あれが過ぎると申します 顔
「お前もこれでうちの子だ。到頭、うちの子になったのだな」
知らない大人の男がそう言って自分の頭を撫でた。何でも、自分はまだ五つばかりのころおいであったろう。
頭を撫でられながら、頻りに上から顔を覗き込んで来るその男の、感極まったと言わんばかりの表情を見上げて、何とも言えぬ厭悪を覚えた。
こんな顔が自分の御父さんになるのかと思えば、悲しくなった。
「坊、御母さんだよ。甘えていいんだよ。よろしくね」
声に振返ると、小柄な女の人がにこにこ後ろに立っていた。知らない顔ながらも、実に何とも懐かしく引き込まれるような顔だった。ああ、この人が御母さんなのだ、この顔ならば大丈夫と思うと、何だか非常に嬉しくなった。
しかし、その懐かしい顔の配偶があの何とも厭な顔なのだと思うと、途端にくさくさと厭気がさした。そんな道理はあってはならない。金輪際許されぬことだと肚が立った。
二人の間に挟まって、それぞれに手を引かれながら歩いて行った。
父だという人の手は、節くれて固いながらもじとじと妙に湿って暑苦しかった。御母さんの手はひんやり乾いて柔らかかった。
「ここが今日からお前の家だよ」
式台に腰掛けさせられると、目の前に水を張った桶が置かれた。見下ろすと水面に自分の顔が映った。どことなく御母さんに似た顔だった。ああ、これで大丈夫と嬉しかった。
御母さんはそばに屈んで自分の足を丁寧に洗ってくれた。
そうしていると、昏い奥から男の子と女の子が出てきた。
「お前の兄さん、姉さんだ。仲良くするんだよ」
父なる人がそう言った。にこりともしない二人の顔はどこかしらこの男の目鼻立ちを写していた。御母さんの顔とは全く似つかない。
姉なる人のじとじと湿った手に引かれながら、仏壇の前に連れて行かれた。
並んで跪くと、姉なる人がお燈明を点し、線香に火を点けて手渡されたので、ちらちら横を窺いつつ、その通りに真似て自分も手を合せた。しばらくして目を開けると、姉さんはまだ瞑目していた。もぐもぐと口が動くので何やら唱えているらしいのだが、その声は一向に聞こえなかった。
仕方がないので、手を合せたまま線香の煙が立ち昇る先を目で追って行くと、昏い鴨居に古ぼけたような写真が二つあった。
「おじいさんとおばあさんです」
きっぱりとした口調が隣から響いた。はっと見遣ると、姉なる人はまだ目を瞑ったままに、手を合せていた。
なるほど、そうだったのか。
写真の二人は全く異なる風貌であったが、それぞれが違った風に御父さんの顔とよく似ていた。兄さん姉さんの顔にも似ていた。それも、厭なところが子や孫に引継がれている気がした。
はっきりしないおぼろげな写真ながら、殊に眼付がどうも厭に感じられた。その四つの厭な眼にじろじろ睨下ろされているので、身の竦む思いがした。
ようやくお参りが済んで厭な仏間を離れた後は、日が暮れるまで兄さん姉さんに相手をしてもらっていたように思うが、何をして遊んだのかは皆目覚えていない。ただ、その間中、兄なる人も姉なる人もにこりともしなかったことだけは、ありありと覚えている。
鼠のような顔の下女に夕餉が整ったと促され、座に就いた。
やがて、御父さん兄さん姉さんの前に、めいめい鮮やかな朱塗りの膳が運ばれて来た。膳の上には、闇のような黒漆の什器が幾つか並んでいる。
しかし、自分の前にだけは御膳が来ない。待っても待っても御膳が来ない。二、三人いたように思われる下女もすっかり引っ込んでしまっている。
「それでは頂こうか」
御父さんも兄さんも姉さんも、自分を気にしてくれるそぶりも無く、めいめい椀の蓋を取り食事が始まった。
同じような顔の三人が、高く盛られた真っ白な飯を、てっぺんから箸の先にちょんと摘まむように崩しながら、厭なふうに開け閉めされる口の中へと次から次に運んでいる。
その様子を寂しくひもじく見ているうちに、座の中に御母さんの姿が見えないことに気が付いた。どうしたものだろうか?
何とも、一層寂しく、心細く、困ったことに思われた。
すると、
「御母さんは三年も前に死んだのだ。そんなことも知らないのか」と御父さんに叱られた。
「そんなことも知らずにどうする」と兄さんにも甲高い声で叱られた。
「知らぬは恥と思いなさい」と姉さんが最も手厳しかった。
そうして、にこりともしない三つの顔が六つの厭な眼付を自分の額に据えながら、ぱくりぱくりと白い塊を呑み込んで行く。
思えばそうだった。御母さんはとうに亡くなっていたのに、今の今まで忘れていた。自分のことながら何とも情けなく申し訳なく、消え入りそうに思われた。
ため息交じりに項垂れると、何も無かった筈の膝の前に、いつの間にやら赤い土器の鉢が据えられてあった。鉢の中には自分の拳ほどな蟹が居た。弱々しく脚や鋏を動かしているので、まだ息があるものとみえる。その緑がかったような黒ずんだ鼠色の背中には、人の顔のような模様があった。何やら、この家の人たちの顔に瓜二つであった。蟹の甲羅にある厭な二つの眼付が鉢の中から自分を睨上げている。
何ともいたたまれなくて、家を出ようとすごすごと沓脱に向かったが、三和土の上にさっき脱いだ自分の草履が見当たらない。自分のものどころか、誰の履物も見当たらない。
裸足で出て行くしか法は無いのかと思ったら、目の前を蟹が横切った。気が付けば、幾匹、幾十匹もの蟹がわらわら三和土に満ちて蠢いている。これでは足の踏み場も無い。
そうして、めいめいの背中には、矢張り人の顔のような模様があり、甲羅に刻まれた無数の厭な眼付がそれぞれ一斉に自分を睨めている。
どこにも逃れる術は無いのだと観念した。
座に戻ると、父なる人も兄なる人も姉なる人も、ほれ見たことかという顔付で自分を見ていた。
情けなさと心細さにどうしようもなくなり、膝の前の鉢の上に項垂れた。
すると、鉢の中に蟹の姿が無い。はっと思ったら、その空になった赤黒い底からみるみる水が湧いてきて、なみなみと溜まった。
昏い水の面に自分の顔がおぼろげに映っている。
その眼付が我ながら何とも厭らしく思われた。何だか段々と自分も、この家らしい顔じみてくるらしい。
「御母さん」と心の中で呼んでみた。しかるに、懐かしいその顔が思い出されない。どうしてもどうしても思い出されない。
涙がぽたぽたと続けざまに鉢の中に零れた。
水面が乱れ、映った顔が歪んで消えた。
<了>




