婚約破棄は難しい(手続き的に)
「急にすまない。私は真実の愛を見つけてしまったんだ。君との婚約を破棄してもらえないだろうか」
申し訳なさそうに言い出すのは、ケジュール王国王太子のサーベスだ。
金髪碧眼の美男子で、黙って立っていれば文句なしの王子さまなのだが、今の姿はずぶ濡れになった子犬のよう。
「え? 嫌ですよ。そんな面倒くさいこと」
あっさりノーと答えたのは、ケジュール王国公爵令嬢のフランチェスカだった。
赤髪琥珀眼の勝ち気そうな美女で、子犬王太子にゴミを見るような目を向けている。
ここは王太子の私室で、ふたりは豪華なソファーに向かい合って座っている。
壁際には侍従が立ち、侍女がお茶を淹れていたが、優秀な使用人である彼らは、ふたりのとんでもない話題にも態度を崩さなかった。
「……そうだよな。やっぱり」
「当然です。婚約っていうのは、文字通り婚姻契約。つまり、殿下と私の婚約は、王家と公爵家との国家や神殿を巻き込んだ正式な『契約』なんですよ。それを破棄するだなんて、どれだけ複雑で煩わしい手続きが必要になるか、わかっているのですか? しかも、そんな七面倒くさい手続きをしたあげく、私たちは次の婚約者を選ぶまで一年間の空白期間を設けなければならないんです。私たちが何歳か殿下はわかっていますか?」
サーベスもフランチェスカも十八歳だ。まだ若いと思われるかもしれないが、政略結婚が普通の王侯貴族の結婚適齢期は十六から十九歳。二十歳ともなれば男女ともに行き遅れと噂されてもおかしくない。
実際、ふたりの結婚式も一年後に計画されていた。王太子の結婚式は一大国家行事。既に準備は着々と進んでいて、これを止めるとしたら、婚約破棄以上にたいへんな作業が必要になることは間違いない。
「わかってはいるんだが……」
サーベスは力なく項垂れる。
フランチェスカは、お茶を優雅に口にした。
「その真実の愛のお相手は、側室にされたらいいではないですか。王位継承問題を起こさないでくださるのなら、私は別に構いませんよ」
基本が政略結婚なのだ。側室も愛人も公式に認められている。
フランチェスカは、至極当然の提案をした。
サーベスは、苦虫を噛み潰したような顔になる。
「そうできたらいいのだが……その相手とは『聖女』なのだよ」
「……ああ」
フランチェスカも、苦虫を噛み潰したような顔になった。
聖女とは、一年ほど前に神殿が異世界から召喚した聖なる力を持つ少女だ。
類い希な癒しの力を持ち、王太子兼勇者だったサーベスと他数名の仲間と共に魔王討伐の旅に出て、見事成功したのはよかったが、討伐から帰還後元の世界に帰すといったのに、それを断ってこの世界に居残っている。
別にそれはそれでもいいのだが、彼女の常識はこちらの世界の非常識。政略結婚や愛人を間違っていると声高に叫ぶ姿はいただけない。
「趣味が悪い」
「生死を共にしたのだ。そこに愛情が育っても不思議ではないだろう」
「愛情などいくらでも育ててもらってかまいませんが、私に迷惑をかけないでください。……まあ、でも聖女さま相手なら仕方ありません。書類やらなにやらすべて揃えてくださるなら、婚約破棄の署名くらいはしますよ。ああ、もちろんその後の面倒事も一切そちらで引き受けてくださいね」
フランチェスカの言葉を聞いたサーベスは、ガックリと肩を落とした。申し入れた婚約破棄を受け入れてもらった男とは思えぬほどの落胆振りだ。
彼がすることになる複雑多岐な手続きを思えば、わからないでもないが。
あまりの落ち込みように、フランチェスカはちょっと可哀想になった。
政略結婚とはいえ、幼い頃から将来の夫として接してきた相手だ。多少の好意は持っている。
「そんなに嫌なら、もう一度聖女さまと話し合ってみればいいのではないですか。誠心誠意こちらの常識を説けば、わかってくださるかもしれませんわよ」
「無理だ。……いや、話し合おうと思ったことは何度もあるのだが、なぜか彼女の前にいくと、頭がボーッとして、彼女の望みはどんなことをしてでも叶えてやらなければいけないと思えてしまうんだ。……きっと、真実の愛ゆえなのだろう」
――――フランチェスカは、すんとした。
「……いや、それって魅了でしょう?」
「魅了?」
頭が痛くなってくる。
「魅了の魔法ですよ。相手の意識を惑わせて、自分の虜にして意のままに従える。立派な禁止魔法ですね」
使える者が滅多にいないためあまり周知されていないが、精神系魔法のほとんどは法律で禁止されている。その代表が魅了魔法だ。
「な、まさか? それに、魅了だなんて、なんでそんなことができるんだ? 彼女は聖女なのだぞ」
「聖女だからこそでしょう。苦痛が激しい怪我や病を癒す際に、聖女はまず痛みをやわらげるために神経を麻痺させる精神系魔法を使うそうですよ。戦時下の怪我やストレスによるトラウマだって消せるということですし、聖女は人の心を操作する魔法に長けているようですね」
ガ~ンと、ショックを受けたように、サーベスは固まった。
「そ、そんな……私は真実の愛だと思ったのに」
「ただの魅了だったみたいですね。まやかしの愛です」
ずぶ濡れの子犬は、ずたぼろの子犬になった。
フランチェスカは、お茶を優雅に飲み干す。
「一度、精神系魔法を無効化するアイテムを装備して、もう一度聖女さまとお話し合いをなさることをお薦めしますわ。婚約破棄のお話は、その後あらためておうかがいします。ああ、ご安心ください。どんなに呆れたとしても、私から婚約破棄を申し込むことはありませんわ。ものすごく面倒くさいですもの」
何事もなかったように侍女が注いだ二杯目のお茶に、フランチェスカは口をつけた。
この後、詳細は省くが、聖女は元の世界に強制送還された。
サーベスとフランチェスカの婚約は恙なく履行され、ふたりは国民すべてに祝福されて盛大な結婚式を挙げる。
政略結婚には珍しく、サーベスが側室を迎えることはなく、ある日を境にサーベスからしつこいくらいに献身的な愛を捧げられたフランチェスカが愛人を持つ暇もなかった。
王国史上有名なオシドリ夫婦となったふたりの関係が、典型的なかかあ天下であったことは、公然の秘密である