第十六話:殺めし者の願い
神降之忍の撤収を紅葉と岩剛に任せ。雅騎と神名寺家一行は、不気味な暗さを見せる闇夜の森を歩きながら、一路決戦の地へと向かっていた。
先導するように豪雷が。その後ろに銀杏が続き。最後尾には雅騎を挟むように、左右に御影、光里が並び、黙々と歩みを進める。
静けさが支配する森の中にあって。一人それを嫌うかの様に、荒い呼吸をしながら進んでいたのは雅騎だった。
左肩や両掌に、痛々しく血の染みた包帯を巻き。血色の悪い険しい顔で歩みを進めるその姿は、既に戦う限界を超えているようにしか見えない。
だが。それでも彼は、歩みを止めようとはしなかった。
雅騎の中では未だ、心に走る痛みと苦しみが、肉体的な痛みを凌駕していた。だからこそ身体は動く。心が悲鳴を上げていても。
しかし、それでもどうにもならないこともあった。
それは、失いし、血。
己の怪我を無視し戦い続けた身体からは、既にかなりの血が流れ出ていた。応急手当てを受け止血をした為、何とか一命を取り留めているとはいえ、それは何の解決にもならない。
あの赤き宝石、命療石を自身に使えていれば、少しは違っていただろうか。だが、そんな思惑も、己の選択で水泡に帰した今では、意味を成す事もない。
「雅騎様、無理せず残ってくださいませ」
痛々しい彼を見続け、心労が限界に達したのか。光里が心配そうに声を掛けるも、彼は首を横に振った。
「この戦いは俺が選んだんだ。気にしないで」
「ならば、せめて我々の肩を借りろ」
同じく居ても立っても居られなくなった御影が、思わず強引に雅騎の手を取ろうとする。
だが。
「駄目だ!」
差し伸べられた彼女の手を、彼は強く振り払った。
あまりの強い抵抗に、御影の表情が曇り、
「何故だ!? やはり私が、中途半端な気持ちで、この道を決断をしたからなのか?」
思わずそんな、負の感情が口を突いてしまう。
嫌われているのでは。
必要とされていないのでは。
自分の今いる道は、誤りなのではないか。
そんな不安の色を強め、彼女の表情が歪む。
横目でそれに気づいた彼は、悔いるような自虐的な顔で、首を横に振る。
「そうじゃない」
「では何故なのだ!?」
「……俺は。本当は人の心なんて、読みたくないんだよ」
苦しげな表情のまま呟く雅騎に、光里は思わずはっとした。
「まさか、あの時の力!?」
驚く彼女に、彼は小さく頷く。
「どういう事ですか?」
前を歩く銀杏が、振り返らずに雅騎に尋ねると、彼は神妙な面持ちで話し始めた。
「俺が光里さんと気づかれずに話をするには、俺が元々持っている力を解放するしかなかったんです。人の心を色で知り、相手に触れることで心の声を聞き、自分の心を伝えられる力を」
「心を視て、聞き、伝える……だと……!?」
あまりに突飛な事実に。そんな事ができるのかと、御影は愕然とする。
「ああ。悪いけど、この力は俺じゃ封じ直せないんだ。心の色が視えるのはしょうがない。だけど。今はせめて、勝手に心の声なんて、聞きたくはないんだよ」
己の身体に掛かる呪いのような力を忌々しく思ったのか。雅騎が苦々しい顔をする。
その表情は、まるで御影に、事実を述べていると告げているかのように、刺さる。
「だから貴方はあの時、私の心を言い当て、あの過去を知り得たのですね……」
「……すいません」
銀杏がその事実に気づくと、彼は申し訳さそうに謝罪する。
そんな苦しげな言葉に、彼女はゆっくりと首を振った。
──私は、自身の心すら隠せていなかったのですね……。
神降之忍を守るため、強い決意をしたはずなのに。
気づけば。娘達が別の希望に向け歩みだす姿に安堵し。
己がどうすればよいか迷った時、愛しき相手を振り返り。
雅騎の命を奪わんとした時、愛しき者の死を重ね。心で常に、自問自答していた。
そんな弱き心を雅騎が知っていた理由を聞き。
改めて知る、己の弱さ。
「貴方は何も悪くありません。全て、私がいけなかったのですから」
自分を戒めるように、銀杏は静かに言葉を返す。
「……母上」
と、その時。ふと、母を呼んだのは御影だった。
彼女は一瞬、その先の言葉を口にしてよいものかを躊躇うも。思い出した、ある事に心で迷い、揺らいだままでいたくない。
だからこそ御影は覚悟を決め、こう問いかけた。
「……母上が、父上を殺めたのですか?」
戦いの中で、雅騎は銀杏にこう言っていた。
「愛する人を殺さねばならない、心の痛みを知っている」と。
あの時の言葉は、光里にも同じ疑問を抱かせていた。母が失っている最愛の人。それは知る限り、一人しかいない。
銀杏は歩みを止め、振り返る事なく目を伏せる。
「……いつかは知るべきことじゃ。話してやれ」
振り返った豪雷が、彼女の迷いを知りながらも、優しく、静かにそう促すと。
ひとつ、長い吐息の後。
銀杏は僅かに震える声で、己の過去を語り始めた。
*****
それはまだ、御影達も生まれておらず。紅葉達もまた、物心つく前の頃。
「貴女達の父である陽炎は、お義父様より前の、神降之忍の頭領でした」
お互い神降之忍として切磋琢磨し、行動をともにした上忍、陽炎。
そんな二人は何時しか互いを想うようになり。契りを交わして夫婦となった。
それから数年後、銀杏は子を身籠った。彼はそれを、大層喜んでいたそうだ。
「そんな折。あの戦いが起こったのです」
それは、突如として里に現れた、鬼達との戦いだった。
この世界で鬼といえば、地獄を番をする伝説上の妖怪を思い浮かべる者も多いかもしれない。
しかし、現実には違う。
悪鬼羅刹。
この言葉が示すとおり、鬼とは人に悪さし害を成す者。だが元は、ほとんどが人なのだ。
鬼の生まれは未だ、明かされてじゃいない。
だが、現れし鬼はその全てが、恐ろしき力でただ凶行に及び、本能で戦い続ける狂気たる存在。
そして。鬼により命を失いし者は。鬼に呪われ、その身を鬼に堕とす。
「鬼達は忽然と現れ、当時我々が住処としていた、この里を襲いました」
鬼の数は決して多くはなかったそうだ。
しかし問題は、その力だった。
下忍では歯が立たず、神降術を駆使できる者でなければ、食い止めるのもままならぬ相手。
そして。鬼に殺められた者は、新たな鬼となり立ちはだかる。
事実。命を奪われ鬼となり、友に討たれた里の者も多く。当時中忍であった紅葉や岩剛の両親も命を落とし。また命を繋いだものの、戦えぬ身体となり、身を退いている。
それ程までに、この戦いは熾烈さを極めたものとなった。
その日。
陽炎は急襲の知らせに、急ぎ鬼との戦いに向かおうとした。
「彼に私もお供させてほしいと詰め寄りました。しかし、既に貴女達を身籠った身。それは叶いませんでした」
陽炎は仲間と共に戦いに赴き。銀杏は、先の拝殿に身を潜め、ただ祈り続けた。
彼が無事還ってくる事を信じて。
しかし。
「どれくらい経ったでしょうか。拝殿に戻られたお養父様が、私に告げたのです。『鬼は全て斃した。だが、陽炎が仲間を庇い、重傷を負った』、と」
瞬間。彼女は拝殿を飛び出し、無我夢中で駆け出していたそうだ。
「村に着き、皆に遠巻きに囲まれながら、膝を突く陽炎の姿を見た時。私は愕然としました」
斃した鬼達の亡骸の中で膝を突き、鬼からの返り血と、腹部から激しく流れる血で身を朱く染め。片手に霊刀朧月を持ったまま、もう片方の手で苦しそうに顔を押さえる陽炎。そして、額より生まれし、一対の結晶のような長き角。
それは、今まさに鬼とならんとする証であった。
未だ身体は人のまま。だが、それも鬼となれば、闇のごとき黒き結晶を纏い、狂気の眼を向けるようになる。
「思わず駆け寄ろうとした私を、彼は制しました。そして。朧月を私の前に投げ、こう告げたのです。『人である内に、私を、殺してくれ』と……」
銀杏には、邪気を払う破邪の力がある。
その力で何とか鬼となることを阻止できるはずと彼女は訴え、生きてほしいと懇願したそうだ。
気づけば涙に顔を濡らし。痛々しいほどの必死さで。
だが……。
「鬼の手で貫かれし腹の傷。あれはもう、手遅れじゃった」
銀杏に首を振り、口惜しげに事実を伝えたのは、陽炎の父、豪雷だった。
彼は息子の頼みを聞いてほしいと、銀杏に嘆願する。
それがとても酷で、辛い事だと知りながら。
その先の事を、銀杏ははっきりと覚えていないと言う。
ただ。気づけば朧月を手にし。彼女は、陽炎の心の臓を、刺していた。
*****
「覚えているのは、刀を伝わり触れた、嫌な血の感触。そして、息絶え絶えになりながらも。彼が嬉しそうに微笑み、涙して伝えてくれた言葉だけ……」
語りながら、堪えきれなくなったのか。目を潤ませ、体を震わせる銀杏。
「『子供達の事、頼む』、ですね」
彼女が語りきれなくなった言葉。それを雅騎が代わりに口にすると、
「……ええ」
短く、銀杏は応えた。
語られし過去に、御影は涙を堪え。光里は涙を堪えきれず、溢れさせる。
娘達が、言葉なく母の背をじっと見つめる中。
「それなのに、私は……神降之忍の為と信じ、彼の気持ちを踏みにじろうと、していたのですね……」
改めて胸に刺さる後悔に、銀杏は自らを咎め、そう呟く。
「そう、己を責めるでない」
豪雷が静かに慰めの言葉を掛けるも、銀杏は目を伏せたまま、弱々しく首を振った。
「そのせいで、私は娘達だけでなく、雅騎にまでこれだけの痛みと苦しみを──」
己の悔恨の念が、彼女の心の声を溢れさせ、懺悔するように言葉にさせようとする。
しかし。
「銀杏さん」
彼女の自責の念を断ち切るかのように。雅騎は強く、その名を呼んだ。
ゆっくりと振り返った銀杏に、彼は苦しげながらも、相変わらず強い視線を向ける。
「過去なんてのは、大事なことだけ覚えていれば良いんです」
突然掛けられし言葉。
一瞬真意が読めず、呆然とする彼女に、雅騎は言葉を続けた。
「誰かを助けられなかった辛さも。自分がしてきた事に、己を責めたい気持ちもわかります。だけど、今大事なのはそれじゃない。大事なのは、陽炎さんの意思を継ぎ、御影や光里さんと共に、未来を切り拓くこと事です」
肩で息をしながら。雅騎は一人、ゆっくりと歩き出すと。銀杏や豪雷の脇を抜け、前に歩み出た後、一度足を止めた。
「俺は、自分が思うことを勝手にしただけです。それが正しいかなんて、まだ分からない。だけど俺は、正しいと思うからこそ、この道を選んだんです。それは銀杏さんも、御影も、光里さんだって同じはず。その結果、誰も欠けずに未来を見られるなら、誰もその選択は間違ってなかったんですよ」
「そんな事は──」
「ありますよ。だから銀杏さんは、今も陽炎さんの想いを汲めるんです」
銀杏の言葉を遮り、雅騎が強くそう口にする。
表情は見えない。ただ。彼の言葉に迷いは感じられなかった。
そして。雅騎は振り返り、皆に顔を向けると。
「過去じゃなく、未来のために心を決めてください。全てが終われば、陽炎さんもまた、笑ってくれますよ」
彼の代わりと言わんばかりに、優しき笑ってみせた。
それは、これから苛烈な戦いに赴く者の顔ではない。
だが。
銀杏と豪雷はそこにまたも、過去に同じ笑みを浮かべた者の姿を重ねてしまう。
あの日。
仲間とともに鬼の元に向う前。泣きそうな顔をした銀杏に、陽炎が見せた、同じ笑顔を。
「フンッ」
豪雷は思わず鼻で笑うと、銀杏にゆっくり顔を向け、呆れた笑みと共にこう言った。
「昔、儂が言ったとおりじゃろ?」
それを聞き、銀杏も何かを思い出したのか。
「本当ですね」
彼女も、少しだけ微笑んだ。
二人の短いやり取りに、何があったか分からない御影と光里が、顔を見合わせ首を傾げる。
だが。祖父と母の表情が、まるで憑き物が落ちたような穏やかなものに変わったのを目にし、彼女達も安堵した。
「雅騎。ありがとうございます」
銀杏の言葉に、
「それは戦いが終わるまで、取っておいてください」
そう言うと、彼は前を向き歩き出す。
「待て。儂等が先導せねば、道も分からぬじゃろう?」
慌てて豪雷が後を追い、そう苦言するも。
「いえ。大丈夫です」
まるで何かに導かれるかのように。雅騎が歩みを止めることはなかった。
彼は既に視えていた。
歩みし先にある、強いどす黒い青色を。
そしてそこに、抗うべき道が、ある事を。




