第二十九話:運命の先
雅騎がふっと目を覚ますと。
その目の前に広がったのは、まるで夜空だった。
蛍のような光が、ゆっくりと、吸い込まれるように天に揺らぎ、上っていくその光景をぼんやりと見ていた彼は、はっとすると上半身を起こすと。そこは見知らぬ……いや。見たことすらない景色だった。
何処までも続く真っ直ぐな地平線。
周囲には建物も、自然も、何もない。
ただ、地平線を隔て、空は真っ黒に。地面は真っ白に染まる中。
先程の光が、地面付近に漂っている。
光は、天に上るだけではない。
ゆっくりと大地に降りると、そのまま地面に潜るように、ゆっくりと落ちていくものもある。
地面に見える白は、透明な水のようにも見え。
透き通った大地の下に、幾つもの光が下りていくのも見て取れた。
身体を起こすために手を付いた地面は、固くはない。
それは水のようでもあるが、柔らかいというよりも、砂の上のようにも感じる。
が。握っても、何も掴めはしない。
そして、自身の身体が沈むこともない。
雅騎は改めて自身の身体を見た。
記憶にある腹部の風穴も、身体中にあった傷も見当たらない。
ゆっくりと立ち上がる身体にも、痛みはない。
足元はしっかりとしているのか。立つのに困ることもなかった。
──あの時とは、違う……。
あの時。
それは雅騎が、夢か幻か分からぬ世界で、深空に再会した時の事。
あの時には不可思議な浮遊感があった。
だが、今はそんなものを感じない。
ただ。彼はどことなくそれが、違う世界とは思えなかった。
あまりに神秘的な世界に、思わず呟く。
「三途の川、か?」
見た目に違いすぎるはずなのに。雅騎はそう形容した。
それは、己の記憶の最後、死に間際にあった事を覚えていたからこそ、そう感じたのかも知れない。
「ここは、命の狭間って言うの」
と。茫然と世界を見つめていた背後から、澄んだ女性の声がした。
雅騎は、すぐに相手を理解する。
が、すぐには振り返れなかった。
「上る光は魂が死の世界へ誘われていく姿。大地に沈む光は現世に戻る魂の姿なんだって」
「……って事は、まだ俺は、死んではいないのか」
「うん」
声はやはり、淋しげ。
嬉しそうではない。
問いかけの答えに、雅騎はため息を漏らす。
「ごめん」
彼の表情に陰が差す。
そこにいるであろう少女、深空に一言だけそう謝り、俯く。
すぐに顔を向けられない。
それもそうだ。
雅騎はレイアを助け、自らが代わりに死にかけた際、一度彼女に助けられたのだ。
それなのにまた、こんな場所にいる。
きっと。
だからこそ。
深空が哀しい顔をしていると思い。
そんな彼女に自分がどんな顔をしてよいのか、分からなかった。
「ううん。謝るのは私の方。ごめんね。雅騎君」
深空の声が少し震えている。
だが分からない。
彼女が謝らないといけない理由が。
「俺が勝手にやって、勝手にここに来ただけだって」
そう言いながら、笑顔で慰めようと振り返る。
だが。深空の顔を見た時。雅騎は、笑えなかった。
長い白髪の白いワンピースを着た少女は、既に顔をくしゃくしゃにして、泣いていた。
「雅騎君を苦しめて、ごめんね」
彼女はただ、謝る。
「……どういう、事?」
彼は、思わず尋ねる。
その問いに、少しだけ唇を噛んだ彼女は、こう言った。
「私のせいで、あなたは傷つき、苦しんでるの」
「そんな事ないって。俺が勝手に戦って、傷ついて。それを深空ちゃんは助けてくれただけ──」
「違うの」
雅騎が口にしようとした言葉を、彼女は遮る。
「あなたはあの日。あの時。公園を焼いた炎の中で死ぬはずだった」
「あの時も? でもそれを深空ちゃんは助けてくれたじゃないか」
「確かに助けたわ。でもそれは、あなたの運命を変えただけ」
──運命を、変えた?
言葉の意味が分からず、雅騎は呆然と彼女を見ると。深空は腕で涙を拭い、真剣な瞳で改めて彼を見つめた。
「人には運命があるの。それはもう決められた、本当なら変わらない運命が」
「変わらない、運命……」
「うん。でも、その運命を変えられる者が、稀に現れるの。それが、運命なき者。アンデュレイド」
「運命なき、者?」
何処か心で引っかかる。何処かで聞いたことがある気がする。
だが。その時彼は、それを思い出すことができなかった。
大体、人の運命が決まっているという事実すら、頭がまだ受け入れられない。それ程までに衝撃的な話だったのだから。
「そう。自身の運命がないからこそ、他人に関わる事でその人の運命を変えられる、唯一の存在」
「……それが、深空ちゃん?」
「そう。でも、もう一人。この世界には運命なき者が存在するの」
その言葉を聞いた時。
心がざわついた。
何故、彼女がこんな話をするのか。
何故、彼女が俺を見ているのか。
何故、自分の運命を、変えたのか。
「まさか……。それって……」
「そう。もう一人は雅騎君。あなたなの」
瞬間。雅騎は目を瞠る。
だが、彼女の言葉は終わらない。
「あなたは既に、彼女達の運命を変えたんだよ」
「彼女達って……」
ひとつずつ、答え合わせをしていくように。
彼は問い。少女が頷く。
「そう。ドラゴンに殺されるはずだった、彼女達を」
──まさか!?
それを声にできぬまま唖然とする雅騎に、彼女は語り続ける。
「だけどそのためには、あなたが偶然炎の中で死ぬ運命になってしまったのを、避けなければならなかった。だから、私があなたの運命を変えたの」
「ちょ、ちょっと待って。何で俺の運命を変えたんだ? そもそも俺には運命がないんだろ!?」
「決まった運命はないよ。雅騎君の行動は他の人と違って運命に導かれたものじゃない。自身の意思で行動しただけ。でも……人が何時か死ぬのは変わらない。それが運命なき者であっても。だからあの時雅騎君が選んだ選択が、あなたを死ぬ運命に向かわせてしまった。だから私が変えたの。あの炎の最中でも。海に沈んだ時にも。あなたを生きる運命に戻すため」
「そんな事……」
信じられないと困惑した呟きに、少しだけ困ったように笑った深空の顔を見て、彼は感じた。
これは、嘘じゃないんだと。
「でも、どうして俺が皆を助けなきゃいけなかったんだ?」
「……この世界の人間であり、この世界の人間でないあなたに、彼女達と共にこの世界を救ってもらうため」
瞬間。雅騎は目を瞠った。
「まさか!? 深空ちゃんはイメリアの事を!?」
強く驚愕する彼に、彼女は小さく頷いた。
「イメリア。この世界より転移したあなたのお父さん、向こうの世界の住人だったあなたのお母さん。そして二人の仲間達が救った異世界。そんな別々の世界で生まれ育った二人の間に生まれ、この世界の理とも、あちらの世界の理とも違う、どちらの世界の者でもない特異な理の中にあるからこそ。雅騎君は運命なき者であり、運命を変える力があり、世界を救える可能性があるの」
おとぎ話のような本当の話。
それを深空が知っている事に、雅騎は愕然とし、言葉を失った。
彼は、知っている。
父と母の英雄譚を。己が憧れた、皆を助けた勇者という存在を。
幼き頃に知った憧れの物語があったからこそ、小さな時からずっと、己が傷つく恐怖すら覚悟し、人々を笑顔にし、救おうべき存在であろうとした。
きっと自分はそれができると思ったから。
勇者の息子だからそうすべきなんだと、勝手に心に刻んできたから。
「でも、世界の危機って……。破天の厄災なら倒したじゃないか。それで終わりじゃないのか?」
彼の言葉に、深空は、首を横に振ると、ゆっくりと雅騎に向け歩き出す。
「ごめんね。私は知ってる。あなたが生き続ければ、より傷つき、苦しむって。だけど、あなたと彼女達こそが、希望なの」
「希望って……何が起こるんだ? 一体どうなるって言うんだ!?」
「分からない。それは、運命の女神だけが知っている事。そして私は運命の女神に導かれて、ここにいるだけ」
未だ、事実が飲み込めない。
そのすべてを信じろなんて、到底無理な話。
唖然とする彼の前で立ち止まった深空は、凛とした表情で彼を見つめると。
また、涙した。
「ごめんなさい。私が死んで、ずっと雅騎君を苦しめてきたのに。私はまた、雅騎君を苦しめようとしてる」
その言葉を聞いた時。
雅騎の目は、より大きく見開かれた。
──俺が本当に、運命なき者だとしたら……。
それが事実だとすれば。
──深空ちゃんを呼び出したのは誰だ?
──深空ちゃんは、呼び出されてどうなった?
──深空ちゃんに逢った時、彼女はどうなっていた?
──深空ちゃんは、最期に何て言った?
──深空ちゃんが……。
──深空ちゃんが死んだのは……。
──深空ちゃんを死ぬ運命に導いたのは……。
その事実に絶望し。
その事実に心を失い。
雅騎は茫然としたまま、すっと一筋、涙を流す。
彼の心の内に気づいたのだろう。
深空はゆっくりと、優しく、彼を抱きしめた。
「私は幸せだったから。雅騎君のお陰で学校でのけものにされなくなって。雅騎君や皆と仲良くなれて、楽しく過ごせて。本当に、幸せだったから」
彼女の震える涙声。
だが、それは彼の心に響かない。
「……俺なんて。俺なんていなければ。俺と出逢わなければ、深空ちゃんは……、深空ちゃんは……」
病院で彼女の死に涙した日。
彼女の両親も号泣していた。
学校でその事が皆に伝えられた時。クラスメイトの皆も泣いていたと先生から聞いた。
口惜しげに漏れる、悔しさと後悔ばかりを振り絞った言葉。
「悲しまないで。私はこれからあなたを苦しめるの。あなたを沢山傷つけ、苦しませるの。私は、そんな酷い子だから。だから、忘れて」
そう告げると、彼女はそっと雅騎から離れた。
互いに涙目で。互いに哀しい顔のまま。
二人は少しの間見つめ合う。
雅騎はぼんやりと。深空はしっかりと。
そして。
「あなたは、あなたが思うまま抗って。誰の為なんて思わなくていいの。世界の為なんて考えなくていいの。雅騎君が助けたい人を助けてあげて。それがきっと、希望ある未来に繋がるから」
まるで、以前再会した時のように、深空は寂しげな笑みを見せる。
だが、雅騎は笑えなかった。失望に泣き、茫然としたまま。
「雅騎君。幸せになって。ね?」
そんな彼を、彼女は優しく、ぽんっと両手で軽く押した。
ゆっくりと後ろに倒れ込んだ雅騎は、そのまま大地に倒れ込む……事はなかった。
まるで大地をすり抜けるように、勢いをそのままに地面より沈んだ彼は、そのまま真っ逆さまに、下に落下していく。
暫く続いたまっさらな世界。
それが落下と共に一気にグラデーションがかるように暗闇へと変化していく。
以前経験した感覚。
以前経験した景色。
だが。
雅騎はそれに何も感じなかった。
感じていたのは、失意と悲しみ。
己が導いた絶望に包まれたまま。彼は落下し、ゆっくりと、力なく瞼を閉じた。
*****
ピッ……ピッ……ピッ……
耳に届く、定期的なリズムを刻む電子音に、雅騎はゆっくりと、目を開く。
ぼんやりとする世界が、少しずつ光を取り戻していくと、無機質な天井に、光の強い照明が見えた。
その身はベッドに横たわっていた。
布団の上に出ている腕には点滴の管が刺され、手には脈拍を見るためのバンドや測定器が、手首や指に付けられている。
「雅騎?」
ふと、耳に届いた優しげな声に、彼は力なく視線を向ける。
逆光で見にくい。だが、最近見慣れた相手が、眼鏡の下に安堵の笑みを浮かべ、立っていた。
「如月、さん……」
「良かった。目を覚ましたのね……」
彼女は気丈に見せていた笑みを崩すと、唇を噛み何かを堪らえようとする。
だが、それができなかったのだろう。
俯いたまま、目尻に薄っすら涙を見せ。思わず嗚咽を漏らす。
そんな彼女を見て、雅騎の心が少し痛んだ。
「……動けるように、なった?」
問いかけに、彼女は指で涙を拭うと、必死に笑みを返す。
「この通りよ。まだ普段通りとはいかないけれど、お陰様で、それなりに動けるわ」
「そうか。良かった」
雅騎もまた力なく微笑んだ、刹那。
その表情を少しだけ歪めてしまう。
腹部から走った強い痛みに、無意識に傷があったであろう身体を見る。
無論。布団越しで傷など確認できようもないのだが。
「まだ、痛むのね……」
「……傷は?」
「佳穂とエルフィが必死に塞いでくれたわ。でも一気に塞いだから、痛みは残るとは言っていたけれど……」
一度経験していた、傷が治っても痛みが残っているという感覚久々に味わい、雅騎は思わず苦笑すると。
「まあ、生きてるだけ、ましだよ」
そう、心にもないことを口にした。
心には後悔しかなかったのに。
死んでも良かったと絶望しているのに。
それでも口から出たのは、霧華に心配を掛けまいとする、嘘。
「俺、どれくらい寝てた?」
「三日よ」
「……随分、寝てたんだな」
「ええ。正直、一生目を覚まさないんじゃないかって、思ったもの……」
そんな未来が余程怖かったのか。
霧華の声が少し、暗くなる。
そんな未来でも良かったと思いながらも。雅騎は、彼女の心が沈まぬよう努めた。
「すぐ、動いてもいい?」
「良い訳ないでしょ? 傷こそ治っているけれど、身体も随分衰弱しているのよ。目覚めたとしても、一週間は安静だと医師が話していたわ」
「学校は……」
「私達は一緒に交通事故にあった事になっているわ」
「え?」
それを聞いて、雅騎はふっと思い出す。
「それじゃまた、如月さんに変な噂がつきまとうんじゃ……」
学校で大変なことになりそうなイメージしか浮かばず、少しだけ渋い顔をする彼に、霧華がふっと笑う。
「貴方にも、でしょ?」
「まあ、そう……だけど」
「別に構わないわ。結局同じ日から一緒に休んでいるのだし、どのみち噂は立つわ」
「でも、如月さん……辛くない?」
「ちゃんと否定すればいいだけでしょ? 別に気にしなくていいわ」
不安そうに尋ねる雅騎を安心させるように、彼女は微笑みを崩さない。
その優しい顔を見て、彼もふっと笑う。
「……如月さん、何か、変わったね」
「あら? 変えたのは貴方よ」
ふざけたような呆れ笑いを見せる彼女を見て、少しだけ安心した雅騎は、視線を逸すと天井を見る。
──変えたのは、俺……。
ふっと、彼が切なげな表情を見せると、それに気づいた霧華もまた、笑みを仕舞う。
「……もし、さ。運命があるって言ったら、信じる?」
「運命?」
「そう。人の運命は決まってて、それに従って生きているだけ。だけど、それを変えられる奴がいて、出逢った人達の運命を変えた。そんな話をされたら、信じる?」
突然の脈絡のない質問に何かを感じ取ったのか。
霧華もまた寂しげな顔で、少しだけ目を細めた。
誰が、誰の運命を変えたとは言っていない。
そんな話、にわかには信じられない。
彼女はふぅっとため息を漏らした後。
「正直、興味がないわ」
そう、静かに答えた。
「私の歩んできた道が、運命に縛られているかなんて分からない。私自身がそんなもの、感じられないし、分からないもの」
霧華は側に置いていた椅子に腰を下ろすと、彼に片手を重ねた。
それに釣られるように、雅騎は顔を彼女に向ける。
「でもね。運命を変えられたにしても。運命に従ったにしても。私は、貴方に助けられたの。佳穂も、御影も、光里も、エルフィも。それこそ秀衡や静、メイド達だってそう。皆、貴方に助けられた。その事実は変わらないし、感謝する気持ちも変わらないわ」
そう言うと、ふっと愛おしそうな笑みを向けた。
「貴方が言ったのよ。過去に縛られる必要はないって。過去に助けられなかった子への後悔もわかるし、彼女を好きだったのも分かる。だけど、貴方がそれでも今まで歩み続けてくれたからこそ、助けられた者達がいて、感謝している事も忘れないで。そして、亡くなった彼女の分まで幸せになりなさい。今まで恨んで夢に出て呪ってくるような事もしなければ、御影みたいにづけづけと文句を言う子でもなかったんでしょ?」
「……まあ、ね」
例えに込められた皮肉に、思わず彼は弱々しく微笑む。
「だったら、きっと彼女は貴方が生きていることを喜んでいるはずよ。幸せになって、笑顔になってほしいって、願っているはずよ」
もう一方の手も重ね。
彼の手をぎゅっと握る。
心の声は聞こえない。
心の声は届かない。
だが。先の深空の言葉を知らぬはずの彼女は、まるでその想いを汲み取ったかのように答え。彼の心にあるわだかまりを、少し和らげた。
──この先、俺を苦しめる、か……。
深空の言った言葉が心に蘇る。
未だに、運命など信じられない。
未だに、運命を変えられるなど、信じたくない。
未だに、世界を救ってほしいという言葉に、答えられる自信などない。
未だに、己が彼女を殺す運命に変えたその事実が、強く己の心を責める。
だが。
彼女は、自分を苦しめると、己も苦しんでくれた。
彼女は、自分に生きてほしいと言った。
彼女は、幸せを願ってくれた。
彼女は、寂しげだけど、笑ってくれた。
「運命なき者……」
「え?」
ぽつりと口にされた言葉に、霧華が首を傾げる。
「あ、いや。元気になる呪い、みたいなやつ」
雅騎は笑って誤魔化しながら。
──俺は……もう少しだけ、足掻いてみるよ。
心の中に涙を隠し。そう強く誓う。
死に導いてしまった最愛の人が望む未来の為に。
共に歩み、運命を変えた者達の未来を、繋げる為に。




