16. 『漆黒の契約者、降臨』 前編 II
黒い虚空が裂け、鮮烈な光が闘技場を形づくる。足元に浮かぶ紋章が震え、床を走る幾何学模様が青白く輝いた。空気は重く、呼吸ひとつで肺の奥が痺れるほどの緊張が走る。
西園寺の身体を白蛇の紋様が包み、槍が実体化した。槍身は金属音を響かせながら伸び、蛇の幻影がからみつく。観客席から、黄色い歓声が飛んだ。
「エンゲージ、毒牙の呪縛」
彼が指を弾くと、嶺の足首に冷たい鎖が絡みつく。鎖は脈打ち、毒のような紫光が血管を這うように広がった。
「っ……!」
俺は反射的に黒羽を広げ、全身を守る。
だが、羽の隙間から、金属の擦れる音と共に冷気が入り込む。皮膚の下で、じわりと麻痺が広がっていった。
(やりやがったな……足を封じて、先に主導権を取る気か)
観客のアバターたちがざわめき、熱盛の実況が響く。
「おっとォ! いきなりの足止めェェ!」
「動けないと、ただの変態ですね」
解説の宮沢が淡々と告げる。さっきから宮沢さん俺にキツくね?
「お前は攻めの一手でしか輝けない。なら、潰すのは簡単だ」
西園寺が笑みを浮かべ、槍を地面に突き立てる。直後――槍先から毒蛇が放たれ、胸を狙ってくる。
「くそっ、ナイトフェザー・シールド!」
黒羽が一斉に硬質化し、盾のように前方を覆う。蛇がぶつかり、火花と黒煙が舞う。焦げ臭い匂いが鼻を突いた。
「フハハハ! 効いてる、効いてるぞ」
西園寺はさらに間合いを詰める。槍が風を裂き、衝撃が鼓膜を震わせた。嶺は後退しながら受け流すが、足の鎖が軋み、バランスを崩す。
(攻め手が……このままじゃジリ貧……)
心臓が高鳴り、背筋に汗が伝う。だが手札を握る指先には、まだ力がこもっていた。
「――読んでいたぜ、アームズブレイカー!」
「なに?」
羽が鋭い刃となり、漆黒の三日月を描いて西園寺へ迫る。羽根が切り裂く音が鼓膜を震わせ、観客席がどよめいた。
「さすがトップランカー……。甘さも一流だよ。ヴァルマ・カウンター、発動!」
西園寺が冷笑し、空中に蛇の門を開く。
羽の刃は呑み込まれ、光の粒子に分解されて消えた。
「!?」
おもわず、目が見開かれる。
槍を構えた西園寺の唇が、冷たくほころぶ。
「――我が身に絡みつく白蛇よ。嘆きの鎖をもって、あらゆる未来を縛りあげろ」
銀色のカードが砕けると同時に、眩しい白光がほとばしった。蛇がとぐろを巻く幻影が現れ、次の瞬間には全身を覆う白い鎧と化す。それは蛇の鱗と悪魔の翼を合わせたような装甲──冷酷な輝きの要塞。
「跪け、白蛇要塞」
蛇の口からは槍が突きだし、周囲を締め上げるほどの圧迫感。刃先から散った火花が頬をかすめ、焼けた鉄の匂いが漂った。
「無駄だ。お前の一手は、すべて俺のシジルの前にはじかれるだけだ」
白き刻印が額に浮かびあがる。
彼の声音は勝利を確信する者。普段の彼らしくないほどの饒舌だ。
観客たちが息を呑む中、西園寺の白槍が再び閃き、フィールドを穿つ。
(西園寺……まさか?)
観客席が沸き立ち、熱盛の絶叫が響いた。
「おっとォォォ! 天堂選手、攻めきれないィィ!」
「完全に手札を潰されてますね。これがパーミッションの恐怖です」
宮沢の冷静な解説に、男子生徒たちがざわめく。
「さあ、そろそろ決めに行こうか――」
西園寺が低く呟き、槍を大きく構えた。
フィールド全体が揺れ、観客席の空気すら震えた。
槍が肩口をかすめた瞬間、黒羽がばらばらと砕け散った。
焼けるような痛みが全身に走り、羽根の残骸が光の粒となって虚空に吸い込まれていく。
勝負の行方は誰の目にも明らかだった。
「どうした、トップランカー! 羽根を失った烏に、もう飛ぶ力はないだろう!」
西園寺の笑い声が、刃のように鋭く心臓を抉る。観客席からも嘲笑が沸き起こり、熱気と冷笑が俺を押し潰そうとしていた。足元の鎖がじりじりと食い込み、焦げた匂いが鼻腔を満たす。
肩口の血が戦闘スーツを伝い、冷たく肌を撫でていく。
呼吸が荒い。胸が焼ける。
心臓の鼓動が早鐘のように響き、思考が揺らぎかけた。
──もうダメかもしれない。
こんな状況から、どうやって立て直せばいい?
観客も、相手も、世界すべてが「負け」を決めつけて笑っている。
勝ち続けてきた自分が、ただの舞台装置みたいに崩れていく。
……いや、違う。
歯を食いしばれ。
唇の端から血が滲むのも構わず、かすかに笑みを浮かべると、西園寺は鋭く睨みつける。
「なんだ? さっさとサレンダーしろよ」
(まだある。俺には……残ってる)
震える指先が、底に眠る一枚へと伸びる。擦り切れたシジルの縁が指に食い込み、その小さな痛みが逆に意識を研ぎ澄ませる。指が覚えている――これは、俺に託されたもの。
敗北寸前の今だからこそ、切る意味がある。
(あの人が言っていた……『お前はまだ、本当の闇を知らない』って)
胸の奥で、記憶の声が囁いた。観客の嘲笑が遠ざかり、熱狂が霞んでいく。
俺の視界には、ただ一枚のカードだけが浮かび上がっていた。
――淡く、刻印を放つ印章。
赤ではなく、蒼でもなく、どこか聖なる黒を帯びた紋様。
『いざという時に使え』
耳の奥で、微かにあの人の声が蘇る。
澄んだ、しかし鋭い特有の響き。
『そのカードは……呪縛を断ち切るエンゲージ』
背筋がぞわりと震えた。
『お前なら使えるはずだ』
俺はわずかに笑みを浮かべ、腕を高く掲げる。
「西園寺……俺には、まだ切り札が残ってんだよ」
――エンゲージ!
足元の紋章が炸裂するように輝き、眩い閃光のあと、闇が広がった。
空気が一瞬で凍りつき、観客席のアバターたちが息を呑む。
「我が血に刻まれし紋よ。闇より深く、虚無より昏き翼を解き放て」
掲げたシジルが裂け、そこから漆黒の光が噴き出した。光はやがて焔に変わり、黒羽を包み込む。その縁を白炎がなぞり、灼熱の蒼白が闇を照らす。
「降臨せよ──黒炎竜装!」
轟音とともに、黒竜の如き鱗と鋭利な爪が身体を覆っていく。
漆黒の刀身が腕に馴染み、まるで夜そのものが形を持ったようだ。
観客席に重圧がのしかかり、ただのデータであるはずの空気すら震えていた。
「なんだ二人とも!?」
「シジルの系譜に、あんなのあったか!?」
どよめきが渦巻く中、嶺は静かに刃を構える。
その眼は闇の底に灯る焔のように、揺るぎなく光っていた。