14. 『漆黒の契約者、降臨』 前編 II
瓦屋根が夕日に赤く染まる敷地を横目に、木彫りの門をくぐる。左右には苔むした蔵が静まり返り、軒下の風鈴がそよ風に揺れて涼やかな音色を響かせる。
白い漆喰の母屋前に立ち、砂利を踏むたび「カリッ」と乾いた音を耳に刻む。重厚な柱と古びた引き戸を開けると、畳の香りがふわり。墨絵の掛軸が目に付く玄関で、黒猫のマダラが尻尾をパタパタと揺らしていた。
「あ、お兄ちゃんお帰りー」
庭先からTシャツに短パン姿の佳織が駆け寄る。両手いっぱいに抱えた採れたての野菜。そのみずみずしさに、自然と顔がほころぶ。
「メシは?」
「カレーだよ」
「大盛りな」
「自分でよそってよ~めんどくさい」
「花嫁修業だぞ?」
「まだ、お嫁に行きません~」
そんな軽口を交わしながらも、家のぬくもりが──疲れた俺の心を、ほどいた。
居間の障子越しに虫の音が聞こえる。テーブルには湯気の立つカレーと佳織お手製のサラダが並ぶ。二人で「いただきまーす」と合掌する。
「親父は?」
佳織がスプーンを手に取り、カレーに一口すくいながら答えた。
「組合の集まり。もうすぐ祭りだから、準備で大忙しみたい」
「ふーん。母ちゃんからは連絡あった?」
スマホを取り出した佳織の画面には、砂埃の舞うピラミッドと、一瞬カメラ目線の母の笑顔が映っている。考古学者である母は今、エジプトの遺跡調査中だという。
古い家屋の静かな食卓に、二つの遠い場所──地区の祭りと砂漠の古代遺跡。グローバルすぎないか?
「……学校たのしい?」
佳織のおもむろな言葉に手を止める。
「なんだよ、急に」
「いや、ここのところ、帰り遅いし、よく鼻にティッシュ詰め込んで帰ってくるしさ」
「ああ……」
もぐもぐと噛み締めながら、ふと最近を振り返る。公式戦が近い。それだけなら、ただの日常の一部だ。
けれど……この頃、やたらと女子と接触する機会が増えた気がする。殴られたり、蹴られたり、突き飛ばされたり。いや、別に喧嘩を売ったつもりはない。
肌に残る、柔らかい感触。それが妙にリアルで、うずく傷が余計に気になる。
「なんか顔がいやらしい」
佳織が睨みながら言葉を吐く。「きも」とまで添えて。
「思い出し笑いだよ」と、ごまかす。
周囲の視線にも、少しは慣れてきた。女子たちの陰口も、もう驚かない。「なんでいんの?」と聞こえるような声には、さすがにこたえた。トイレでひとり、泣いたりもした。――もう、平気だけど。
……不可抗力という言葉を、彼女たちは知らないのかもしれない。苦い記憶を、水で流し込む。
心配させまいと、笑ってみせる。苦笑いでも、表情の意味は自分だけが知っていればいい。
「なんでもねぇよ」
「そ……ま、だいだいはお兄ちゃんが悪いし。謝りなよ?」
「前提がおかしいだろ」
謝ったら負けだ。眉をひそめる俺に、佳織はふいに大きくため息をついた。
「いい? ぼっちのお兄ちゃん。自分が変わるしかないの。おじいちゃんも言ってたでしょ? 人間関係の縮図は夫婦仲にあるって。円満でいたいならすぐに折れろって」
何教えたんだじいちゃん。
「な──」
思わず佳織の口を押さえる。むぐっと顔を歪める妹が、なぜか可笑しくて笑いをこらえた。
「まったく、何を言おうとしたのかなぁ? 食事中に下品よ」
「んん……ブハっ! なにすんの!」
気を取り直し、俺は立ち上がる。
「おかわりよそってくるわ」
「はやっ!」
成長期の男子なもんで。
「じゃ、バゲーンダービーも持ってきてー」
「あいよ」と冷蔵庫を開ける。
「一個もねぇぞー」
「えぇーそんなことないよー」
「お前、昨日食ったんだろー」
「お兄ちゃんが食べたんじゃないのー」
「食ってねぇよ。てか、成分表示おかしいだろ」
――空き箱に並ぶ栄養成分表示。
熱量:600kcal
おやつ:70g
自分へのご褒美:100g
どこのOLだ。佳織はくすりと笑いながら言葉を続けた。
「なら、でぶでぶ君でいいよー」
「太るぞ? スリーサイズ言っ――」
ゴキンッ!
言い切る前に、空のペットボトルが俺の頭を直撃した。
反抗期の妹もつって、ほんと大変だ。
*
屋根の上に浮かぶ月明かりの下、髪を夜風に揺らす一人の少女がいた。うっすら透けるレースの袖からのぞく白い腕。小さな真紅の角──彼女は間違いなく、夜を抱く。
手にするは銀色に光るカップ──バゲーンダービー。
そっと口を寄せると、甘酸っぱい香りが夜風に溶け出す。
「ンンン。おーいしぃ。どれどれストロベリー味は?」
ゆっくりとスプーンを沈め、すくい上げたその一口は、クリームのとろける滑らかさと、果肉のつぶつぶした甘みが同時に弾けて──口の中で苺の甘みがはじけた。
細い指先で雪のように白い頬を撫でながら、彼女は蕩ける笑みを浮かべる。舌先で濃厚ないちごシロップをひと舐めすれば、まるで夜そのものを味わうかのように目元が妖しく潤んだ。
「明日か……」
満月が映すその微笑は、告げている──甘美な悪戯の始まりを。