音楽
「五十嵐さんの息子さん、模試で一位だったんですって!」
「それウチも息子から聞いたわ〜!あの子は絶対神谷高校に行くのよね〜って話しとったんよ〜昨日」
……わざとらしい
「いえいえそんなそんな……。たまたま塾の先生の教えが息子に合ってるみたいで……」
……白々しい
そんな予定調和の導入で、想定通りの返答を待って、そんな会話になんの意義があるんだ
「あら、噂をすれば涼君じゃない」
「あらほんと、いま隣空けるわね」
映画館でよく見るような赤い布地に覆われた手触りの良い椅子が一つ空いた
後ろの人の邪魔にならないよう身を屈めて席に身体を押し込んだ
「涼君、模試で一位なんですってね!本当によく頑張ってるのね」
「ピアノもうまくてうちの娘も今日聴くの楽しみにしてたのよ〜」
「ありがとうございます」
自分の顔が見栄えのいい笑みを自動的に出力したのを感じた
「涼、体調大丈夫なの?」
「大丈夫。トイレ混んでただけだよ」
予定調和の導入、想定通りの返答、そんな会話に意義はない
ただ、自分は譜面通りに動ける人間だということを周囲に示すことだけだ
「次は中学生の部です」
会場のステージにピンクのワンピースドレスを着た少女が登壇する
この発表会では年齢が下の順から発表していく。おそらく中学一年生なのだろう
「発表曲はエリーゼのために」
パチパチパチ………
自分もかつては弾いた曲名を聴き少し懐かしく感じた
自分の順番はまだ少し先、中学三年生が呼ばれ出す頃だ
(その間は少し寝てようかな……。いや、母親とそのママ友に囲まれてる中寝るのはまずいか)
後で母親に小言を言われない程度に目を開けておくことにした
何度も何度も聴いた課題曲、まどろんでいる自分には子守唄になりかねない
腕を組みなおし切り替えながら演奏を待つ
少女はピアノの椅子をわずかに調整しながら、鍵盤に手を置いた
「……───…………」
聴きなれた出だしから演奏が始まる
……?
なんか……なんだ?
かつて暗譜した曲だからこそ分かる、音の違い
(全然聴きなれてないぞ、この曲……なんだこれ)
段々と観客も違和感に気づき、ざわめきが波及する
(これ……もしかして即興でアレンジで弾いてる?発表会当日で?)
序盤は聞き馴染みのある音程だったが、段々と知らない何かになっていく音色
早くなったり、遅くなったり、楽譜に戻ったかと思えば全く別の荒々しい曲調に変わる
奏者の少女は華奢な体を左右に大きく振り回している
胸まで伸びている髪の毛も大きく揺れ動き、わずかな隙間から少女の顔がかろうじて視認できた
(笑ってる……)
顔をりんごのように真っ赤にし、登壇時には幼さを感じた瞳は瞳孔が開き切っている。
鍵盤の端から端まで自由に行き来し、髪を大きくはためかせながら演奏している
足の先から頭の先まで、身体の全てを使って演奏を本気で楽しんでいることが伺えた
ふと、かつて自分も同じ曲を演奏したことを思い出した
(というか、ここまで原型を留めていないアレンジするなら、オリジナル曲で良くないか)
そんなことを考えていると曲はどうやら終わりを迎えたらしい
観客のどよめきは鎮まり、通常は拍手が起こるはずのところだが、奇妙なほどにしずまりかえっている。
演奏を終え、椅子から降りた少女が舞台の上で立ち止まった
(こんなに小さかったのか)
演奏時は大きく見えた身体も、大きな舞台の上に立っていると驚くほど小さく見える
スタスタと舞台の真ん中まで移動して来た少女
発表前とは違い観客が好奇の目で見守る中
……フン!!
スタスタスタスタスタ
バッ
…………
ドヤ顔だけを残して彼女は細い足をせかせかと必死に運びながら舞台裏に消えていった
(なんだったんだ……一体)
狐につままれたような感覚とはこんな感じなのだろうかと、ふと思った
その後の自分の発表は、日々の練習を指が完全に覚えており、心ここに在らずでも完璧に演奏することができた、らしい。母やその友人達の言である
発表会後、会場前はピアノ講師や生徒で溢れかえっていた
大量の花束が机一式に置かれており、自分宛のものも置いてあった
発表会後、ピアノの先生や生徒に花束を贈る文化はいつまでたっても理解できない
(こんなもの、枯れたらゴミになるのに)
とはおくびにも出さず写真撮影を行う
(中学三年生はこのスペースに集まってる……一年は……)
周囲にはバレないように横目で先ほどの少女を探す
(どこに……あ、いた)
同じような背丈の女の子達の中に、ピンク色のワンピースの少女を発見した
輪の中心には、ややエスニックな服装をした壮年の女性が立っていた
フォーマルな格好の大人が多い中、民族的な衣装をまとった人物はよく目立っていた
(あのおばさんがあの子のピアノの先生なのかな)
「涼、そろそろ塾に行きましょう」
「あ、分かった」
会場から去りながら、目の端で彼女を捉えた
オレンジ色の可愛らしい花束を抱えながら、壮年の女性と話す姿は、演奏時と違い年相応に見えた
様々な車種が所狭しと並ぶ中、見慣れた車の後部座席に乗り込み単語帳を開く
「ピアノ、よく弾けてたわね」
「まあ……」
「でもいつもより集中できてなかったんじゃない?ミスは無かったけど最後のお辞儀がおざなりだったわ」
(あ、)
心ここに在らずだったのだろう、呆然としていても指は曲を自動的に弾くことができたが、どうやらお辞儀までは難しかったらしい
「調子が悪い時でもミスしなかったのは偉いわ、でもそれは当たり前なの。本番では調子が悪くても100点を取れるところまでいかないと……」
段々と耳が遠くなる感覚になり、開いていた単語帳を閉じた
対象物を失った眼球は何かを探すように窓の外を眺め出す
(……!)
ふと眺めた歩道に派手なアラビアン模様を纏った婦人が歩いていた
(さっきの人、ここら辺に住んでたのか)
通り過ぎる車に逆らうように、少し身を乗り出し婦人の目的地を探る
遠目からも分かりやすい服装がどんどん小さくなっていく
かろうじて、大きな看板を携えた一軒家に入っていくのが見えた
(看板……店?……いや、音楽教室だ)
ほんのわずかな瞬間だったが、白地の看板に黒いピアノの絵が描かれていたのが見えた
母親は眩しい夕日に眉をひそめながら車のサンバイザーを降ろす
「ねえ、聴いてるの?」
「うん」
先ほどまで開いていた単語帳を再び開いてはみたが、頭の中は先ほど見た記憶を忘れまいと繰り返し再生していた
(来てしまった……)
翌日、いつものように学校終わりに塾に自習しに行く予定であったが、足は勝手に昨日見たピアノ教室に向かっていた
(確かここだ、タニムラ音楽教室……)
看板に書いてある文字をスマートフォンで検索してみるが、ホームページやレビューなどは一切引っ掛からなかった
どうやら地域の小さなピアノ教室といったところらしい
外観は普通の一軒家。一階にある大きな窓は薄いカーテンに覆われているが、立ち止まって覗けば中の様子は伺えそうだ
(さすがにそこまではしないけど……。というか、俺は何をやってるんだ)
犯罪的思考が脳裏をよぎり、思わず自分の脳味噌を疑う
(というか、発表会で見かけた女の子のピアノの先生?らしき人を追ってここまで来てるなんて、母親に知られたらなんて言われるか)
今の自分は何がしたいんだ。
彼女を知りたいのか、
仲良くなりたいのか、
それとも、
「花音~早く下に降りてきなさい」
「はあい」
伺っていた建物の中から大きな声が聞こえ、反射的に近くの花壇に身を潜める
まるで泥棒になったような気分の中、耳をすませる
「……───…………」
開いた窓から、ピアノの音色が聞こえる
春のひだまりのような、優しい音色だ
花壇からわずかに顔を出し、演奏している人物を確認する
薄いカーテンが風に揺られ大きく開いた瞬間、見覚えのある弾き方が目に入った
大きく、しかし緩やかに体を使いながら演奏している
手先や髪の毛の先まで音を奏でているような弾き方をする少女は一人しか知らない
(あの子だ……)
発表会とは違い、しかし変わらず楽しそうに、全力でピアノを弾く姿は紛れもなく「あの子」であった
その姿を見ると、なぜか体がこわばって動かなくなる
金縛りのようでこの感覚は嫌いだ
体が固まっているのとは正反対に曲は軽やかに進み、演奏は終わった
それと同時に手足に血が通いだす
(帰るか……)
「ただいまー」
自宅に帰り、応接間にある白いピアノに不意に手を伸ばす
しかし、脳裏に彼女の演奏が流れ、手は鍵盤を押すことを拒む
「ピアノ、弾くの?」
「うあ!」
応接間のドア付近に母親が立っていた
「そんな大きな声出してどうしたの」
「いや……なんでも」
不信そうにこちらを見た後、母親は苦笑する
「ピアノはほどほどにね、もうすぐ高校受験なんだし」
「……うん」
「涼はちっちゃいころからなんでもできたけど、ピアノは特に上手だったからやらせてあげたけど、そろそろ引退しないとね」
「受験が終わったら趣味で弾く程度にね」
「……うん」
彼女の演奏を聴いた時のような、つま先から凍っていくような感覚が身を襲った
(この感覚……嫌いだ)
でも、嫌なはずなのに、足は彼女の演奏を聴きに動いてしまう
「……───…………」
週に一回、塾に自習に向かう日は必ずピアノ教室に聞き耳を立てるようになってしまった
花壇に隠れ音色を聴くのにも少しずつ慣れてしまってきている
(こんなことに慣れるな、俺)
義務感から正気に戻り、魅惑的で脅迫的なピアノの音色から逃げるように駅に向かう
ガタン───…………ガタン…………───
電車を待つ中、授業の復習をするためにノートを開く
分かったこと
・名前はカノン(漢字は不明)
・良くかわいらしいワンピースとカチューシャを着用している
(何メモってんだ俺は!)
個人情報が書かれた部分を切り離し、ぐしゃぐしゃにして駅のゴミ箱に捨てた
(自分がどんどん気持ち悪くなっていく……なんでだ、なにがしたいんだ俺は)
自分の行いに吐き気を催しながら電車に乗り、揺れに身を委ねる
向かいの席を見ると、近隣の中学校の制服を着た男子が単語帳を読んでいた
(こんなことで自己嫌悪に陥っている場合じゃないのに……)
中学三年生、もうすぐ高校受験だ
母は近隣でも有名な進学校に自分を入れる予定である
幼いころから教育熱心で、男の自分にもピアノを習わせるほどである
(でも......、もうピアノは続けられないだろうな)
家に近づくにつれ先日の母の遠回しな牽制を思い出し、ため息がこぼれた
(ピアノを続けないなら、彼女の演奏を聴いたって何の意味もない。勉強支障が出てる今、ピアノとは距離を置くべきだ)
(分かってる。彼女の演奏は聞いたところでテストの点が上がるわけじゃない)
(ならなんで───…………)
「なんで私の演奏を聴きに来るの?」
(……え?)
反射的に声がした方向を振り返る
白いワンピース、白いカチューシャ、小柄な体躯に長い髪、幼い顔立ちは勝気な表情を浮かべている
(え……え?)
「だから、なんで私のピアノを聴きに来てんのかって聞いてんの」
「……───…………♪」
カチャ、カタ、コト
「おいし~!このケーキ!」
ケーキを美味しそうにほおばる花音
彼女の演奏とは全く異なる優雅なピアノのBGMが流れる店内
(なんでこんなことに……)
数刻前にさかのぼる
「これ、ゴミ箱で見つけた」
ぴらりと、自分の目の前にくしゃくしゃの紙がどこぞの紋所のように出された
それはくしゃくしゃにして捨てたはずの彼女の個人情報を記した紙だった
(あっ……)
「なんでそれを」
俺の問いかけに答える間もなく、花音はスマートフォンの画面をこちらに向けてくる
それはピアノ教室の窓から外を映した動画だった。
ピアノ教室の前にある花壇と遊歩道が映される中、花壇の後ろで見慣れた頭が上下している
「いっつもわたしのピアノ、聴きに来てるでしょ。わざわざ」
「………」
動かぬ証拠を見せられ口をつぐんでしまう
「ねえ」
(どうしよう……警察に見せられたら、慰謝料?少年院?)
「ねえ!」
「はい!!」
「ケーキ、奢ってよ」
……と言うわけで、有名なコーヒーショップ店に二人で行くことになり、今に至る
(何がしたいんだ、この子)
「あの……」
モシャモシャ……
「何が目的なんですか?」
ゴクッ
「それはこっちの台詞」
「わざわざ毎週ピアノ教室に来て、演奏だけ聴いて帰る。ピアノ目的かと思えばわたしの個人情報も探っている」
「もしかして───」
判決を言い渡される罪人のような気持ちで次の言葉を待つ
「わたしのファン?」
「え?」
(ストーカーじゃなく?)
「言ってくれればもっと近くで聴かせてあげたのに」
「え、あ、えっと、」
ストーカーで警察に報告されるよりかはファンで押し通した方が良い、と頭の中のもう一人の自分が囁いた
「はい!ファンです!!」
勢いの良い返事に気を良くしたのか、花音は口元をおしぼりで拭き軽やかに立ち上がる
「今日はケーキも食べれたことだし、今週からは一緒に練習するのよ」
「うん、うん?」
一緒に練習?
「それはどういう意味?」
「ん?うちは見学歓迎の教室なの。叔母さんがそゆとこルーズだから」
(あのエスニックなピアノ講師は叔母さんだったのか)
「いや、僕は今受験生だし、ピアノをやっている暇は」
「ん?」
小首をかしげながら証拠の動画を見せられる
「いや、なんでもない……です」
「ならいつもの時間に来なさい、今度は玄関からね」
「……はい」
自分より二つも年下の花音に言いくるめられている自分に落ち込みながら、その日は帰路についた
「てなわけで、見学の、えーっと」
「五十嵐涼です。よろしくお願いします」
「あらあら、男の子の生徒は何年ぶりかしら、よろしくね」
急に訪問した自分にも穏やかにほほ笑む女性
「私はここで長いことピアノ講師をしてる谷村陽子って言います。ヨーコちゃんなり、ヨーコ先生なり、好きに呼んでね」
奇抜だがいやらしさのない民族衣装を身にまとっている彼女らしい名前と笑顔だ
「よろしくお願いします」
「ふふふ。じゃあ早速涼くんには演奏してもらおうかしら」
「え、いや、まずは花音さんからとかじゃあ」
「花音はいっつも聞いてるもの~。それに、手を見ればよく弾ける子だっていうのはわかるわ」
「♪~~」
こちらの焦りなど露知らず、花音はソファに横になってスマートフォンをいじっている
「なら、失礼します」
「…………───…………」
以前発表会でも弾いた曲を演奏する。無意識で指が鍵盤に行くほど練習した曲、ハッキリ言って自信はある
「ストップ」
「!」
予期しなかった言葉に手を止める
どこか間違えたか?それとも───
「う~~~ん」
首を傾げる陽子
「面白くない!」
「おもしろ……?」
「あなたのそれは、音楽ではなくてただの作業ね」
「……!」
そんなはずはないと、言いかけたがなぜか言うことが出来なかった
「ピアノ、弾くの好き?」
挨拶の時とは打って変わって、陽子は鋭いまなざしで自分を見つめる
僕は、ピアノが、好きなんだろうか
タニムラ音楽教室に行く日が近づいてきた
(行きたくない……)
自分の演奏が手放しでほめられるとは思っていなかった。でも、根本から否定されるとは思っていなかった
ピンポーン
「はーい」
インターフォンを除くと背の低い少女が仁王立ちしていた
「遅い!暑い!」
「と言われましても……」
「このわたしが迎えに来たんだから、もっと喜びなさいよ」
ファンのくせに……、とぶつぶつ言いながらあいかわらずせかせかと歩いている花音
(ファン、じゃないんだけどな)
「あんた、気にしてるの?前のこと」
ギクッっと自分の体がこわばったのを感じた
「何を気にする暇があるの?あの演奏があんたにとって「面白い」なら、胸張って演奏すればいいのよ」
短い脚を競歩のように動かして自分より先を歩く花音のつむじをじっと見つめた
「ねえ、聴いてるの?」
「………」
面白い、自分は、面白いと思ってやっているのか?
「も~ぜんっぜん、面白くないわね~~」
「だめ、こら、な~んも変わってない」
塾に行く前にピアノ教室に通い、終わると家に帰る
受験勉強の順調さとは裏腹に、ピアノは何もお褒めの言葉はいただけない
季節は夏になり、受験勉強も激化する頃だ
(花音になんとか交渉して、ピアノ教室を引退しないと……)
「花音さん、あのさ」
「今日は特別講義よ」
「?」
わいわいがやがや
「このベルなに~?」
「あれ弾きたいあれ!」
「HIKA〇IN聴きたい~~」
花音の半分くらいの年の子供たちがピアノ教室にわらわらといた
「今日はちっちゃい子の無料体験会なのよ」
忙しそうに、しかし嬉しそうに陽子は微笑んで答えた
「今日は二人にはお手伝い、頼もうと思って」
いつも無料でレッスンを受けさせてもらっている反面、断ることはできない
「分かりました」
目の前を自分の膝くらいの背丈の女の子が横切る
「かのんちゃんおうた~~」
「はいはい」
花音はいつものようにソファに寝ながら、子供たちに何かをせっつかれている
「…………───…………」
聴きなれた電子音が耳に入る
どうやらスマートフォンで即興で音楽を作っているらしい
(すごいな)
少し前の記憶がよみがえる。あのエリーゼの即興はこのようにしてできたのか
「おにいちゃんピアノ~」
「うん、なにが良い?」
「あれがいい!らんらんらん」
曲名が分からないのか歌で伝えてくれる
あれか、子犬のマーチだ
「…………───…………」
「わたしも弾く!」
小さい子が傍にあった小さい電子ピアノで一緒に弾きだした
「…………───…………」
楽しい
音程はめちゃくちゃだが、複数人でごっちゃになりながら弾くのはとても不思議な感覚だ
「おにいちゃんバイバーイ」
「かのんちゃんばいばい」
「うん、バイバイ」
あれだけ遊んだにも関わらず、去り際まで元気いっぱいの小学生たち
(つ、疲れた……)
楽しかったがかなりげっそりしてしまっていた
「名前、なんだっけ」
「僕の?」
うん、とまっすぐに見つめてくる花音
(知らなかったのか)
「五十嵐涼だよ、花音さん」
「さんはいらない」
「え?」
「……花音ちゃん、か、花音様」
彼女にしては珍しくうつむきながら、そう伝えてきた
「なら、花音ちゃん」
「うん、奴隷」
「そこは涼くんじゃないんだ?!」
つっこむと花音は腹を抱えて笑い出した
「やっと素、見れた」
「素?」
「いっつもつまんないんだもん。かしこまって」
そういえば、ピアノを楽しく弾いたのも、友人とからかい合うのはいつぶりだろう
友人関係やピアノより勉強を優先した弊害か
「そっちのが好きよ、涼」
「……」
胸のあたりが詰まるような、苦しいような、恥ずかしいような感情が沸き上がった
その日は珍しく塾の講義に集中できなかった
「涼、ご飯よ、降りてきて」
「は~い」
階段下からの呼びかけに返事をしながら、勉強机の上の参考書を閉じた
(いい匂い、ハンバーグだ)
リビングに入ると、いつもより総菜の量が二種増えた夕飯が待っていた
(珍しい、今日ってなにかあったっけ)
決まって母は、なにかあるとそれが献立に反映される。模試の成績が良かった時や、もしくは───
「ピアノは次のコンクールで最後にしましょうか」
「……え」
「お母さん考えたんだけどね、高校受験の面接でピアノはアピールになると思うけど、大学受験ではならないじゃない、だったらここらへんが辞め時かと思って」
美味しかったはずの料理の味が、何もしなくなったのを感じた
「だから、───」
そこから先の話はあまり良く覚えていない
「というわけで、今日で来るのは最後になります」
「あらあら、でもそうね、もう受験だものねえ」
陽子さんはすんなり受け入れてくれたが、花音はご立腹のようだ
「受験なんて……ピアノ弾いてればいいのにさ、なんで……」
「花音はお勉強より音楽が好きだからわかんないわよねえ」
花音をたしなめながら、陽子さんが自分に目をやった
「涼くんは、勉強好き?」
「う~ん、義務感でやっているので好きも嫌いも、って感じですかね」
「まあそうよねえ~~」
偉いわねえと感慨深くうなずきながら、こう続けた
「一説によると音楽の始まりは、コウモリの鳴き声だったらしいわ」
「コウモリ?」
あの動物に鳴き声があったのかと少し驚いたが、その話をなぜ今するのだろうか
「そこから石器を使ったり、小鳥の鳴き声をまねたり、神に祈って雨ごいをしたり」
それが今は多様になって、HIPHOPとかボカロとか、面白いわよね、と話す
「どの時代の音楽にも共通するのは、そこに祈りがあること、自然か神か人か、それらに何かを訴えること」
「だから、音楽は、義務ではないのよ」
なんてね?と、おちゃらけて固い空気をほぐしながら、陽子は自分に語り掛ける
「わたし、あなたの音楽が聴きたいわ」
コンクールまであと二週間
そんななか、僕は塾の夏期講習に追われていた
○○×○○×
(う~ん、暗記が弱いな)
英単語の暗記の弱さが模試にも出ている
最近は食事と睡眠時以外、勉強に費やしている
(陽子先生はああいってたけど、今はピアノを練習している暇がない)
ペンだこができた指を見ながら、ピアノに思いを馳せる
コンクールまであと一週間
ピアノを練習できる時間をなんとか確保できたが、動きはかなり固くなっている
(いまから本番までに新しい曲は間に合わない、前の発表曲で茶を濁すか……)
コンクール当日
「涼、そろそろトイレ行ってきなさいよ」
「分かった」
男子トイレまで歩きながら、思考を巡らせる
前に履いたはずの靴は心なしかきつくなっているようにさえ感じた
(結局練習不足のままだ、まあ仕方がない)
気持ちを切り替え会場に戻り、席につく
「次は───……」
花音の順番が来た
お辞儀をし、椅子に座る花音
「…………───…………」
静かな出だしとは一変、ダン!!!!っと、勢いよく踏み込んだ
会場が揺れるような感覚、観客の目線が一堂に集う中、ダイナミックな演奏を続ける
(いいなあ……)
あんなにも自由奔放に演奏出来たら、どれほど爽快だろうか
会場を巻き込む彼女の演奏は、うらやましい反面、すこしだけ怖い
パチパチパチパチ
もうすぐ自分の順番が来るので、舞台袖に控えることになった
「次は───……」
聴きなれた自分の名前が聞こえる
舞台上に上がりお辞儀をする
「…………───…………」
いつものように変わりなく、譜面通りに演奏する
難易度は高い曲だが、暗記してしてしまえば造作もない
(ん……?)
足元に違和感を感じた
(あっ!!)
気が付けば、靴の底が剥がれていた
(まずいまずい)
ピアノの椅子は合う高さに合わせている
靴がこうなってしまうと、うまくペダルが踏めない
(どうすれば、靴をぬいで椅子を下げる?でも演奏は中断できない)
思考を巡らす中、演奏曲もそれに呼応して早くなる
観客がざわめいているように聞こえる。実際の音なのか幻聴なのかは分からない
(どうすれば)
すたすたすたすっぽっ
(え)
いつの間にか花音が自分の靴を脱がせ、椅子の調整をしていた
「ん、座ってみて」
高い?と聴きながら椅子を触る花音
「いや………大丈夫だけど」
(この子は、いつも)
自分は舞台上では譜面通りにしか動けない中、彼女は実家かのようにルーズだ
靴下越しにペダルを踏む、固い
自分を客観視した瞬間、靴を脱いで舞台に立っている自分が急に滑稽に思えた
(この格好でさっきの曲は合わないな)
「…………───…………」
全く別の、ある曲を弾く
初めて花音の演奏を見た時、感じた感覚。あれは嫉妬だった
あんな風に弾いてみたい
あの曲は花音のアレンジで自分には弾けない、それでも
曲が終わった。まばらに拍手が響く
底の取れた靴を持ち、深くお辞儀をした
ピンポーン
「涼、お茶」
「水ならある」
「却下」
ふてぶてしく我が家に乗り込む花音
コンクールの結果はさんざんで、秘密裏にピアノ教室に通っていたこともバレ、母には大目玉をくらった
相談の末、高校進学後もピアノは続けられることになった
「~~♪」
「上機嫌ですね、陽子さん」
「ふふ、だってまた一人、音楽のとりこが増えたんですもの」
花音をけしかけて正解だったわあ、とにこやかにほほ笑む陽子
「それって、どういう」
「気づいてないと思った?盗み聞き」
私が脅して入会させると犯罪だから、と紅茶をすすりながら陽子は答えた
「好きなのよ、心の奥にドロドロしたものを抱えた人間の音楽が」
面白い音楽、また聴かせてね。と悪びれもなく微笑む陽子にため息をつきながら、僕はピアノの椅子に腰かけた