第二話:父の提案
雅騎が将暉から救ってくれたあの日。
霧華は一時の安らぎを得た。
しかし。
たった一日それを避けたとて。世界は何も変わらない。
翌日以降も、将暉の行動はエスカレートした。
朝のホームルーム前に始まり。休み時間。昼休み。果てには図書委員の時間まで。
彼は誠実さと優しそうな言葉を振りまきつつ、不誠実な程に彼女に纏わりついた。
時に睡魔に襲われ倒れてくれる事もあったが、全ての出会いでそれが起こるわけもなく。
食事に誘われ。共に帰宅しないかと誘われ。デートしないかと誘われ続け。
その度に、取り巻きの妬ましさを顕にした視線を浴び続けた。
それでも、霧華は彼をあしらい続けた。
全てを拒むかのように。
しかし。
変わらない、不満の募る日常。
それはより、彼女の心をすり減らしていった。
図書委員で一緒となった雅騎が、疲れ切り、険しい表情を見せる彼女を心配する程に。
そして。
ついに、彼女の堪忍袋の緒が、切れた。
*****
雅騎に助けて貰って数日後の土曜の夜。
「お父様!」
まるで殴り込みでも掛ける勢いで。
彼女は執事である秀峰院秀衡や、専属のメイドである穂見静の静止も聞かず、霧華は父、圭吾の自室の書斎のドアを強く開けた。
そこもまた、霧華の部屋同様、一人では持て余すほど広い。
全体を古風な木目調の家具や壁、カーペットで統一したシックな部屋。
その窓際にある机の前に座っていたのは、恰幅のよい身体に白のスーツを着こなし、茶色掛かった髪をオールバックにした、ぱっと見は凛々しい紳士さを醸し出す男性。
しかし。
書類から飛び込んできた霧華を見た途端、その表情は一気に緩み、嬉しそうな笑みに変わる。
「おお! お前から顔を出してくれるとは!」
娘が来ることがそんなに嬉しかったのか。
圭吾は立ち上がると机の前に回り込み、抱擁してやるぞと言わんばかりに両手を広げる。
だが。
霧華はもう、そんな父の態度を受け入れる余裕などなかった。
バンッ!
彼を避けるように横に立った彼女は、手に持っていた幾枚かの革台紙を、父の机に強く叩きつけた。
「私、もう我慢なりませんわ!」
「お? そろそろ婚約者に目星を付けたか?」
怒りを顕にする霧華とは対象的に。圭吾は感心したように声をあげる。
それがより、火に油を注いだのか。
「ふざけないでください!」
彼女はキッと強く父親を睨み返してしまう。
「お父様が勝手にこのような事をされたせいで、私の学園生活は無茶苦茶ですわ!」
「勝手も何も。お前も如月家の娘だ。そろそろこういう話もせねばならぬ年頃だぞ」
「私はそんなもの、頼んでおりません!」
飄々と語る圭吾に苛立ちを隠さず。霧華の言葉はより喧嘩腰になっていく。
「お父様のせいで、十六夜家の方は、転校までして私に付きまとうようになりましてよ!」
「ああ、十六夜将暉君か。彼はお前を紹介したら随分と気に入っていたからな」
「他人事ではありませんわ! あの方のせいで、どれだけ私が嫌な思いをしているか!」
「気に入らぬか?」
「当たり前です!」
強く否定する彼女。だが圭吾は、未だ澄ました顔で霧華を見つめている。
「私は、お前が心配なのだよ」
「何をですか!」
「この歳になっても浮いた話一つないだろう?」
「別に良いではないですか! 私、まだ十六ですわ!」
「もう、十六だろう?」
売り言葉に買い言葉、とまではいかないが。
どちらが正しいかも分からぬ問答。だがそれでは。霧華の反感を収められずはずもない。
ただ強き怒りを浮かべる娘の反応に、父は突如厳しい顔をした。
「お前もしばらくすれば、如月財閥の娘として社交界にも出ねばならん。そこで婚約者の一人もいなければ、箔が付かんだろう?」
「そんなもの関係ございませんわ!」
そう叫んだ彼女は、ふと彼が、淋しげな顔をした事に気付く。
「未だに気にしているのだろう? マサキの事を」
突然の言葉に冷水を浴びせたかのように、それは続くはずの霧華の言葉を詰まらせた。
父の言葉を否定する言葉が出ない。
それは、先程までの強気な彼女とは思えぬ沈黙を生み。視線を落とさせる。
「……もし。十六夜君がお前の恩人だったら、どうする?」
真実にたどり着いていない現状、その可能性は無いわけではない。
だが、そんな事は有り得ない。自身の中ではそう確信めいたものがある。あるはず、なのだが。
──もし、そうだとしたら……。
彼女はここに来て。万が一の答えを持っていないことに気づいてしまった。
相手が恩人であるならば、礼は言いたいし、恩も返したい気持ちはあった。
だが。
今その可能性を持った雅騎が恩人ではなく。もし万が一、成長する中で豹変したやもしれぬ今の将暉が恩人だったとしたら。
礼を言い、恩を返す。
そんな気持ちを持ち続けられるのか。
それが、分からなかった。
しかし。それでも。
霧華は視線を父に戻さず、一瞬唇を噛んだ後。
「そんな事は、有り得ませんわ」
そう、断言した。
「何故、そう言える?」
「……命を懸け、私を助けてくれたあの方が、権力に物を言わせ言い寄るなど、考えられませんもの」
根拠のない希望的観測。そう言われても過言ではないだろう。
それでも、彼女の心が訴えていた。
彼ではない。
彼であるはずはない、と。
「権力だけの話をするなら、今のお前とて何ら変わらないじゃないか」
突然。静かにそう口にした圭吾に、霧華はふと顔を上げる。
「我が如月家の娘として生まれ。人を助ける道を選んだお前も。秀衡や静達に世話を焼き、守ってもらえているのも。結局は生まれ持って手にした権力の中で、それを行使しているだけだ」
「そんな事は……」
彼女はそう苦しげに言いながらも、視線を落とし、ぐっと奥歯で悔しさを噛み殺した。
確かに、否定などできやしない。
霧華が父の設立した組織の一員として、日々磁幻獣を始めとした超常的存在と戦ってこれた事も。
私生活で執事やメイドに世話を焼いてもらっている事も。
それは圭吾の娘であるからこそ。
確かに、事実だ。
勿論、将暉の振りかざしている権力とは異なるのかもしれない。
だがそこに、どれだけの違いがあるかといえば……彼女は説明できるだけの根拠を、持ってはいない。
言葉と相反する顔を見せる娘に、父はため息を吐くと、
「ならば、お前がどれだけ権力に頼っていたか。感じてみるか?」
突然、こんな事を口にした。
言葉の意味が理解できない霧華は、どこか不安を見せながら、上目遣いに彼を見る。
「一週間後に私の生誕を祝うパーティーがあるのは知っているだろう? そこには十六夜家を始め、様々な者達が顔を出す。そこまでに、お前は代わりとなる婚約者を連れてこい。その日限りの嘘でも構わん。ただし、お前が、お前の意思で選んで連れて来い。それができんなら、私の選んだ候補から誰かを選べ」
突然の申し出に、霧華は目を丸くする。
だが。その反応に意を介さず。父はそのまま、続く言葉で彼女をより強く驚かせた。
「そしてそれまでの間。お前は家を出て、お前の力で暮らせ」
「えっ!?」
「お前にも伝手のひとつふたつはあるのだろう? 権力に溺れていないと言うのなら、その伝手を頼り、たかだか一週間を過ごす位は容易いはずだ」
「それは……」
霧華の表情に、はっきりとした戸惑いが浮かぶ。
あまりに予想外の展開に、頭が追いついていない事もある。
だがそれ以上に。父の言葉が、彼女を強く不安にさせていた。
それもそうだろう。
霧華は今まで、一人で親元を離れ、家族や執事達の力を借りず、行動をした事も、生活した事は殆どない。
経験したことがない未知への不安が、頭をもたげても仕方ない事だろう。
目に見える娘の戸惑い。
その心の内を察したのだろう。彼はそこで、最後の切り札を提示した。
「その代わり。十六夜家にはそれまでの間、お前に将暉君が関わらぬよう釘を刺してやる。それでどうだ?」
それは甘い蜜だったのか。
霧華の心が強く、揺れた。
圭吾の強要に怒りを見せた理由のひとつが、それで解決する。
同時にこれを成せば、父も自身の考えを理解してくれるのではないか。
そんな未来への希望と。
自分はひとりでこの状況を切り抜けられるのか。
権力を失いし中で、自分はどうやって生きていけばいいのか。
そんな未知なる不安。
心の天秤が、ふたつの想いの狭間で揺れ動く。
そして……。
「……分かりましたわ」
それは静かに、希望に傾いた。
「では。失礼いたします。また一週間後に」
未だ優れない表情ではあるが。それでも霧華は意地を見せ気丈にそう父に告げると、踵を返し、部屋をゆっくりと出て行った。
後ろ姿を目で追った圭吾は、ドアが閉まった直後。
「秀衡。静。後は手筈通りに」
残っていた執事とメイドに、静かに声を掛けた。
「「かしこまりました」」
彼等は普段どおりに返事をすると、圭吾に深々と会釈した後。静かに部屋を後にする。
そして。一人部屋に残された圭吾は、椅子に戻ると深々と腰を掛け、そのまま壁に飾られた一枚の肖像画を見た。
「……多少、強引だったか?」
独り言のように、彼はその肖像画に語りかける。
そこに描かれし者。それは聖母のような笑みを浮かべた、霧華にとても良く似た、長き赤髪の女性。
それは既に彼の隣にも、霧華の側にもいない。圭吾の妻であり霧華の母、香織だった。
そこに残る妻に向け、圭吾はまるで、先程の娘と同じ不安げな顔を見せる。
圭吾は秀衡より聞き、知った。
霧華と雅騎が同じ学校に通い、何らかしかの接点を持ったという事実を。
そして、圭吾と秀衡は知っている。
彼こそが、娘が今もここに生き、話す事ができる、彼女の恩人であることを。
だが、同時に圭吾はある男と約束していた。
雅騎が彼女の恩人であることを、霧華に伝えないでほしい、と。
「まったく。お前のせいだぞ、勇輝」
またも大きなため息を漏らした彼は、恨めしそうにそこにいない男の名を呟くと、天を仰ぐ。
娘を敢えて千尋の谷に突き落としながらも、露骨に不安を見せる父に対し、妻は何も言わず、微笑み続けていた。




