それから
町外れの小高い丘の上に佇むこの私立曇天大学に入学して2回目の春が訪れた。
俺ーー春日謙一は、買ったばかりのアコースティックギターの重みを右肩に感じながらも、それに反して羽根のように軽い足取りで部室棟へと向かう。
あの(俺の中では)伝説の学祭ライブを体感してから半年。衝動に任せてこの弾き語り部門部室(正:卓球部部室)のドアをくぐってから、俺の大学生活は大きく変わった。
淀んで藻が繁茂する道路脇の側溝でプカプカ浮いている、一枚の枯れ葉みたいだった日々は、大雨の後のようにきれいさっぱり押し流され、今は一級河川を漂いながら大海原へと向かっている。
俺の大学生活が、充実したものに変わっていっているという実感が、この汚れたスニーカーの重みを奪い去ってくれたかのようだ。
ただ、今一つ物足りない、そんな気もする。
昨日、駅ビルの行きつけの楽器屋で出会ったあの娘。
彼女が俺の足りない何かを埋めてくれるのでは、という浅はかな期待が一瞬だけ脳裏を過った事、それは認めよう。
しかし、曲がり角でパンをくわえた女性とぶつかるような運命的な出会いなど、人生においておいそれと発生しない事くらい、20年近く生きていれば嫌でも身に染みている。
当然のことながら、彼女との出会いは異なるベクトルで進む人生の単なる交差であり、もう2度と交わる事はないのだろう。
それが現実ってやつなのだ。
それにしても、可愛い人だった。
でもどこかで見たことあるような気がするんだけどな‥‥。
そんな不埒な事を考えながら、部室のドアを開ける。
ガムテープで貼られた下手くそな「弾き語り部門」の文字は、卓球部の部室を間借りし始めてから一度も貼り替えられていないと聞いた。もはや、この場所を示すシンボル的な何かに昇華されているのだろう。
「お疲れ様でーす」俺が間延びした挨拶をすると、部室にいた4人の先輩がこちらを見る。
「お、春日くん、お疲れ!」
そう言って楽譜から顔を上げたのは正方寺陽介先輩。イケメンで歌がめちゃくちゃうまい、俺の憧れの先輩である。その上ピアノも上達中らしく、もはや手に負えないほどイケメン街道を爆進中だ。
「お、やっとギター買ったんだ。いいねー」
正方寺先輩と向かい合ってテーブル席に座っていた清里珠美先輩が俺のギターに気付く。「どれ、見せてみ見せてみ」ソファーに腰掛けた俺の隣に座りる。
この先輩、スタイル抜群で巨乳なのに、男との距離感の取り方をあまり理解していないように思う。というか、俺を男として意識していないが故か。だから女性経験の少ない俺にとっては、如何ともし難いシチュエーションが多々ある。
「あ、黒いギター買ったんだ、カッコいい!」
同じくテーブル席に座っていた金谷ひまり先輩が歓喜の声を上げる。俺は数ヶ月分のバイト代を注ぎ込んで買ったこのギターを率直に褒めてもらえた事で、なんだむず痒いような喜びを覚えた。
金谷先輩は清里先輩とは正反対で小柄でぺしゃんこではあるが、なんだか小動物みたいな可愛らしさがある。
「あ、黒のYAMAHA FG かー。かぼすが使ってるギターの一つだよね。うん、黒のボディに指板のローズウッドが映えるね。いいなー」
カーペットに座ってギターの手入れをしていたリーダー、平均先輩が羨望の眼差しで僕のギターを眺めている。頼りなく見えるけど、キメる時はしっかりキメててくれる俺の目標の先輩だ。
あの伝説(?)の学祭ライブで歌ったオリジナル曲が俺の心を突き動かしてくれたからこそ、今この場所に俺はいるのだ。
「いやー、取り寄せてもらっていたギターを昨日街の楽器店に取りに行ったんですが、ほんと緊張しましたよ!」
昨日の興奮を思い起こして、俺は自然と饒舌になる。
「丁度同じ日にギターの引き取りを予約してた人がいて、その人とギターを取り違えそうになっちゃう一件があったんですけど、なんとか手に入りましたよ」うんうんと一人で頷く「その女の子とギターの話で盛り上がって、そうそう、なんかその子もこれからギターを始めるみたいなんですけど、結構可愛い子だったんですよ。あー連絡先交換しときゃよかったなぁ」
「そりゃ残念だったなー」正方寺先輩が苦笑いする。「でも、ギターやってりゃまたどこかで会えるんじゃないか? ライブハウスとか、学祭とかさ」
「そうだといいっすね」
「あんまり落ち込むなよ少年。お姉さんたちがついているぞ」清里先輩がイタズラっぽく笑う。
「いや、お姉さんって‥‥」俺は溜息吐いた。
「でもさ、本当にまた出会えたら、それって素敵だよね」金谷先輩が微笑む。
「はい、もしそうなら運命的なものを感じちゃいますよ」
「あのさ、もしかしてその運命って‥‥意外と身近なものだったりして」
なぜか難しそうな顔をしていた平先輩がボソッと呟く。
そしてスマホを操作すると、画像データを俺の前に掲げる
「その子って、こんな感の子じゃなかった」
そこには昨日あった女の子が写っていた。
高校の制服を着ていて、少し幼くも見えるが、間違いなく昨日会ったあの女の子だ。
「え、なんで平先輩があの子の写真を‥‥?」
驚愕する僕の顔を見て、先輩は溜息を吐き、言った。
「こいつ、僕の妹だよ‥‥」
「はへ?」ついつい間の抜けた声が溢れてしまった。
平先輩の妹さんは平和さんと言うらしい。今年から大学生らしいから俺の一個下と言うことになる。そしてさらに驚くべきは、彼女が今、この曇天大学の別学部がある別キャンパスに通っているとの事。その別キャンパスは今年の夏には、今俺たちのいるキャンパス統合されるという事情があり、つまるところーー
「夏から、この弾き語り部門で一緒に音楽する事になる予定‥‥」昨日いきなりギターを買ったと連絡があったから、まさかとは思ったけど、紹介するより先に先に春日君と出会う事になるなんてねーーそう言って平先輩はなんとも微妙な表情を見せる。
「あの、なんて言うか、ちょっとわがままな妹だけど、よろしくお願いします‥‥」
「は、はい‥‥」
僕は曖昧に頷くしかなかった。
これは運命なのだろうか?
俺は自問し、その問いが無意味である事に気付く。
偶然だろうが必然だろうが、どんな出来事でどんな結果が待っていようが、自分の望むべき未来を選び取っていく力を俺たちは持っているのだから。
あの日、あの場所で、先輩達のライブを聴いたのは単なる偶然だった。
漫然と過ごす毎日の中で、なんの期待もないまま、人の流れに任せて流れ着いた体育館で、俺は無防備なままあの熱に触れた。
声と音。
先輩達の音楽を全身に受けて、俺は自分が本当にやりたかった事に気づいた。自分もあの場所に立ちたいと、心の底からそう思った。
それは偶然でも必然でもない。俺自身が選んだ、俺自身の思い描く理想の自分だ。
「えっと、まぁ、それはさておき、実はもう一つ報告があって」平先輩は軽く咳払いをして、俺達を見る「次のライブの日取り、決めてきたよ」
俺達の目の前に窓があるとして、それを開け放った時、見える景色はどんなものだろうか。
「ライブは来週の土曜日。最近出来た駅前のライブハウスで演奏者を募集していたから、申し込んでおいたよ」
その景色は、時には自分自身を深く傷付けるかも知れないし、後悔で頭を抱える事になるかもしれない。
「春日くん、君にとっては初めてのライブになると思うけど、やってみる?」
名も知らない誰かに笑われるかもしれないし、納得のいかない結果になるかもしれない。
けれど。
「春日くん。失敗したらどうしよう、って不安は、確かにあると思う。僕だって、今だにライブ前は怖いよ」平先輩は言う「でもそんな感情、ステージに立ったら吹っ飛んじゃうよ」
先輩は少し恥ずかしそうに笑う。
「技術的な事は、お互い学び合っていこう。でも一つだけ、これだけは皆それぞれが心に持っていて欲しい」
そう、それがあるから先輩は、そして俺たちみんなは、音楽を続けていけるんだ。
『大事なのは、音楽はめちゃくちゃ楽しいって、その気持ちだよ』
僕は部室の窓を開けた。
そこには青い空を白く染める、中庭の桜の木があった。春のやわらかな匂いが流れ込む。何かを期待させるような、そんな匂いだ。
自分で選んだこの場所で、俺はかけがえのない「今」を生きていく。
先輩たちがそうしてきたように。
この、曇天大学 軽音楽部 弾き語り部門で。
何かが起きそうな、そんな予感で、俺の胸は高鳴っている。
【完結】




