第八話:予想外の爆弾
明けて月曜日。
図書委員の朝当番だった二人は、他の学生の目を盗むように、朝早くに学校に登校した。
互いに一週間の同棲を隠す意思をはっきりと固めて。
但し。日常生活で知らなければいけないこと。経験しなければいけないことは多い。
だからこそ。もしもの時に『霧華が庶民の生活を知りたい』という理由付けができるよう、口裏を合わせる擦り合わせもしていた。
そうする事で、今まで同様の学校生活でいられる。
そう信じていたのだが。
そこにいるのは、神か。悪魔か。
二人の思惑とは別に、またも世界は動き出そうとしていた。
*****
授業も終えた放課後。
この後雅騎はバイトがあるため、霧華には一人で先に家に帰ってもらう手筈となっていた。
「じゃあな、雅騎!」
「ああ。また明日な」
教室から勢いよく飛び出していく男友達に笑顔でそう返すと、彼も教科書やノートを鞄に仕舞うと、それを手にしてゆっくりと廊下に出た。
その直後。
「あ、雅騎君」
そこで鉢合わせたのは、神城高校の制服とは異なる黒い学生服を身に纏った青年だった。
彼よりやや背が高く。襟元まであるやや長いストレートの濃紺の髪を持ち。細身の眼鏡を掛けたその表情は、何処か柔らかな落ち着きを感じる。
昨月までこの学校で見ることのなかった青年を前に。
「よっ」
雅騎はまるで、古くからの知り合いかのように、手を上げ笑みを見せた。
彼の名は、葭岡悠真。
彼もまた今年に入り、ここ神城高校に転校してきた一年生だ。
彼と顔馴染みに見えるが、これは悠真が引っ越してきた矢先、街で不良に絡まれているのを偶然雅騎が助け、知り合ったのがきっかけ。
それまではまったくの赤の他人だった。
「これから帰りかい?」
「いや、バイト」
「そうなんだ。バイト先も下社駅の方?」
「そうだけど」
「折角だし、途中まで一緒に帰ってもいいかな?」
「ああ。構わないよ」
悠真の矢継ぎ早の問いに、雅騎はさらりと答えると、二人は並んで未だ生徒で賑やかな廊下を歩き出した。
「そろそろ学校にも慣れた?」
「お陰様で。クラスメイトも皆仲良くしてくれてるしね」
「そっか。まあ半分くらい女子だった気もするけど。モテるよなぁ、悠真は」
たまに廊下で見かける光景を思い出し、雅騎は冷やかすように笑う。
確かに。転校してきてから、彼はあの将暉とは別に、女子生徒の注目を浴びていた。
線の細さに、これまた知的な美男子と言っても過言ではない、知的な眼鏡姿。
その風貌と優しそうな反応が、早くも女子達を虜にしているのは、すれ違う女子生徒の熱い視線を見れば一目瞭然。
だが。そんな冷やかしを嫌に感じるでもなく。しかし、認めるでもなく。
「そんな事ないよ。皆が優しいだけ」
悠真は、はにかみながらそう答えた。
「そういえば意外だったなぁ」
「ん? 何が?」
悠真はふっと何かを思い出したように、手をぽんっと叩く。
言葉の真意が分からず雅騎が首を傾げると、彼は屈託のない笑みで、さらりとこう口にした。
「君が如月さんと付き合ってるなんて」
「ぶっ!!」
思わず、雅騎は勢いよく吹き出した。
その大きすぎる反応と悠真の言葉に。周囲の生徒の視線が一気に彼等……いや、雅騎に突き刺さる。
「な、なんでそんな話になってるのさ!?」
あまりに突然過ぎる言葉に、激しく動揺する雅騎。
その反応は誰が見ても、あからさまに怪しい。
「いや、昨日の夜なんだけど。街を散歩がてら歩いていたら、喫茶店で二人が楽しそうに話しているのが見えて」
彼の反応を見て、周知の事実ではなかったのか、と多少不安になりながらも、悠真は少しずつ理由を口にする。
語られし内容には、雅騎にとって事実しかない。
だが、彼はそれを聞き、強く拒否反応を示した。
「いやいやいやいや。ちょっと待った! そんなのあり得ないでしょ!?」
「そうなんだ?」
「あったりまえだろ!? 俺これでも委員会でただ皮肉言われてるだけの男だよ。絶対人違いだって」
強く否定するも、それでは否定しきれていないことに、雅騎は気づいていない。
それもそうだろう。大きな戸惑いの裏では。
──あれ見られてたのかよ……。
内心ひやひやだったのだから。
悠真の家は同じ下社町でも駅北側。
雅騎の家や喫茶店『Tea Time』とは真逆のエリアなので、目撃されるなど思ってもいなかったのだ。
未だに耳をそばだて、鋭い視線を向ける生徒達を無視し、彼はやや不貞腐れた顔で廊下から昇降口に移る。
そんな彼の反応を見て、悠真も何か察したのだろうか。
「そうなんだ。何か変な事言ってごめん」
お互い向かい合う下駄箱から靴を出しながら。悠真は彼の否定の声に、申し訳無さそうに謝罪の言葉を掛ける。
だが。そんな彼の反応が、別な意味で火に油を注ぐ。
「うわぁ、速水君。悠真君を困らせてるじゃん」
「否定するにも言い方ってものがあるでしょうに……」
雅騎の耳に届く、女子生徒の好感度がはっきりと下がるような囁き。
流れとしては彼がとばっちりを受けているのだが……。哀しいかな。既に学校内の人気なら、既に悠真の方が上。
そして。人気者のほうが、世の中味方が多いのも、世の常である。
──ったく。
やり場のない気持ちを放り投げるように。上履きを入れ、代わりに手にとった靴を床に放り投げると、雅騎は少し荒々しくそれを履き。皆の視線から逃げるかのように、足早に昇降口を出た。
「あ、待ってよ」
それを目にし、慌てて悠真も靴を履き、急ぎ彼を追いかけた。
「とにかくさ。こういうので変な噂流れると、如月さんに悪いからさ」
「そうだよね。ごめん」
雅騎を横目で追いながら、悠真はあからさまに迷惑をかけた事に落胆した表情で横を歩く。
「まあ、いいけどさ。今後気をつけてくれれば」
さすがの彼も悪いと感じたのか。そんな慰めと戒めの言葉を掛けつつ、心の奥では悠真を責める……事はしなかったものの。
──これ、やばいかもなぁ……。
嫌な予感が拭えぬまま。雅騎は彼と共に上社駅へと歩いていった。
*****
「……って話があってさ」
バイトも終え、家に帰った後。
キッチンで手際よくフライパンでバターを溶かし、そこに茹で汁とほぐした明太子を入れ。煮詰めつつパスタソースを作りながら、雅騎は帰りの悠真との話を説明していた。
その脇では茹で上がりを待つスパゲッティを見ながら、菜箸で軽くかき回す霧華が、その話を神妙な顔で聞いている。
「それは面倒ね……」
「でしょ? 明日、穏便に済めばいいけど……」
と。キッチンに置かれたタイマーが、落ち着いた音色を奏でたのに合わせ。
雅騎はフライパンの火を止めると。鍋の中身を流し台の中に置いたザルに流し入れた。
湯気を避けつつパスタのみが残ったザルで湯切りし、それをフライパンに入れ、トングでソースと混ぜ合わせる。
流れるような動きから何かを学ぼうと、真剣な目で動きを追う霧華に。
「あ、お皿取ってくれる?」
「いいわよ」
雅騎が短くそう指示すると、彼女は食器棚から白い大きめの皿を二枚取り出し、キッチンと向かい合うテーブルに並べて置いた。
そこに雅騎がトングで綺麗にスパゲッティを盛り付けた後、フライパンのソースの残りを掛け。最後にテーブル横に用意していた皿にあった刻み海苔を掛ける。
これで、雅騎特製明太子スパゲッティの出来上がり。
「貴方、本当に器用ね」
「そうかな? とりあえず、それを居間に持っていってくれる?」
「ええ」
そのまま洗い物を始める雅騎と、美味しそうなバターの香り漂う二枚の皿を持ち、居間に向かう霧華。
そんな二人の姿は、まだ二日にも関わらず、まるで長らく同棲しているかのような手際の良さを見せていた。
*****
「どう? 味は?」
「中々よ」
黙々とフォークで丁寧にスパゲッティを巻き、食していた霧華に雅騎がそう問いかけると、彼女は落ち着いた顔でそう返す。
──家で出されるものと、大差ないじゃない……。
内心、予想外の美味しさにかなり驚きを感じてはいるのだが。
そこは素直になれない彼女らしさか。褒め言葉をオブラートに包んでいた。
「そっか。それなら良かった」
満更でもない霧華の反応に、彼は少しほっとすると、自身もフォークでスパゲッティを食していく。
そんな中。
先程の話の先が気になったのか。
「もし明日、変な噂が広がっていたら、貴方はどうするの?」
霧華は雅騎にそう尋ねる。
口に入れていたパスタを呑み込んだ彼は。
「大丈夫。ちゃんと否定しておくよ」
迷うことなくその選択をした。
だが。それを口にした後。雅騎は思わず首を傾げた。
その理由は、彼女の目が泳いだから。
「如月さん?」
思わず問い掛け直す彼だったが、霧華の視線が合うことはない。
まるで彼がいないかのように。
彼女にとって、目下の問題は将暉の存在だった。
今日は父親の申し入れが効いたのか。何週間かぶりに彼と話すことなく過ごせたのだが。とはいえ、あの男が早々に諦めるとも思えない。
そんな中で生まれた自身と雅騎に対する噂。
もしこれが広まった場合。将暉が考えうる行動は幾つかある。
──もし恋仲だと誤認させられれば、私の婚約者となるかもと思い込ませられる。だけどそれは……。
かなり危険な予感がした。
将暉がそこで諦めてくれれば御の字。
だが。以前雅騎に話して聞かせた通り、この世界に住む相手が大人しく引き下がるとは考えにくい。
そうなれば、間違いなく雅騎に迷惑を掛ける。そう感じていた。
しかし。どちらの可能性も捨てられない現状。婚約者候補に対する予防線を張るために、雅騎を盾に使う選択肢も彼女の頭にある。
勿論それは、彼に迷惑を掛ける事を承知なのだが。
「……何か、あった?」
真面目な声で返す雅騎の声に、霧華はふと我に返る。
そこにある心配が色濃い顔に、彼女思わず首を横に振った。
「いえ。十六夜先輩が否定の言葉を事実と取ってくれれば良いのだけど。そうじゃなかったら、また貴方に迷惑が掛かる気がして」
躊躇いがちに、視線を落とす彼女に。
「そういう事なら、別に気にしなくていいよ」
まるであの帰宅時の時と同じように。彼は迷いも見せず笑顔になる。
──何故、貴方はそうなの?
それが、許せないかのように。霧華の心にあった蟠りが、強く、大きくなる。
確かに、助けられている恩義はある。
だが、彼は以前からずっとそうだ。人の事を手助けしておきながら、まるで自分の事は気にしなくていいと言う。
雅騎のその態度が、どうしても気に入らなかった。
「気になるに決まってるわ。どうして貴方はすぐ、自分の事は気にするなと言わんばかりの顔をするの?」
思わず、霧華は苛立ちと共に本音を口にする。
しかし。
「だって俺、如月さんに嫌われてるでしょ? そんな奴のことを心配する必要なんてないよ」
「え?」
「……え?」
返された言葉に、彼女は呆気に取られ。彼もまた、意外な反応に思わず同じ反応を見せる。
霧華の反応は、至極当然だった。
彼は、雅騎を嫌いだと思ったことなど一度もない。勿論呆れることもあるが、他の男子と比べれば、よほど好感が持てる程。
だが、残念ながら。あくまでそれは彼女としては、でしかない。
「いやいや。無理しなくても大丈夫だよ。だからあそこまで皮肉言われたり、冷たくあしらわれてるんでしょ?」
予想外の答えに素っ頓狂な表情のままそう返す雅騎だったが、霧華は静かに首を横に振った。
「別に嫌いじゃないわよ。大体、周囲への反応も特に変わらないわよ」
「……そうなの?」
改めてそう問い掛けられてしまえば。
まるで己に否があり、責められているようにも聞こえ。
「……悪かったわね。そんな態度しか取れなくて」
分が悪そうに、霧華は恥ずかしそうにそっぽを向く。
──あれで、普段どおりって事か……。
そしてそれは、雅騎も同じ。
霧華同様に、自らに否があり、責められているように感じたからか。
「いや、こっちこそごめん」
言葉に困った雅騎は苦笑すると、ごまかすかのようにスパゲッティを食べ始め。
彼に合わせるように、彼女も沈黙したまま食事を再開した。
誤解とは、かくも不思議なものなのか。
二人は全く同じ感情を持ち、全く同じ、申し訳無い顔をして。
とてつもなく気まずい夕食を、過ごすことになった。




