エピローグ:暫しの休息も、日常には遠く
翌朝。一年E組のショートホームルームが始まった。
「今日は速水がインフルエンザで、綾摩が風邪で休みだそうだ。特にインフルエンザは例年より早く流行しているからな。皆も注意するんだぞ」
担任が教壇で出席簿を見ながら、淡々とそう説明すると、生徒達が呼びかけに「は~い」と仲良く返事を返す。
そんな中、恵里菜は名前の挙がった二人の席を交互に見る。
──まさかと思うけど……。
恵里菜は、担任の言っていた理由が事実と異なるのでは、と考え始めていた。
それを感じたのは、二人が同時に休みになったという事実から……だけではない。
昨日の夜、恵里菜はMINEで佳穂に、どうだったかを改めて尋ねていた。
しかし、その時返ってきたのは
『うん。大丈夫だよ。ちょっと用事できちゃったから、またね』
と、非常に短い文章一文のみ。それ以降の文章は、朝まで既読にすらならなかったのだ。
この、恵里菜が送ったMINEに対する返信。
実は、タイミング悪く佳穂とエルフィが結集笛の音色を聴き、急ぎ出かける準備を整えている際に届いたものだった。
佳穂は急ぎ返信をしたが、以降そのスマートフォンはベッドの上に残されたまま。それ故に生まれた状況だったのだが……。
そんな偶然は、恵里菜の妄想を更に加速させざるをえなかった。
──もしかして、今日も二人一緒に同じ部屋にいて、あんな事やそんな事で盛り上がっちゃってるんじゃないでしょうね!?
一人、教室内で勝手に赤面する恵里菜。
とはいえ、それが事実だとしたらMINEを今送るのは、二人の良い雰囲気を壊しかねない。それは親友として絶対にあっては駄目だとも思う。
結局。昨日の夕方から始まった彼女の酷い妄想劇は、後日佳穂が彼女に連絡を寄越し、偽りの理由を口にされるまで続くのであった。
*****
朝八時半頃。学校にインフルエンザだと伝えた雅騎は、眠そうな目を擦りながらベッドの上から何とか起き上がる。
疲労と睡眠不足から来る眠気。だが、それを強い痛みが一瞬でかき消していく。
そんな、自由を許さない身体の酷さに呆れながら、彼はゆっくりと、キッチンに向かっていった。
雅騎が学校休んだのは勿論、インフルエンザなどではない。
昨晩の傷は、佳穂達の必死の治癒の光によりほとんど癒えていた。
だが。やはり一気に傷を治癒した為か。朝になっても後遺症として、身体に酷い痛みだけが残ってしまっていたのだ。
こんな状況では、まともに学生生活など送れるはずもない。そのため、止む無く数日休める理由を付け、身体の回復に専念することにしたのだ。
結局。家に送ってもらった後も、明け方前に佳穂とエルフィが帰宅の途に就くまで、二人と一緒に過ごすこととなった。
何故そんな時間まで彼女達と過ごす必要があったのか。これには幾つか理由がある。
ひとつは、彼女達のしてくれた治癒の光に対する誤解を解かねばいけなかったため。
酔いのような効果が出たが、治癒には問題はなかったこと。
二人の治癒のおかげで身体に一時的に慣れが生まれたのか。浜辺で治癒を受けても同じような副作用がなかったこと。
雅騎はこれらを掻い摘み、彼女達に事情を説明をした。
自分達の治癒に問題がなかったことに安堵する二人だったが。今回の件で色々と巻き込んでしまったこと。そして痛みなく治癒ができなかったことに、反省と謝罪を申し訳無さそうに口にし。結果、そんな二人を宥めるのにかなり時間を要してしまったのがひとつある。
そしてもうひとつの理由。
それは、三人の当時の状況だった。
佳穂もエルフィも、海に飛び込んだことで、海水で濡れた状態。
このまま家に帰り、夜中に自宅の風呂に入るとなれば、両親に迷惑をかけるだけでなく、色々気づかれてしまう可能性もある。
普段は霧華や御影と行動しているため、こういった事態にも彼女達の協力で対処できたのだが、今回共にしていたのは雅騎だけ。
だからこそ、彼が気を利かせて二人に自宅の風呂を使わせていたのだ。
勿論二人が帰った後、同じくずぶ濡れだった雅騎も何とか一人でシャワーを済ませたが、彼女達がいる間「速水君がお風呂に入るのを手伝う」と佳穂に言われた時は、全力で否定するのに苦労したものだ。
そんな波乱の夜を過ごし。朝になっても痛みでまともに眠れなかった雅騎は、何とか朝食にありつこうと冷蔵庫を開け……ようとして止まった。
「そうだった……」
雅騎は思わず冷蔵庫に頭をコツンと軽くぶつけ、落胆と共に大きなため息を吐いた。
そう。
結局昨日は買い出しも出来ず、夜に外で遅い夕食をとっていた。
その帰りにコンビニでも寄って、翌日の朝食でも買い込むかと思っていたのだが……。結果あのような出来事に巻き込まれ今に至る。
つまり。家には未だ、食材が何もない。
雅騎は思わず膝からがくりと崩れ落ちそうになる。が、今しゃがむと立ち上がれなくなると、何とか堪えた。
とはいえ。こんな朝に何か注文を頼める場所もなく、出掛けられるような身体でもない事も重々承知している。
止む無く、とぼとぼとベッドに戻ろうとした、その時。突然パジャマのズボンのポケットに入れていたスマートフォンがブルルッと振動した。
「ん?」
こんな時間に? と思いながら画面を見ると……
『もうすぐ速水君の家に着くから、開けてもらっていい?』
こんなメッセージが届いていた。
──は? 今日学校だろ!?
驚きを隠せぬまま、その文章を茫然と見ていると、
ピンポーン
家のチャイムが、鳴った。
慌てて……と言っても痛みがそう簡単にはさせないのだが。多少無理して玄関に向かい、ドアを開ける。そこにいたのは……。
「おはよう、速水君」
「綾摩さん!? 何でここに!? 学校は!?」
雅騎は、普段ならそこにいるべきではない、ブレザーにコート姿で立っている佳穂に激しく戸惑いを見せた。
彼女はそんな彼を上目遣いに見ながら、ちょっと恥ずかしそうに「あがっても、いい?」と尋ねる。
「あ、ごめん。いいけど……つっ!」
雅騎がゆっくりとドアを離れようとした瞬間。走った強い痛みに身体から力が抜け、ガクリと体勢を崩しかけてしまう。
『雅騎!』
「危ない!!」
慌てて佳穂が、そして実体化したエルフィが玄関に飛び込み彼を両脇から支える。
そして。玄関のドアは静かに、ゆっくりと閉まった。
「今日はお母さんに無理言って休ませてもらったの。一人暮らしの友達が風邪で困ってるからって。だから、今日は一日速水君の家のお手伝いをできるよ」
「そうなんだ……じゃなくて! そんな事しなくて大丈夫だよ! それに綾摩さんもエルフィも、昨日ので疲れてるでしょ!?」
佳穂の無茶苦茶な理由。それを危うく自然に受け入れそうになるほど混乱していた雅騎に、二人は真面目な表情を向ける。
『貴方ほどではありませんよ。雅騎』
「そうだよ。今だってすごく辛そうだもん。だから無理しちゃ駄目だよ」
彼は二人を交互に見る。その顔は戦いの時にも感じた、強い意志が伺える。
──こりゃ、何言ってもダメかな……。
雅騎はそんな予感を覚えつつ、ひとつため息を吐くと、何とか立ち上がろうとした。が、やはり痛みがそうさせてはくれない。
膝を伸ばそうとした瞬間顔をしかめ、再び崩れ落ちそうになる雅騎に、咄嗟に佳穂とエルフィが肩を貸す。
「速水君!? 大丈夫?」
『無理はなさらないでください』
「ご、ごめん……。悪いけど、とりあえずベッドまで、良いかな?」
「うん!」
二人に肩を借りたまま、雅騎はなんとか立ち上がる。そしてそのまま彼女達の補助の元、何とかベッドまでたどり着くと、彼はゆっくりとベッドの脇に腰を下ろす。
それを見届けた佳穂とエルフィは、そのまま彼の正面で正座をする。
「あのね。流石に毎朝は難しいけど、帰りに寄ってお手伝いくらいはできると思うから安心してね」
「いや、安心って……。今日もそうだけど、別にそこまでしなくても……」
「ダメなの!」
やんわりと断ろうとする雅騎を遮る、佳穂の強い言葉。
今までの彼女からは考えられない積極さに、彼はより強く戸惑いを浮かべてしまう。
そんな彼の心情を察したのか。佳穂はじっと、真剣な目で雅騎を見つめた。ちょっと申し訳無さそうに。
「私ね。エルフィと話したの」
「何を?」
「速水君は私達のせいで、こんな大怪我負っちゃったでしょ」
「いや、それは俺が勝手に……」
『そうかもしれません。ですが、私達が巻き込んでしまったことは、事実なのです』
雅騎は二人に何か言い返そうとしたが、その表情に思わず言葉を飲み込む。
淡々と語る佳穂とエルフィの表情に浮かぶ、同じような影。
昨日、雅騎に治癒の光を使わなければ、彼を巻き込むことはなかった。
その事に強く心を痛めているのが容易に察せてしまう程、二人はそんな気持ちを正直に顔に出していた。
「だから。せめて怪我の痛みがもう少し引くまで、一人暮らしの速水君の力になりたいって決めたの」
「いや、その……。気持ちは嬉しいん、だけどさ……」
雅騎は戸惑いと共に、二人から一度視線を逸した。その顔を赤く染めながら。
実のところ。彼は家族や親しい者でない異性に、ここまでストレートに優しくされる、という経験がなかった。
だからこそ、気恥ずかしさと心の戸惑いが強く先行してしまう。
有り難い。だが、困る。
「やっぱり、迷惑かな?」
そんな戸惑いを感じてだろうか。
佳穂は上目遣いに雅騎を不安そうに見る。彼女も何故か顔を赤く染めながら。
それもそうだろう。
佳穂がここまでの我儘を言い、雅騎のために行動しようとする。これは彼女にとって恐ろしく勇気がいる決断なのだから。
その無意識にとった佳穂の行動が、またも雅騎をドキっとさせる。そう。喫茶店の時と同じように。
「……たくっ」
彼は目を閉じ、頭をくしゃくしゃと掻くと、腹を決めた。
「分かった。けど二人も疲れてるんだから。無理しないでね」
目線は合わせず、頬を掻きながら。仕方ない、といった感じで返事をする。
だが、仕方あろうとなかろうと、それは肯定する答え。
それを聞き、佳穂の表情がぱぁっと嬉しそうな笑顔に変わる。
「うん!」
大きく頷くと、佳穂はエルフィを見た。
彼女は佳穂の願いが叶って安心したのか、嬉しそうに微笑み返している。
そんな光景を見て、二人が喜んでくれたことに、雅騎もまたほっとした、のだが……。
次の台詞がそれを一瞬で消し飛ばした。
「じゃあ、まず洗濯からするね!」
自分を鼓舞するように両手をぐっと握り、頑張るぞ、と決意を新たにする佳穂。
だがそれは、雅騎にとって触れてほしくない領域へ、いきなり踏み込もうとするもの。
「へ?」
彼は素っ頓狂な声をあげ、一瞬呆気に取られた後、
「ダ、ダメダメダメダメ! それは絶対ダメ!!」
慌ててそれを制しようとした。
そんな彼の激しい抵抗に、何かを察したのだろう。
「だ、大丈夫! お父さんの下着だって洗った事あるから!」
佳穂は顔を真っ赤にしながらも、雅騎のためを思い、強い決意を示す。
そして。静止も聞かずにエルフィと二人、寝室を出ていこうとした。
「だからダメだっ……てっ!!」
思わずベッドから起き上がろうとする雅騎。だが、何度目かの強い激痛により、体勢を崩し前のめりにドンっと床に倒れこんでしまう。
『雅騎!』
「速水君!」
振り返った二人は慌てて踵を返し、雅騎に駆け寄った。
『無理はいけません!』
「いや、だって!」
「これは私達が勝手にやっていることだから。速水君は無理しないで休んでていいよ。ね?」
「それでも、絶対ダメだって!!」
何とか力になろう必死になる、佳穂とエルフィ。
それを真っ向から否定する、雅騎の心からの叫びが部屋に木霊する。
速水雅騎。
彼は平穏な日常を求めている。
しかし。そんな生活に戻れるようになるのは、まだ先の話なのかもしれない。
~Fin~




