落花
穏やかな陽光に照らされ、風に舞う桜の花弁を眺めながら、僕はもう一年が過ぎたのだと実感した。彼女と交際を始めたのも、丁度こんな季節だった。
自慢では無いが、僕にはとても素敵な彼女が居る。綺麗で優しくて、スタイルも良くて、料理の腕も申し分ない。僕なんかには、勿体無い位の彼女だ。彼女の存在は正に妖精のそれで、僕は完全に彼女の虜となっており、彼女という名の檻に囚われた恋の囚人だ。
交際一周年の記念に、一緒に桜祭りに出掛けようと約束をしていた前日の事だった。突然に彼女から連絡が有り、急遽デートがキャンセルになってしまった。彼女の母親が熱を出したので、看病の為に実家に帰省しなければならないとの事だ。とても残念ではあるが、ご家族の事情であれば仕方が無い。今年に見られなかったのならば、また来年に一緒に見れば良い。僕は、この先もずっと続いて行く、彼女との幸福な未来を夢想した。
そうは言うものの、急に空いたスケジュールを、僕はどう過ごして良いか解らない。大学は元々休講だし、アルバイトも休みを貰っているし、友人からの誘いは早々に断ってしまっている。仕方が無いので、当日は独りで桜を眺めながら、辺りを散策でもする事にした。
街中ではあるが、緑道公園内はとても閑静な様子であった。僕は桜の花弁から漏れる日差しを浴び、眼を細めながら青空を仰ぎ見た。大学の勉強とアルバイトに追われた日々では、こんなに穏やかな時間を過ごせる事は、とても貴重であった。キャンセルになってしまったデートは残念だが、こんな時間を過ごせるのならば、それはそれで悪くは無い。
上機嫌で歩を進めていると、緑道公園の反対側の歩道を歩く女性に気付いた。見過ごしそうな位のほんの一瞬であったが、僕はその女性に見覚えが有った。いつもの清楚な服装とは違い、かなり派手な装いではあるが、間違いない……彼女だ。しかし、彼女は実家に帰省している筈だ。何かトラブルでも起きて、これから実家に向かう事になったのだろうか。それにしては、いつもと違う彼女の出で立ちが気になる。僕はほんの少しだけ、こっそりと彼女の跡を付けて行く事にした。
彼女の跡を付けている間、僕は子供の頃に読んだ探偵小説を思い出した。小説の中での尾行業務は、凄まじい緊迫感と共に描かれていたが、実際は何て事の無いものだと思った。案外退屈な業務の様で、僕は探偵業を志さなくて良かったのかも知れない。
暫く尾行をしていると、彼女が一台の高級そうな車に近付いて行った。所謂、左ハンドルという奴で、彼女は周囲の道路状況を確認すると、その車の助手席側に素早く乗り込んだ。僕は、この期に及んでも未だ、彼女に対して何の疑いも抱いていなかった。そう、運転席の男性と激しい接吻を交わすまでは……。
僕の鼓動は急速に速くなり、その場に立っている事さえ困難に感じた。車のサイドガラス越しに見た彼は、僕よりも格好良くて、明らかに大人の男性だった。そして、きっと僕なんかよりもずっと金持ちだ。彼女が嘘を吐いてまで、僕と交際を続けている理由が解らなかった。僕は……何の為に彼女に必要とされているのか。
暫くして、気付くと僕は緑道公園のベンチに横になっていた。眠っていた訳では無く、只々、目の前を流れる川を眺めていたのだ。燦々と日差しが降り注いでいた空は曇天に変わり、桜散らしの雨がひっそりと降り出していた。
僕は傘も差さずに、雨の街を只管歩いた。何処をどう歩いたのか、記憶は至極曖昧だ。日が暮れ始めた頃、ふと見上げると彼女のマンションの前まで来ていた。駐車場には、先程の高級そうな外車が停まっている。僕は……何をしに此処まで来たのか。何も考えが纏まらないまま、彼女の部屋の窓をじっと見上げた。そしてそのまま、僕は雨に打たれながら其処に佇んだ。
東の空が白み始めた頃、件の男性がマンションから出て来て、車に乗り込んでそのまま何処かへと消え去った。眠そうに何度も欠伸をする彼の様子に、僕の僅かに残された希望は、音を立てて崩れ落ちて行った。彼女は彼との関係で、満たされない何かを僕に求めていたのだろうか。それとも、その逆なのだろうか。或いは、その両方なのかも知れない。何れにせよ、補完しなければ維持出来ない関係など、僕には到底容認出来るものでは無い。
僕は帰路に就きながら、ポケットからスマートフォンを取り出した。『今までありがとう。さようなら。』とだけメッセージを送ると、僕は彼女をブロックした。こんな形でしか別れを告げられない僕を、意気地無しのクソヘタレだと、どうか存分に厭きるまで罵倒して欲しい。でも、これが今の僕に出来る精一杯なのだ。
止み掛けの雨と共に、湿り気を帯びた桜の花弁が僕の上に降り注ぐ。廃棄物となった僕を嘲笑うかの様なその様子に、僕は桜の花が舞い散る様子が、この日を境に心底大嫌いになった。