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火の頭

作者: 夏野 篠虫

 夜風がしんと止んだ。火の時が来た。

 マンションのベランダで本日三度目の挑戦を始める。先月の公園での挑戦と比較分析すると成功率が低いのは予め承知している。

 市販のマッチだと上手くいかなかった。一度部屋に戻り持ってきた、”水中でも消えない”が謳い文句の海外製マッチを躊躇なく擦る。一発で小さな手持ち花火のような火が勢いよく噴き出す。素手で長く持つのが辛いほどの熱さだ。

 マッチは挟んでいた二本の指から放物線を描いて眼下の河川敷に音もなく落ちると、チリッと弾けるように、薄茶に枯れた芝生へ火がついた。

 雨は二週間降っていない。小さな火種はじっくりと乾燥した空気を燃料に、まるで水面に石を投げたように燃え広がって、真っ暗な地面はオレンジ色の光を煌々と放つ。これを見ると、祖父の家にあった暖炉の暖かみを思い出す。優しかった祖父は私が幼い頃に火事で焼死した。今は思い出の中で真っ黒になっている。

 火炎の誘惑に吸い寄せられて大小の蛾や蝿や蚊が水辺から叢から飛び出してきた。危険な光に照らされた星屑のような輝きは儚く、不規則に伸びる火の手に薄翅を絡め取られて次々炭となっていく。

 空気が温まるにつれ気流が上向きに、それに伴って平面に拡がっていた火は空を目指して真っ赤な火の粉を散らす。

 うっとり眺めていると、距離によって引き伸ばされた間抜けなサイレンが微かに聞こえてきた。向かいのマンションの部屋にはあちこちで明かりが灯っていく。瓦葺の民家の庭先に老人たちが、白箱型の現代的住居の二階では幼児が目を擦りながら夢見心地で窓の外へ顔を出す。寝静まった町は短時間で昼間の賑わいを取り戻していく。まるで火に飛び入る虫達のように人がざわざわと集まってくる。

 それら全てが川に映り、河川敷の火事でしか見られない絶景を生み出す。火、人、水、渾然一体となった舞台で生命が高らかに乱舞する。ただの火炎は味気ない。皿に分厚いステーキ肉一枚あっても寂しく感じるように、ニンジンやコーンなど周囲を固める彩りが添えられてこそ美味しさが際立つのに似ている。

 だがしかし、虫や植物以外に余計な犠牲を出してはいけない。それこそ人死にがでたら台無しだ。危険を自覚する行動には己のために防衛線を引かなければならない。絶対に超えてはいけないライン。犯罪美学などと矛盾した高尚なものにする気はさらさらないが、哲学はある。それは他人に理解される必要はない。他人と己を差別化し唯一無二にするため守り通すだけのものだ。

 


――消防車が近づいてきた。野次馬の数もかなり増えてきている。勇敢な市民は川から水を汲んで延焼を阻んでいる。中心地はもう燃え尽き、火勢のピークは過ぎた。

 今夜はこれで十分だ。

 ベランダから部屋に入るとき、背後のまだ続く魅力的な喧騒に一度は足を止めたが、やはり思い直して部屋に入る。明日は朝から仕事。早く布団に入ろう。そうしたら眠りにつくまで瞼の裏をスクリーンにして何度も今夜の光景を思い返そう。網膜に焼き付けた残像が消えないように、わずかでも長く……



    *  *  *



『速報 河川敷で火事 放火か 県内で類似事件五件目』

『――続いてのニュースです。昨夜未明、〇〇県△△△市××の□□川の河川敷で、「原っぱが燃えている」と付近の住民から消防に通報がありました。消防から駆けつけると、河川敷左岸のおよそ百平方メートルの草地が燃えていました。火は一時間後に消し止められ、この火事による怪我人はいません。県内では今年二月から同様の不審火が計5件発生しており、いずれも火の気がないことから警察は同一犯による放火事件だと――』



『※※市の公園でまた不審火 近隣市町村では昨年二月から同様の火災 同一犯か模倣犯か』


『▽▽▽町の廃墟で不審火 例の放火魔か 昨年から合計十一件目』



    *  *  *



――火をつける手段は何でもいい、という訳ではない。

 まず手間がかからない方法でなければならない。ただのサラリーマンの身である私に費用はあまり用意できない。よってガソリンや着火剤を多量に用いない。候補地の中から枯草や廃墟など燃えやすい素材を物色し下見を済ませておく。

 そして火をつけるとき、誰にも見られず自然で疑われることの無いような方法で実行しなければならない。自宅のマンションからマッチを放るやり方は一番初めに思いついたものだ。偶然性もありつつ発見もされにくい。ましてベランダから火をつけるとは誰も考えないだろう。

 お気に入りの方法だったが、しかし同じ方法を使い回すのは危険だ。同じ個所で火災が起きれば警察も当然様々な可能性を疑うようになる。

 なので自宅前の河川敷から離れ、町内を出て市内、県内全域と行動範囲を広げた。そうすれば捜査を撹乱できると考えた。目論見通り未だ警察官に声を掛けられていない。

 被害者もなく、火がついたこと以外に世間に大きな悪を成していないと自負している。このまま死ぬまで火をつけていく。そんな生き方ができれば、何と素晴らしいことだろうか。想像するだけで甘美な居心地である。



    *  *  *



『〇〇県連続不審火二十件超も”被害者なし”はなぜか』


『〇〇県連続不審火三十件を越えるもいまだ手がかり掴めず ネットでは自然発火説や陰謀論も浮上』


『――例の連続放火事件、あるじゃないですか。単独か複数犯か割れてますけど、僕は単独犯だと思います。一連どの事件にも共通点があるんですよ。被害者がいないんじゃなくて、前提として人気のない場所に放火してる。しかも火をつけるのも公園、河原、廃墟みたいな公共のもの、もしくは燃えても損害が少ない場所を選んでる。これは意図的です。恐らく犯人は人や物品に被害を与えたいタイプではなく火そのものに、なにか特別な……』



    *  *  *



――好きな食べ物をたらふく食べたことはあるだろうか。

 自分が最も愛する大好物。毎日食べても毎食食べても飽きないと信じるような食物。そんな物がある人の方が少ないだろうが、皆にあるとしよう。

 通常、その無限の食事の夢を叶えることはできない。金銭や場所など現実的な制約が立ち塞がるからだ。

 なら、それらを突破し実現したら?

 歓喜に沸き立ち狂喜乱舞するかもしれない。表情に出さずとも心底喜びに震え脳内で勝利の鐘を打ち鳴らすだろう。

 さて目の前のテーブルの上に用意された食べ物たち。無くなることは無い。好きな時に好きなだけ食べられる。どうぞどうぞ、思う存分召し上がれ。

 パクッと一口目。とびきり美味い。二口目。やはり良い味だ。三口目。無限に食べられる。四口目。口も胃も幸せ。五口目……十五口目……満腹で休憩……四十一口目……五十六口目……舌に違和感が。六十四口目……胃もおかしい……七十二口目。気持ち悪い。脳が食べるのを拒否する。七十三口目。限界だ。

 人は気づく。たとえどれほど愛していても、飽くことなんてありえないと信じていても、物には許容量がある。一定期間に一定量を摂取してしまえば器は容易く溢れてしまう。この手の話を過去耳に入れたとしても自己に省みない人間が大半だ。人はその身をもって知らなければ、薄い膜一枚隔てただけで十全の理解に近付けなくなる。

 見聞のみを武器に本質を知ろうなどとは不可能だ。傲慢極まりない神に背く行いだ。

 いずれ罪を精算せねばならない。



    *  *  *



『特集:〇〇県連続不審火 最後の火災から半年 捜査は難航 目撃者おらず証拠もなし 捜査関係者「被害者ゼロとなれば捜査打ち切りもやむなし」』


『>ちゃんと捜査しろよ』

『>放火魔捕まえられない警察が叩かれてるけど、誰もケガしてないし別によくね?』

『>人を殺そうが草燃やそうが犯罪者は全員同じだろ。裁かれなきゃだめに決まってる』

『>ヤバイ趣味は表に出すもんじゃないな。一生隠しとけよ』

『>隠すのも楽じゃない』

『>犯罪者擁護すんのやめろ』

『>このまま逃げきれ』

『>しょうもな』



    *  *  *



 私は見たかった。周囲全てを飲み込み轟々と燃え盛る炎を、ちりちりと枯草を焦がす火を。赤、臙脂、深紅、橙、空気と媒体による化学反応の芸術を味わいたかった。

 悪意は欠片もない。

 これは孤独な思考の獄中で膨大に蓄積した純粋を何度も濾して煮詰めて完成した、私が私であるためになくてはならない最後の臓器なのだ。


 幼いころに両親は死んだ。母は飲酒運転のひき逃げに遭い、それを苦にして父は葬儀の夜に縊死した。

 私は父方の祖父母に引き取られた。彼らは決して裕福な暮らしではない中で少しでも私の負担を軽くしようと努めてくれた。古びたおもちゃを与えたり芋菓子を作ってくれたり。

 私はひどく冷めていた。強いショックを受け呆然自失となるのではなく、未就学児でありながら世界の過酷さをすんなり受け入れた。そういう素質が生まれつきあったのだろう。大人びている訳ではなく聡明でもないが、他人の脳内の思考や胸中の感情が何となくわかった。早くに親を失った代償に神が私に授けた力なのかもしれない。私が持つ唯一の財産で呪い。

 祖父母に対して迷惑をかけている自覚はあるが彼らを頼らなければ生きていけない。望んでいないことだとしてもやらなければ死ぬだけ。私は愛想笑いと人心掌握の術を齢六歳にして極めた。そんな子供がまともに育つだろうか。

 いや断定はできない。天性の人格はやはり存在するのだ。生後の環境も両親も、生涯の友人や歴史的事件や天災も無関係に、母親の体内に生成されたその瞬間から秘め抱える唯一無二の心が人にはあるのだ。

 私の場合、後天的に獲得したそれらの術は単に生きる上で必要な物だっただけで、心とは別のところにあった。私の心はいつも不動であり感動とは無縁だった。他人の思考を読めるのは直観力として私に備わっていたが、結局のところ真に他人を理解することは今現在もできていない。不完全な能力が、たまたま胸ポケットに入っていただけだった。

 育ての親である祖父母の家には暖炉があった。私はその前に座り込み、揺らめく火の動きを観察するのが好きだった。

 祖母に聞いたことがある。

「火は生きてるの?」

 祖母は言った。

「そうだねぇ。生きてるみたいだよね。でも火は生き物じゃあないの。死んだものが、天に昇るための、最期に出す光なの」

 祖母の目尻に寄った皺が暖炉の火でいつもより深く見えたのを覚えている。

 その言葉をずっと大事にしていた。

 暖炉の火が原因で家は全焼した。私は学校に行っていたため偶然助かった。祖父母は煙を吸い込んだせいで気を失い、家と共に炭となった。

 私の中に祖父母との思い出と一塊になった火の記憶がごとん、と心底に位置ついた瞬間だった。

 だがその記憶はこのまま成人しても保存されたままで、封が解けることはなかった。

 普通に就職し、普通に結婚し子供ができた。長年普通の幸福を享受してきた。

 だが無理だった。

 テレビのニュースで、ある火災事件の映像を見たとき肺が張り裂けて脳が溺れるような感覚を受けた。急速に解凍されたかつての記憶。メラメラと燃えだした火炎を抑えるのは、私にはもう不可能だった。

 堰を切ったように流れ出した火への憧れは私を少年時代に巻き戻し、突き動かした。



    *  *  *



『〇〇県連続不審火から一年で新展開 同一犯と思われる昨夜未明の河川敷火事で一連の事件初の目撃者現る』


『捜査関係者に独占取材「捜査が再び活発化しているのは間違いない」重要証拠をついに発見か』


『河川敷火事現場から海外製マッチの燃え殻 国内はネット販売のみ 輸入代理店に情報開示請求』



    *  *  *



――もう時間が残されていない。

 罪は裁かれなければならないが、それは他人の手ではなく自らの煤で汚れた手で以て行わなければ意味がない。

 逮捕されないよう立ち振る舞ってきたのは自らの行いは自らで、終わらせたいからだ。

 ただの我儘だろう。異常犯罪者の妄言だ。

 世間は許さない。

 土地を、廃墟を燃やされた人は許さない。

 逮捕された犯罪者も許さないだろう。

 私は許されたいと思わない。


 最期くらいは贅沢をしてもいいだろう。

 どうせ我儘を言うなら一つでも二つでも同じことだ。

 私はガソリンスタンドに赴き、店員に許可を得たうえで持参したポリタンクに灯油を注入した。10Lは多いだろうか。重たいし移動が面倒だ。

 しかし計画に不備が起きては全てが崩壊する。念には念を入れて10Lを購入した。

 一度家に帰る。マッチを忘れずにポケットへ入れる。海外製ではない普通の国産市販品。歩くと孔雀の絵が描かれた新品の紙箱が軽い音を立てる。

 すり足で玄関まで歩き鍵をかけ家を出た。

 妻と子どもは夢の中にいる。リビングの机に手紙を置いてきた。中身はありきたりな感謝と別れの言葉を綴った。彼女たちへ他に語ることなんて何もない。

 一度も振り返らずマンションを出て目の前の河川敷へ降りた。芝の枯れる時期だが私が3度燃やした痕跡はもうどこにもない。人の記憶からも消えていくだろう。

 下流方向へしばらく歩く。

 夜の川は風を背に乗せてさらさらと流れる。

 街灯の連なりと疎らな車通りが目に映る。橋の上を黄白色のヘッドライトが時折行き交う。

 格好つけて過去を振り返ろうとするが、振り返るべきものが私にはない。燃え屑同然の価値を失ったガラクタばかりが目につくが、どれも錆びて穴あき朽ちている。真っ赤に盛る火の記憶すらもう輝かない。全ての終わりが近いと察した心が光りを消したのだ。

 家族にはわずかだが申し訳なさを感じる。しかしそれすら単なる社会的義理でしかなく、結婚も向こうからお願いされてのことだった。子どももそうだ。生まれた我が子を見たら自然と愛情が湧くものだと信じていたがそんなものは他人の中にしか存在しない幻想だった。

 子どもが成長して独立できるまでくらいの貯金は残してある。それで勘弁してほしい。私にこれ以上の人間性を求められても応えられない。



 ここらでいいか。

 一時間程度歩いた橋の真下。草はなくコンクリートと砂が敷かれたこの地点に腰を下ろした。

 ポリタンクを手に提げて歩き続けるのは運動不足の身には辛い。だが辛さこそ生を実感できる最も手軽な方法だと思う。幸福は曖昧過ぎる。一般的な幸福を持っていたはずの私は決して幸せではなかった。


 固く閉めたポリタンクの蓋を回した。

 ポケットのマッチ箱を再度確かめる。大丈夫、ちゃんと入っている。

 周囲に人はいない。

 ポリタンクを一気に持ち上げ頭上でひっくり返す。

 刺激臭と共に灯油が全身に降り注いだ。臭いに鼻を顰めてしまう。

 大きく息を吸った。最後の呼吸。最後の酸素。

 マッチを取り出し、擦った。

 瞬間的に気化した灯油に引火し、同時にシャツから足へ頭へ、蛇のように火が着火した。

 痛い。熱い。当然だ。だから耐えられる。

 私の顔の皮膚が焼ける臭いがする。

 髪の毛が燃えると臭いと聞くがその通りだと知った。

 物が燃える、肉体が燃える音は想像以上に低く轟音となって鼓膜に届いた。

 熱い。腕の皮膚がパチンッと弾けて肉が露出する。血も沸騰しジュウジュウ音をたてて蒸発する。

 肺に高熱が吸い込まれる。内側から熱く痛く焼け焦げていく。

 幸せ。目が、ゆっくり濁って見えなくなる。感触なく鼓膜が破れた気がする。痛い。音が聞こえない。

 口の中が乾燥する。熱い。まだ大丈夫。いける。燃えている。服が焼け落ちた。

 直立したまま、動けない。関節の筋が硬直している。熱い。幸せ。

 バランスをとるのも、難しい。

 思考が熱い。とてもでも頑張れる。

 楽しい。これが人生だ。初めていま、私は生きている。

 熱い罪が消える。私の肉体と共に。幸せで痛い、熱い熱い。骨がいたい皮膚がいたい内蔵がいたい。

 いたいあついあつ。



 あつい。




 しあわせ。なり。かった。



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― 新着の感想 ―
まあ、色々とこの人物に思うところはあるけれど。 ギリギリのラインに踏み留まっていたことは、彼なりにもがき、努力をしていたのだと思う。 なので、一言。 ──おやすみなさい、どうか穏やかな眠りを。
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