に感動もなく、隻腕の男は机まで戻り煙草を咥えて火をつけた。


「お代はいらねぇよ。それより、おめえら余所もんだろ? これ以上怪我しねえうちに帰ったほうがいいぜ」


 明後日の方を向きながら、さぱーっと煙を吐き出す。その口調は、誰が聞いても小馬鹿にした調子が混じっていた。


 さきほどから険悪になっていた少年に加え、目を覚ましたばかりの少年も、たった今診察してもらった恩も忘れて男を睨みつけた。


「ようジジイ。ちょっと診てもらったからって、ナメた口きかれて黙ってられるわけじゃねえんだぜ?」


「……だからよぉ」


 低く低く、地の底から響いてくるような声。


 少年達の恫喝など微風にもならない、暴風のような殺気が男の小柄な身体から少年達に吹きつけた。


 そして、向けられた男の視線に、二人は縮み上がった。怒りに紅くなりかけていた顔色が、瞬間的に真っ青に変わる。


 そもそも、少年達がホームグラウンドを離れてまでこの街に来たのは、簡単に言えば「箔」をつけるのが目的だった。


 先輩連中や、それよりもっと上の危ない職業連中の間で、この街はオカルトじみた恐怖心に満ちて語られている。


 それについて問いただしてみたところで、訊かれた者はただ首を横に振り「悪いことは言わないから、あの街には近づくな」ということが異口同音に語られるだけだった。


 だが、具体的なことは誰も知らないのではないかと思うほど情報が少ないせいで、逆に恐怖心よりも好奇心が勝つこともある。


 先輩達どころか本職も距離を置きたがるような場所で、例え小さくともなにかやれば箔になると浅はかな考えでやってきたのだが。


 考えが甘かった、と考える余裕もない。


 たった今少年達に吹きつける純度の高い殺気は、極寒の吹雪のように動きと体温を奪い、向けられた視線はライフルの銃口よりもはっきりと死の香りを漂わせていた。


 もし少年達の膀胱に貯蓄があれば、あっという間に放出していただろう。


 男の前では、少年達など大蛇の前のアマガエルよりも無力な存在だった。


「この街にゃあな、てめぇらみてぇなチンピラが大好物の獣がうろうろしてんだ。骨まで噛み砕かれねえうちに消えろって言ってんだがな」


 二人の顔色は蒼白を越えて、死人の色になりつつあった。両足が削岩機のように震えている。


「それとも」


 にやり、と男の口が吊り上がる。少年達は、その口の奥に長い牙と先の割れた長い舌が見えたような気がした。


「ここでオレに喰われるかい?」


 恐怖が頂点に達する寸前、ふっと殺気が弱まった。


 その瞬間「ひぃ」と短い悲鳴を上げ、これ以上はないほどみっともない姿で、少年達は這うように逃げ出した。


 バタバタと落ち着きのない足音が遠ざかるのを待って、男は鼻を鳴らした。


「クズどもが。まあ、小便漏らさなかっただけまだマシか」


 椅子に座り直し、改めて紫煙をくゆらせる。


「アレやったのも余所もんだな。この街の連中ならあんな回りくどいやり方はしねぇだろうしな。そういや、タケんとこにあいつの娘がくるとか言ってやがったが、そいつか? ……そのうち見にいかねぇとな」


 男はそう独りごち、短くなった煙草を灰皿に押しつけると、何事もなかったようにまた書類に向かった。


 


     **********


 


「大きなお屋敷なのですね」


 古めかしい土塀沿いに肩を並べて歩きながら、美燕が隣の葉弥乃に言った。


 美燕は少女としてはやや背が高く精悍な印象があるのに対し、葉弥乃は平均よりやや低めの身長で女の子然としているので、そうして並んで歩いていると似合いのカップルのようにも見える。


「この近所じゃ一番敷地は広いんじゃないかな。ちなみに、あたしの家はこの通りを少しいったところなの。そのうち案内するね」


「はい」


 そんな会話を交わすうちに、重厚な構えの門前に辿り着く。


 一目で古い物と判る面構えの門は、少なくとも三十年や四十年ではきかない歴史の重みを発散しており、その分厚い門扉は大きく開け放たれている。


 美燕の実家も大きな屋敷で、田舎作りで開放感はあったものの、重厚さという点では門一つとっても及ばなかった。


 家は住んでいる人間を表すと聞く。このような屋敷に住む人とは一体どんな人物なのだろうか。


「ほらなにしてるの、みーちゃん。いくよ」


「あ、はい」


 なかば圧倒されて門を見上げていた美燕は、先に門をくぐっていた葉弥乃の声で我に帰ると、自らも門をくぐった。


 敷地内に入ると、すぐ左手に大きな木が立っており、正面には門に負けない歴史感溢れる屋敷があった。


 向かって右手に渡り廊下があり、稽古場らしき建物に繋がっている。その稽古場の向こうに比較的新しい建物が見えた。ここからでは角度的によく見えないが、渡り廊下は稽古場を経由してそちらにも延びているようだ。おそらくあれが寮だろう。


 その時、どこからか怒号と喧噪が急速に近づいてきた。


 方向は……上?


 何事かと上を振り仰ぐと同時に、美燕の目の前になにかが降ってきた。


 その瞬間、四年ほど前に、里近くまで降りてきていた猿たちのボスに襲われた経験を美燕は思い出していた。


 思い出した時には、特殊な縛り方で結んだ刀袋の口をほどき、木刀を抜き打っていた。


「?!」


 驚きの理由は二つ。


 一つは、それが猿でなく人間だったこと。


 もう一つは、とっさの一撃だったとはいえ、手を抜いたわけでもない一閃が空を切ったこと。


 刹那。落ちてきた人間──少年と、美燕の視線が絡んだ。


「あ」


 少年がなにかを言おうと口を開きかけた。


 その表情のまま、美燕の視界の中で少年の顔が真横にスライドする。


 仁王像のような足が少年を捕らえるのが、やけにゆっくりと見えた。


 どかん!


 一瞬遅れてきた音と共に、少年は放物線ではなく直線を描いて大木に叩きつけられる。


 まるで鐘突き棒のような蹴りを放った人物は、空中で横にくるりと回り、その巨体からは想像もできない軽やかさで、地面に降り立った。


「追われる立場でよそ見とは。随分余裕があるな、士郎」


「おじさま、おじさま。多分もう聞こえてない」


 白目を剥いて動かなくなってしまった士郎を、腕を組んで睥睨する武人に、葉弥乃が苦笑いで突っ込んだ。


「おお、葉弥乃くん、いらっしゃい。面倒をかけてしまったらしいね、ありがとう」


「どういたしまして。みーちゃん、こちら、諏訪武人さん」


 木刀を振り切った状態で呆然としていた美燕は、はっとした表情で慌てて木刀を納め、軽く身繕いすると武人に向かって頭を下げた。


「は、初めまして。これからお世話になる上泉美燕です。今後、ご迷惑をおかけすると思いますが、よろしくお叱り下さい」


「君の父上から話は聞いている。こちらこそよろしく」


 その礼儀正しい態度を気に入ったのか、武骨な顔に柔和な表情を浮かべて武人は頷く。


「随分前に一度会っているが、覚えてないかな?」


「え? あの、すいません。覚えがありません」


 恐縮する美燕に、武人は笑って首を横に振った。


「確か、君が二つか三つくらいのことだからね。覚えてなくとも仕方がない」


 言いつつ、奇妙に滑らかな動きで、木の根元でのびている士郎に近づき、その後ろ襟を掴んで、猟師さながらに肩へ担ぐ。


「二人とも上がるといい、茶でも出そう」


「こいつ、今日はなにしたんですか?」


 完全に失神して、目を覚ます気配がない士郎の頭を指で突きながら、葉弥乃が尋ねる。


「寮の掃除を手伝わせていたのだが、途中で逃げ出してね」


「懲りないわねぇ、逃げられるわけないのに」


 楽しそうな会話を交わす二人に、美燕がおずおずと口を挟む。


「あの……、いつも、こんな感じなのですか?」


「なにがかな?」


「ああ」


 首を傾げる武人の隣で、葉弥乃が笑いながら手をパタパタと振る。


「士郎……こいつが、おじさまにドツき回されるのなんて、いつものことだよ」


「いえ、あまりに鋭い蹴りだったもので……。死んでいるのではありませんか?」


 真顔で言う美燕に、葉弥乃がからからと高笑いする。


「これくらいで死んでたら、今まで三桁は死んでるんじゃないかな?」


「誰に似たのか、身体だけは丈夫だからな」


「おじさまに決まってるでしょ。まあ、これからここで生活するなら、すぐ見慣れると思うよ」


「はあ……」


 本日何回目かの、溜息混じりの返事。


 なんだかとんでもないところに来たような気がする。


 玄関に向かう武人と葉弥乃、それにぐったりとしている士郎を見、美燕はなんとなくそう思った。


 だからといって、それに対する不快や恐れは何もなかったけれども。


 


      四


 


「静流、いるか」


「は〜〜い!」


 それほど大きな声ではないのに、遠く響く声で武人が玄関から呼ぶと、すぐに返事があり、やがて磨き込まれてツヤと深みを醸す廊下を、女の子が軽い足取りでやってくる。


 身長は小柄な葉弥乃と同じくらい。健康的に引き締まった手足はすんなりと伸びて、黒いレギンスに大きめのTシャツ姿が、年相応に活動的で可愛らしい。


 途中で葉弥乃と美燕に気付き、笑顔で軽く会釈すると、武人の目の前に立つ。


「なに、お父さん?」


「これを居間に持って行ってくれるか」


 と、士郎を無造作に板間の上へ放りだし、武人は玄関に置いてあったタオルで裸足を拭いた。


「それと、私は茶の用意をしてくるから、お客さんを居間まで案内を頼む」


「はい。じゃあ、上泉さんでしたよね、どうぞ」


 静流は、にこやかに美燕を促しながら、兄のアーミーパンツの片裾を掴み、そのままずるずると引き摺って歩き出す。大きなぬいぐるみのような扱いだ。


「本当にいつものことなんですね……」


 自分よりもいくつか年下らしい少女が、なんの疑問もなく士郎を引き摺っていくのを見て、美燕は誰にともなく呟いた。


「慣れよ、慣れ」


 笑みを含んで言いつつ玄関に上がった葉弥乃が、脱いだ靴を揃えて静流の後についていくのを見て、美燕も慌てて後を追った。


 葉弥乃は勝手知ったる何とやらで、まったく躊躇なく歩いて行くが、美燕にとっては初めての場所だ。不躾だとは思いながらも、視線はあちこちへとさまよう。


 改めて大きい屋敷だな、と感心する。見れば分かることだが、外よりも中に入った方がよりその印象が強くなる。作りの古い日本家屋であるため、不必要な壁が極端に少なく、吹き抜けのような開放感あり、手入れの行き届いた古い木材は落ち着いた雰囲気を発散している。


 屋敷自体は、美燕の実家と印象が少し似ているだろうか。


「みーちゃん、こっちこっち」


 広く長い縁側を歩きながら、緑の溢れる庭を眺めていた美燕を、葉弥乃が障子の向こうから手招きする。


「随分広いお屋敷ですが、諏訪様達はこちらにご家族だけで?」


 勧められるままに座布団へ座りながら、美燕は無造作に兄を畳の上へ放りだした静流に訊いた。


「ええ、わたしとお兄ちゃん、お父さんの三人暮らしです」


「三人?」


「はい、お母さんは四年前に死んじゃったので」


 あっけらかんと言い放たれた静流の言葉に、逆に美燕が困惑顔になる。


「あの、すいません。知らぬ事とは言え、失礼なことを訊きました。歴史のある建物のようなので、先祖伝来の家なのかと思いまして」


「あ、そういうことですか。ここ、もともとお父さんの家じゃないんですよ。お母さんの親戚のお家だったらしいんですけど、ご家族がいなかったそうです。お兄ちゃんが生まれた年に亡くなられて、お母さんが継いだって聞いてます」


「そうなのですか」


 人にも物にも歴史ありということか、襖の上にある精緻な彫りの欄間に目をやりつつ、そんなことを美燕は考えた。


「葉弥乃さんは半分ここに住んでるみたいなものですから、正確には三・五人かもしれませんけど、それでも広すぎますし、掃除も大変なんですよね。無理に寮なんか建てないで母屋(こつち)の方を貸せば良かったと思うんですけどね」


「まあ、色々と事情もあってな」


 静流の背後で襖が開き、お盆を片手に持った武人が現れた。


「今日は紅茶なのだが、美燕くんは紅茶で平気かな?」


「え? あ、あの。はい、大丈夫です、けど……」


 紅茶?


 いや、別におかしくはないと思うが。


 作務衣に身を包んだ大男の口から出てくる単語の違和感に、美燕が砂でも口に含んだ気分になる。


「あれ? オレンジ・ペコじゃないんですか?」


 ふわりと漂う香りに、微かに鼻を動かした葉弥乃が訊く。


「今日は茶屋のマスターからいい葉を頂いてね。ダージリンだよ。お茶請けは私の焼いたクッキーだ。先日の残りで申し訳ないが」


 ダージリン? 手作りクッキー?


 いや、別に悪くはないが。


 なにやら無言で色々と美燕が煩悶しているうちに、茶席は整っていく。


 薄い桃色のティーコゼーを外し、明らかに物の良さそうなポットから、人数分しっかりと均等に注がれた紅茶は充分に香り高く、クッキーも大層美味しかったが、なんとなく納得のいかない美燕だった。


「──……うう〜〜」


 不意に、二日酔いの唸り声のようなものが聞こえたかと思うと、分厚い一枚板でできた食卓の向こう、武人の隣辺りから、ひょいと少年の顔が現れる。


 釈然としない表情でティーカップを傾けていた美燕と、ばっちり目が合った瞬間、彼は逃げるか飛び退くかしようとしたらしいが、次の瞬間「スパン」という小さな音を残して美燕の視界から再び消えた。


「?!」


 あまりの唐突さに美燕が固まっていると、食卓の向こうで少年がもがく気配がした。


「落ち着かんか、みっともない」


 左手でティーカップを傾けつつ、例によって武人の右手が士郎を取り押さえている。


 今度は多少早くあきらめたらしく、おとなしくなった士郎がぼそりと呟く。


「……普通、初対面でいきなり斬りつけてきた相手と目が合ったら逃げるだろ」


「それはさておき」


 息子の呟きはあっさりと無視し、悠々と紅茶を飲み干した武人が続ける。


「士郎も目を覚ましたことだし、改めて紹介しようか」


 士郎を解放して、卓をぐるりと見回し、美燕を示す。


「彼女が今日からうちの店子になる、上泉美燕くんだ。私の古い友人の娘さんで、古流剣術の使い手でもある」


「改めまして、上泉美燕です。ご面倒をおかけすることも多いかと思いますが、宜しくお願い致します」


 美燕は武人の紹介に応じて、ぴしりと背筋の伸びた正座から、剣士らしい綺麗な礼を見せた。


 それを満足そうに頷いて返つつ、武人は家族を紹介する。


「こちらも改めて、私が大家の諏訪武人だ。こちらが娘の静流。家中のことであれば、この子に訊けば大抵の事は判るはずだ。こちらはご近所の一ノ瀬葉弥乃くん。よく遊びにくるし、学校も一緒になるから、顔を会わせる機会も多いだろう。で」


 ぐわしっと、そっぽを向いていた士郎の頭を豪快にわしづかみして、無理矢理前を向かせる。


「これが息子の士郎だ。美燕くん、葉弥乃くんと同い年になるね。未熟者の上、愚か者だが、宜しくしてやって欲しい」


 無駄と知りつつも父親の力に抗っていた士郎の目が、美燕の方を向く。


「ども」


 武人の手を振り払って、言葉少なにそう言っただけで、またそっぽを向く。


 当たり前かもしれないが、先程美燕から出会い頭に攻撃されたのが、腹に据えかねているのだろうか。


「まあ、この通り愛想も悪い奴だが、一応うちの跡継ぎということになる」


 跡継ぎ、という言葉に、美燕の胸が少しうずく。


「……継ぐなんて、一言もいってねぇけどな」


 ぼそっと漏れた士郎の小さな呟きは、はっきりと美燕の耳に届いたが、そこには触れず士郎に対して頭を下げた。


「先程は失礼しました。まさか目の前にいきなり人間が降ってくるとは思わなかったもので、こちらも取り乱してしまいました」


「え、いや、うん、いきなり目の前に降ったオレも悪いんだし……」


 思いの外真っ直ぐケレン無い謝罪を受けて意表を突かれたのか、士郎はバツが悪そうに頭を掻いた。


「木刀で少々小突かれたくらいでは壊れないから、いつでもやってくれて構わないよ。こいつにもいい鍛錬になるだろう」


「いえ、私は──」


 本気なのか冗談なのかさっぱり判らない武人に答えようとしたところで、美燕は口ごもった。


 もう、剣を捨てましたので。


 そう言おうとして、その言葉に説得力がないことに思い至る。


 視線を落とすと、傍らに置いた刀袋が目に入った。


 ならば、なぜ未練げにこんなものを持ち歩いているのだ。


 捨てたいのか、捨てられないのか。


 たった一言を発することに、思っても見なかった強い抵抗感を感じたことに、美燕自身が驚いていた。


 急に言葉を切った美燕に、不審の視線が集まりかけたところで。


「ごめんくださーーい! 宅急便でーーす!」


 呑気な大声が、物思いに沈みかけた美燕を引き戻した。


「おそらく美燕くんの荷物だろう。静流、出てくれるか」


「はぁい」


 静流が玄関に向かって返事をしながら小走りに居間を出て行くのを見送って、武人も腰を上げる。


「部屋の方は掃除が済んでいるからね。荷物を運びがてら案内しよう。


「はい」


 頷いて、美燕も立ち上がった。


 


      **********


 


 カラカラと音を立て掃き出しのサッシを開け放つと、夕闇が浸食しつつある広い庭が見える。


 空を見上げると、ほの暗い空に星が見え始めていた。


 ほんのりと湯気が立ち上る背中を窓枠に預け、美燕は夕闇の空を見上げる。


 美燕に与えられた部屋は一階の角部屋。寮にある部屋の中で、一番母屋に近い部屋だ。


 風呂上がりの身体を冷ますために、飾り気がない浴衣の衿を少し緩めて風を呼び込む。そのまましばらく微風を浴びながら、体内の熱気を吐き出すように深呼吸して、部屋の中に目を移す。


 八畳の和室に押し入れが一つ。寮内のトイレは共同で、風呂は母屋の物を利用する。


 部屋にはテレビのアンテナ線と電話線が引かれているが、電話は母屋で取り次いでもらうことなっているし、テレビもあまり見る習慣がないので、美燕にはどちらも用事が無い。


 いまのところ、室内には布団が一組と中くらいの段ボールが二つ、それと風呂に入る前にもらった蚊取り線香と陶器の豚がある。


 美燕はもともと物持ちではないし、こちらで揃えられる物はわざわざ持ってこなかった。生活費は、お手伝いのタキを通じて、通帳と印鑑の形ですでに受け取っている。


 通帳には、普通の生活であれば、数年は持つであろう金額が入っていた。


 質素を旨とする美燕なら、高校を卒業するまで充分持つだろう。もちろん、学費に関しては別口で払い込んでくれるそうだし、足りなければ追加もしてくれるらしい。


 確かに美燕の実家は、地元でも指折りの資産家だが、それでも十四そこそこの少女に持たせるには多すぎる金額だ。


 ちょっと普通ではない待遇だったが、美燕に特別な感慨はない。


 別に資産家の子供だからといって大金に慣れているわけではないが、その破格の扱いは、父が本気で自分を遠ざけようとしている証拠としか思えなかったからだ。


 藍色の浴衣の衿から、風が滑り込む。


 陽が落ちきった空は既に夜に変わり、真珠をばらまいたような星空が広がっている。


 街の星空は、故郷よりも多少くすんでいるかと思っていたが、ほとんど変わらない美しい星空だった。


 ──明日から、こちらの学校に通うことになる。


 とはいっても、すぐに夏休みに入るので、顔見せだけになるだろうが。


 地元で通っていた学校は、生徒数の少ない小さな田舎の学校だった。


 生徒数の桁が違う学校はどんなものなのか、美燕には想像もつかなかった。


 不安がないかと言われれば、もちろんあるが、むしろ美燕はそうであることを望んだ。


 日常に追われていれば、余計な事を考えずに済む。


 歩くことだけに集中できる。


 その時、ほとほととドアを叩く音がして、静流の声が聞こえた。


「美燕さん、ご飯の用意ができましたよ」


「はい、今行きます」


 答えた美燕は浴衣の衿を正し、網戸を閉めて蚊取り線香に火をつけると、豚の中に設置して部屋を出た。


 暗い部屋の中に、蚊取り線香の煙と、淡い星の光が漂った。


 



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ