第二十二話:幼き勇者
フェルミナに促された後。御影と光里は彼女を残し、先に旅館の一室に戻った。
順番に室内のシャワーで改めて身体の汚れを落とした御影は、備え付けの浴衣に着替え、用意した二組の布団のひとつに横になる。
羅恨の怨念に晒された事もあり、相当疲弊していたのだろう。
先に床に就いた光里は、彼女が戻ったときには既に静かな寝息を立てていた。
妹を起こさないよう同じく床に就くも、眠気が襲う気配もなく。
御影は消灯した部屋の天井を見つめたまま、ぼんやりと物思いに耽っていた。
──また、お前に助けられてしまったな……。
雅騎の無事に安堵した事で、気持ちにゆとりができたのか。
十年も前の出来事が、強く脳裏に蘇る。
そう。
あの時も雅騎は、彼女を庇い、助けていた。
自分が勝手にやっただけ。
そう、口にして。
*****
神麓神社に奉仕する神名寺家は、代々神降之忍の頭領として彼等を率いる立場だった事も相成り、とても厳しい家柄であった。
そんな家に生まれた双子。
それが御影と光里だった。
彼女達は将来羅恨へ捧げる贄となる存在だった事もあり。時が来るまでに何かあってはならないと、物心付いた時には既に、二人離れ離れで暮らしていた。
お互い大事に育てられていた、といえばそうであるが。言い方を変えれば過保護過ぎる育てられ方をされていた二人。
御影も例にもれず、まるで箱入り娘のように、家から出る事すら許されず育てられた。
当時、彼女は外の世界を殆ど知らなかった。
年に何度か、家族で光里に会いに行くことはあった。だがそれ以外で外出など許される事もなく。家に居る間、すぐそこの神社の敷地に出る事も許されない。
結果。御影はすぐそこに広がる外の世界に、触れる事すらできなかった。
唯一その世界に触れられた物といえば、テレビの向こう側だけ。
故にその映像はいつも、とても魅力的で、不思議な世界に映る。
しかし……それを見続けていれば、結局は飽きる。
それほどまでに。自宅から出られないというのは、子供にとって決して楽しい物ではないのだ。
特に日中、豪雷と銀杏は神社の奉仕で家を離れていた。
その間、御影はその殆どを独りで家で過ごす事になるのだが。やはりそれはどこか寂しく、虚しく、つまらないもの。
とはいえ。
彼女にとって、そんな日常が当たり前だった。
祖父や母を困らせてはいけないと、独りである寂しさを口にする事もなく。それでも、祖父と母だけがいてくれれば良いと思っていた。
そう。
あの日までは。
*****
御影がまだ五歳の頃。
それは桜舞い散る、晴れた日の午後だった。
昼食を共に食べた銀杏はすぐに奉仕に戻っていき、当たり前の日常となった独りきりの時間。
テレビにも早々に飽き。巫女装束の御影はつまらなそうな顔で、障子の開いた居間の窓から縁台に出ようとして、足を止めた。
広い玉砂利の敷かれた庭にある大きな池。
中には大小様々な錦鯉が、優雅に泳いでいるのだが。
何処から入り込んだのか。
池に掛かる切石で出来た橋の上に、見たことのない黒髪の少年がしゃがみ込み、にこにこと池の鯉を眺めていた。
「何者だ!」
御影は思わず縁台まで駆け寄ると、牽制するように強く叫ぶ。
瞬間。少年はびくっと身を一瞬震わせると、ゆっくりと彼女に顔を向けた。
「そこで何をしているのだ!」
相手が答えを返す前に、更に質問を重ねる彼女に、
「鯉を、見てたんだ」
とても素直な理由と共に、少年が笑ってみせた。
些細な理由とはいえ、ここは御影の家の敷地の中。
だからこそ。もっと強く、怪しき少年を責めねばいけなかったのだが……。
彼女はその笑みに、言葉を失った。
そう。瞬間、彼女は魅入ってしまったのだ。
屈託のない少年の笑顔に。
少しの間、不思議な少年をじっと見つめていたのだが。
顔を真っ赤にして動かない御影に、思わず首を傾げた少年の姿に、彼女ははっと我に返ると、
「こ、ここは私の家の庭なのだ! 勝手に入ってはいけないのだぞ!」
「えっ!?」
彼女にとって極々当たり前の事を口にされ、少年は驚いた顔をした後、慌てて立ち上がり深々と頭を下げた。
「ご、ごめん! ここも神社の中なのかなって思って」
あまりに素直に謝られた為、思わず御影はきょとんとする。
だが同時に。そんな少年の反応が、彼女の警戒心を和らげていった。
彼女はそそくさと縁台の下にある下駄を履き、玉砂利の擦れる音を鳴らしながら、足早に少年のいる橋に向かう。
その間、彼は頭一つあげようともせず、そのままじっとしている。
それは、より強く怒鳴られる覚悟があったのかもしれない。
だが。
「……お前は、鯉が好きなのか?」
御影は何故か、そう問い掛けていた。
今思い返しても、何故自分はそう尋ねてしまったのか分からない。
それ程までに、彼女は自然にそう口にしていた。
予想外の質問に、少年はきょとんとした顔で頭を上げると、
「う、うん。綺麗だよね、この鯉」
どこか戸惑いながら応える。
「本当は、入っちゃいけないんだぞ」
「……うん。ごめん」
先程までの強い口調ではなく。静かにそう諭す御影に、少年は申し訳無さそうに俯く。
萎縮する彼を見て、御影も何処か申し訳ない気持ちになってしまった。
彼女はすっと、少年の脇で両膝を折りしゃがみ込むと、池を覗き込む。
「……もう少し、見ていくか?」
「……いいの?」
視線を合わせずそう問いかけた御影に、少年がおずおずと聞き返すと。
「うむ。母上も、当分帰ってこないしな」
池の鯉を見つめたまま、少しだけ寂しそうに彼女が笑う。
と。少年はすっと脇にしゃがみこむと。
「ありがとう」
短く、そう声を掛けた。
彼女がゆっくりと顔を少年に向けると。そこには相変わらず、嬉しそうで、優しそうな笑み。
その眩しさに釣られるように、御影も自然と笑みを返していた。
*****
それから二人は、色々な話をした。
名前は。
どこから来たのか。
どうやってここに入ったのか。
外には何があるのか。
その少年──雅騎は、御影の質問に、答えられる範囲で笑顔で色々と答えた。
「両親に、知らない人に話しちゃダメだって言われた」と、名字や住んでいる場所こそ話さなかったものの。それ以外は包み隠さず、楽しそうに話してくれた。
特に魅力的だったのは、やはり外の世界の事。
ぬいぐるみやゲームが沢山売っているおもちゃ屋。
美味しい色々な種類のアイスが売っているアイスクリーム屋。
広い公園に遊園地。ゲームセンターに駄菓子屋。
楽しそうに語られる外の世界の話は、彼女にとってとても魅力的で、蠱惑的で。つい色々と食いつくように尋ねてしまい、雅騎が苦笑いする事もあった。
途中からは、御影も色々と話をした。
それは彼の話とは真逆のような、現状への愚痴や不満。
母や祖父がいない時間は、とにかく独りきりでつまらない。
本当は外に出たいけれど、それを許してもらえない。
だから友達などいないのだ、と。
不満さと寂しさを色濃くする御影に
「家族の言うことを聞いてるって、偉いと思うよ」
雅騎はそんな言葉で元気付けながら。
もうひとつ、彼女に魔法の言葉を投げ掛けた。
「だったら、友達になろうよ」
*****
それからというもの。
毎日というわけではないものの。御影の家族が奉仕に向かっている間、雅騎は足繁く御影の元に遊びに来てくれた。
時に知らないおもちゃを持って。
時に変わったお菓子を差し入れて。
雅騎が紡ぎ、教えてくれる外の世界。
それを聞き、触れるのが。御影にとってとても眩しく、楽しい日々となっていく。
だからこそ。
気づけば彼の存在に、一喜一憂するようになっていった。
連絡を取る手段はお互いにない。
だからこそ、雅騎が遊びに来れない日も分からない。
期待して待っていたのに彼に会えなかった日の夜は、豪雷や銀杏が心配するほどに元気がなく。
逆に彼に会えた日の夜は、何時になく明るい。
そのあからさまな変化は、二人も何かあるのではと勘ぐり、首を傾げる程。
だが。裏を探るため、たまに家に豪雷や銀杏が家に残っていた時に限り。不安げな御影の心配を他所に、彼が姿を現す事はなかった。
こうして、子供ながらの秘密は守られていたのだが……。
*****
「私を、外に連れ出してはくれぬか?」
それから一ヶ月ほどしたある日。
少しずつ新緑の季節が近づく中。温かな日差しに包まれた午後の縁台で、雅騎と並んで座っていた御影は、強くそう懇願していた。
「だけど、おじいちゃんやお母さんに怒られちゃうでしょ?」
無茶な願いに、雅騎は困った顔で心配そうに口にする。
それもそうだ。
家を離れた事を祖父や母に見つかれば、御影が怒られるに違いなく。何より彼女をより多くの危険に晒す可能性だってある。
彼がそんな事を心配したのは想像に難くない。
だが。
雅騎を知り。彼と過ごすことで知った外の世界に強く惹かれてしまった今。
御影の好奇心は、既に抑えられないものになっていた。
「母上達が戻るまでに、家に戻ってくれば良いだけだ!」
自信満々にそう言う彼女だが、雅騎は未だはっきりとした迷いを見せる。
「最初で最後の願いだ! 頼む!」
それでも、御影は必死に頭を下げた。
それは初めて彼女が強く、己の意志で行動したいと願った瞬間。
御影を不安そうにじっと見つめていた雅騎だったが、彼女に何かを感じ取ったのか。
「分かった。行こう!」
彼は彼女の手を取り、共に外の世界へと繰り出した。
家の塀を必死によじ登り。家族に気づかれぬよう、裏からこっそりと神社を迂回し。
雅騎がいつも乗ってくる、神社に向かう石段の側に止めていた小さな自転車。その後ろに御影が座り、前に座った彼が自転車を漕ぎ。二人は街へと走り出した。
風を切り走る自転車。
最初は恐怖で雅騎にしがみ付くのに必死だった。
しかし。森が消え、景色が町並みに変わっていき。
今まで車窓からしか見たことのない世界の変化を直に感じるにつれ、御影は胸を高鳴らせ、目を輝かせた。
上社駅前に着いた時に見た初めての人混みには、流石の御影も少し恐怖した。
確かに光里と共に、里の祭に参加した際に人混みも経験した事はある。
しかしそれは、見知った者ばかりがいる安心できる世界だけ。
見知らぬ人達に囲まれるというのは、彼女にとっては未知の経験。
雅騎も何処か緊張しているようにも見えたが、それでもしっかり手を繋ぎ、安心させようと笑顔を向けてくれる。
そんな彼の行動が、御影の心に救いをもたらしてくれた。
彼は駅前の色々な場所を案内し、御影は色々な事を経験した。
駄菓子屋では、今まで味わったことのない色とりどりの、質素ながら魅力的なお菓子の数々を堪能し。
ゲームセンターでは、コインゲームのじゃんけんに一喜一憂し。
そして。
アイスクリーム屋では、初めてあの、ミントアイスを味わった。
バニラアイスしか知らなかった御影は、その爽やかな薄い空色のそのアイスを口にした時の衝撃は今でも忘れていない。
鼻を通るすっとした空気と、甘すぎない何処か大人っぽさを感じる味は、彼女を強く魅了した。
好奇心を強く刺激された驚きに、満足そうな笑み。
はっきりと見せる喜びに、雅騎も釣られて笑顔を見せてくれたのを、御影はよく覚えている。
だが。
そんな楽しいひと時の先にあったのは、天罰だった。
*****
日も暮れ始めた夕方。
御影と雅騎は、道場の真ん中に並んで正座させられていた。
目の前に立つ、怒りを隠そうともしない神主の装束姿の豪雷が、体の前に両手で木刀を逆さに持ち、床に突き立てている。
その後ろには巫女装束の銀杏もまた、険しい顔で三人を見守っていた。
折を見て、雅騎は予定通りに家まで彼女を連れて帰ってきたのだが。
庭に降り立ち、家の縁台に向かったその時。
突然背後に現れた豪雷と銀杏によって、二人はあっさりと捕まり、ここに連れ込まれていた。
実は豪雷達は、偶然家に用事があり戻ってきた際、家に御影が居ないことに気づいてしまったのだ。
日が暮れても帰らない場合は警察に捜索願いを出すかと迷っていた頃。彼女達が無事帰ってきた訳なのだが。
「小童! お前が御影を誑かしたのか!」
怒気を隠そうともしない、強き怒鳴り声に。思わず御影は身体をびくりと大きく震わせ、怯えで強張った顔のまま、ぎゅっと目を閉じた。
稽古などで祖父や母に何度も怒られた彼女にとって、その怒声は恐怖の象徴。
だからこそ、彼女は怯えながら覚悟した。
雅騎が正直に事実を話し、己が叱咤されることを。
だが。
「はい。僕が御影ちゃんを連れ出しました」
返された言葉に御影ははっとし、思わず雅騎を見る。
彼は祖父の怒気を意に介す事なく、真剣な顔で豪雷を見つめ返していた。
予想外の反応に、豪雷と銀杏は一瞬眉を動かす。
「何故そんな事をした!」
強き問いかけに。
「元気なく、寂しそうにしてたからです」
さも当たり前と言わんばかりに、雅騎は自然と言葉を返す。
あまりの堂々っぷりに、一瞬豪雷の方が唖然とする。
が、次の瞬間。
ゴンッと木刀の先を床に強く叩きつけた。
その音が、またも御影の身体を強張らせる。
しかし。やはり雅騎が動じる様子はない。
「ふざけるな!」
「ふざけてなんていません!」
豪雷の目の前で、雅騎は叫んだ。
「御影ちゃんはいつも昼間、ひとりでつまらなそうにしてたんです。だから元気をだしてほしいって、僕が連れ出したんです!」
彼の言葉に、豪雷の顔つきがより険しさを増す。
「ま、雅騎!」
思わず雅騎と祖父を見比べた御影が、声を震わせる。
それは違うと言いたかった。
しかし、それを告げれば己に怒りの鋒が向き、祖父は怒鳴ってくるだろう。
容易に想像できる恐怖。それが、彼女の言葉を妨げていた。
涙目になりながらも。
良心からか。せめて彼を止めようと、彼女は震えた両手で雅騎の肩と手を掴む。
だが。
彼はそれを優しく払い、すっと立ち上ると。御影と豪雷との間に自らの身を割り込ませた。
「うちのお父さんは言ってました。『子供は元気に笑顔で遊び回ってこそ子供だ』って。御影ちゃんだって子供なんだから、そうあるべきなんだ!」
気持ちが昂ぶったのか。雅騎の言葉から、敬語が消える。
それが豪雷の癪に触ったのだろうか。
「それはお前の親の事。うちとは関係ないであろう!」
より強く怒りを顕にする。
だが。
「関係あります!」
それでも、雅騎は譲らなかった。
「御影ちゃんの寂しさも分かってやれないなんて、家族なんかじゃないよ!」
「何ぃ!?」
鬼の形相で強く睨みつける豪雷。
あまりの恐ろしさに、御影は身を強く震わせ、咄嗟に雅騎の足にしがみついてしまう。
だが。そんな彼女をそのままに、雅騎は必死に叫んだ。
「友達がいないって、御影ちゃんは寂しそうだった。だから僕は友達になったんだ! 友達だからこそ、御影ちゃんを寂しがらせないように一緒にいたんだ! 楽しんでほしいと思って、外に連れ出したんだ!」
はっきりとそう伝え、強い視線を向ける少年に、豪雷と銀杏は思わず驚き、息を飲む。
雅騎は叫び続けた。
「友達だってそんなことができるのに、家族であるおじいちゃんやお母さんは、何でそうしてあげないの? 家族なんでしょ!? 家族なら寂しがらせちゃダメだよ!!」
子供の必死の叫びとは、何故こうも心に刺さるものなのか。
今まで娘に寂しいなどと言われたことのなかった二人の顔が、本音を聞かされ神妙なものになる。
だが、それでも。
「うるさい!」
豪雷は、木刀を持ち替え正対すると、雅騎の頭の上に、その刃を向けた。
「それでもお前が娘を危険に晒したことが許される訳ではない! 分かっておるのか!?」
怒り……ではなく、真剣な目で雅騎を見据えた豪雷がそう返すと。
「分かってます。だから、殴りたかったら気が済むまで殴ってください」
「違う! だめなのだ! お前は悪くないのだ!」
これから行われるかもしれない惨劇に、御影は顔を青くし、涙声で必死に雅騎に叫んだ。
大人二人が見れば、どちらに否があるのかは一目瞭然だったに違いない。
だがそれでも。豪雷は彼女を怒鳴ろうとはしなかった。
しゃがんだまま雅騎の身を掴み、必死に止めようとする御影。
そんな彼女に顔を向けることなく。雅騎は、はっきりとこう言い切る。
「その代わり。僕が勝手にしただけで御影ちゃんは悪くないんです。だから御影ちゃんには手を出さないでください」
「違う! 雅騎、ちが! 違うのだ……」
言葉にできぬ言葉を羅列し、泣きじゃくる御影。それを未だ庇い、堂々と立つ雅騎。
相反する二人の姿に、豪雷は心を決めたのか。
「では雅騎とやら。覚悟せい」
すっと、手にした木刀を上段に構える。
そこにある真剣さと覇気に、御影は今までになく恐怖した。
罪のない彼を庇いたい。
しかし。その身が竦み、動けない。
絶望の最中。
豪雷の腕に力が入ると、刹那。
木刀が勢いよく、雅騎の頭上に振り下ろされた。
強く風を切る音に、思わず御影は強く目を閉じる。
そして。道場を暫し、沈黙が包んだ。
「……何故、避けようとせぬ?」
豪雷の静かな問いにはっとし、御影が目を開くと。
そこには彼の額の前で寸止めされている木刀が目に留まった。
確かに木刀は振り下ろされた。
にも関わらず。目を閉じる事も、背けることもなく。雅騎はただじっと、豪雷を見つめ続けている。
まるで、何事もなかったかのように。
刹那。
少年はふっと笑みを浮かべ、こう口にした。
「おじいちゃんもお母さんも、優しい人だから」
「儂らがか?」
「うん。二人とも、御影ちゃんが帰ってきたのを見て怒ってたけど、本当は凄くほっとしてました。だからきっと、二人とも優しい人なんだろうなって思って」
その言葉に、豪雷と銀杏はまたも唖然とした。
彼の言葉は問いかけの答えに、まったくなっていない。
事実。自分の子だけを心配し、他人の子を殴る親など、世間には沢山いる。
だが。目の前に立つ真っ直ぐな瞳を向ける少年は、そんな事を理由に、殴られないと信じて立っていた。
……いや。
もし殴られたとしても。
きっと彼はじっと、それを受け入れていたに違いない。
豪雷は後に、御影に当時の事をこう語っている。
あの時の雅騎はまるで、その命を厭わず世界を救えると信じる、小さき勇者のように見えた、と。
「がっはっはっはっは!!」
突然。豪雷が豪快に笑い出した。
今までの怒りが嘘であるかのように。
予想外の反応に、御影と雅騎もきょとんとしてしまう。
「お養父様?」
銀杏が思わず声を掛けると、豪雷は彼女に振り返り、嬉しそうな笑みを浮かべた。
「こやつ。どこか陽炎に似ておるのう」
長き髭に手をやり嬉しそうにする祖父の姿は、何処か懐かしいものを見た、そんな顔をしている。
彼の心情を銀杏もまた感じ取ったのか。
「そうですね」
ふっと優しくほほえみ返す。
「雅騎よ。お前と御影を許すのに、ひとつだけ条件がある」
再び雅騎に振り返った豪雷が、片膝を突き、彼と視線を合わせた。
「え?」
呆然としていた彼は、突然の言葉に拍子抜けした声を出す。
沙汰がどう下るのか分からない御影もまた、気づけば涙を忘れ、その成り行きを心配そうに見守る。
そんな二人の前で、豪雷は静かに、こう告げた。
「儂の元で、強くなれ」
「強く?」
「うむ。儂はこの道場で武術の師範をしておる。お主もここで、我が門下として御影と共に、鍛錬に励め」
今思えば。豪雷はあの時既に、雅騎を一人の少年ではなく、一人の男として声を掛けていたように御影は思う。
とはいえ、彼もあの時はまだ子供。言葉の意味が、はっきりとは伝わらなかったのだろう。
戸惑いと共にある雅騎に、豪雷はにやりとする。
「さすれば、御影を外に連れ出しても、お主が守ってやれるじゃろう?」
「お、お祖父様!?」
御影はその瞬間、思わず眼を丸くし祖父を見た。
孫の驚きように、彼はゆっくり手を伸ばすと、頭をくしゃくしゃっと撫でながら、嬉しそうにこう告げる。
「初めてできた友達なんじゃろ? であれば少しは一緒に外で遊ばせてやらんといけぬが、こやつが弱くては心配でのう」
そう言って豪雷が手をのけると、御影と雅騎は思わず、お互いの顔を見る。
「雅騎、その……あの……」
御影は言葉に窮した。
自分の想いを伝えて良いのか。それで雅騎を巻き込んでよいのか。
小さいながらに、想いの狭間に悩んだ。
そんな彼女に雅騎はにっこりと笑うと一転。真剣な表情で豪雷を見ると。
「お願いします。僕を強くしてください」
掛けられた言葉を疑おうともせず。御影に応えるかのように、はっきりとそう口にすると、しっかりと頭を下げる。
その姿に、豪雷と銀杏は笑みを浮かべ。
御影はまたも涙目になりながら、彼に感謝した。
孤独な自分の初めて友達となり。
外の世界を見せてくれ。
自身を責めることもなく、自分をただひたすらに庇ってくれた、その少年に。




