学祭(今と)
無機質な建物に熱く滾った血が通い、のぼせ上がるような熱量が足の先から染み入ってくるような気がした。
学生入口のガラス戸に貼り付けられた『学生ライブ 13時 体育館』の手書きチラシが目に入り、僕ーー平均は興奮と緊張と不安と喜びが入り混じった何とも不可思議な感情を、右手にぶら下げたギターと同じように、無表情という名のハードケースに押し込み、素知らぬ顔で廊下を歩いた。
それでも感情というやつは、コーラの炭酸みたいにほんの微細な隙間から漏れ出してしまうらしい。学生掲示板のガラスに映る自分の顔。口の端が妙な調子でつり上がっていた。
満開に咲いた桜の写真が印刷された『写真サークル 作品展示 B203講義室』のチラシが貼ってあるガラス戸を抜けて、中庭に出た。そこでは秋風に染められ茶色の葉を揺らす桜の木が、色めく僕達を見下ろすように聳立していた。
普段は放置された鉢植えのように殺風景なこの場所も、今日は数多の屋台が軒を連ね、鮮やかに彩られた看板の花が咲き誇っている。見慣れた大学の一画がこんなにも変貌を遂げるものなのかと、毎度驚かされる。
「あ、キミ、弾き語りの子‥‥そう、平くん! 平くん、だよね?」
聞き覚えのある声に呼び止められ、僕は声のする方へと目を向けた『ピンポン玉たこ焼き』と書かれたその屋台では、卓球部副部長の国府涼子先輩が手を振っていた。
「あ、ここが卓球部の‥‥」なんだか幻想から現実に呼び戻されたような気分。やけにぼんやりする頭で普段通りの自分を取り繕いながら、僕は屋台の方へと足を向ける。
「いらっしゃい! 何か買ってかない? 丁度今焼きたてがあるよ」こちらも何処か浮かれた様子で、親指と人差し指で輪っかを作り揺らしている。まん丸のたこ焼きをイメージしているのだろうか。普段の冷静沈着な印象もどこか有耶無耶になり、ハッピを着て子供のようにはしゃぐ国府先輩がなんだか可愛らしく感じた。
祭という束の間の幻想がそうさせるのだろうか。後にこの時のテンションについて言及しようものなら、恐らくいつもの冷静な視線を向けられ辛辣な言葉を投げかけられるかもしれないので、見なかったことにしよう。
「それじゃ3舟もらいます。部室に差し入れするんで」時々顔は合わせるけれども、二人だけで話すことなどほとんど無かった国府先輩。普段なら緊張しまくってまごつくようなシチュエーションだけど、今日は自然と言葉が出てくる。ありがとう、祭の幻想の後遺症よ。
「杉田くんやごっちんも部室に来てるの?」
「多分。早めに来るって言ってたんで」
「ふーん、少し手が空いたら顔出してみるね。てか、顔出すって、あそこうちの部室なんだけどね」ケラケラと笑う。
「先輩達に、ソースこぼさないよにキツく注意しときますね」
「頼んだぞ、平くん」
「了解っす」
手には8個入りパックのたこ焼きが3舟ぶら下がっている。ピンポン玉のようにまんまるだ。卓球部部員の皆さんも、きっとこのまんまるのたこ焼きを焼くために修練を重ねたに違いない。
みんな、今日のために準備を進めてきた。
僕達も負けていられない。
「あ、平くん」また声を掛けられた。どことなく呆けた顔のひまりさんが、小走りで駆け寄ってくる「おはよう」
「おはよう」おはようと言うには少し遅い時間だけど、僕は同じように返す。
「昨日、眠れた?」
「遅くまで準備してたけど、多少は‥‥」
「私、ドキドキして全然眠れなかったよ」
この呆けた顔の正体はそう言うことなのか、と納得する。
「でも、大丈夫! ちょっと眠いだけでコンディションはばっちりだよ」眠気を吹き飛ばすように、大きく頷いて見せる。
肩にかけられたギターケースが揺れた。
小さなひまりさんが持つと、このギターケースは不釣り合いに大きい。最初の頃はそんなふうに見えていたけれど、最近はその違和感も薄れて、ギターもひまりさんを信頼して肩を預けているようにも見える。
ギターとの信頼関係が生まれてきたんだろうね‥‥歩きながらそんな話をすると、ひまりさんは嬉しそうに頷いてくれた。彼女の心を覆う緊張が、ほんの少しでも和らいでくれたらいい。
視線を遠くに移すと、白い講義棟のを飛び越えて、赤く彩られた山並みが見える。
枯れた地面を赤や黄色の落ち葉が覆い尽くしていくように、不安や戸惑いを包み込んでくれる鮮やかな色合いだ。
この壮大で、緻密な、自然の絵画。数年前の僕は、この町に、こんな素晴らしいものが存在しているなんて、想像さえもしていなかった。
この場所で、この大学で、この空気の中で、いろいろな出会いがあり、いろいろな発見があった。
そしてこれからも、いろいろな出会いと別れ、いろいろな変化が生まれていくのだろう。
人と人との繋がりも、この景色と同じだ。
花が咲き、緑が繁茂し、色を変え、やがて果てる。変化があるからこそ、美しい。
急に立ち止まった僕に気づいて、ひまりさんも足を止め、振り返る。
「どうしたの?」
「ひまりさん」
「なに?」ゆっくりと歩み寄り、僕の見つめる方向に目をやる。
彼女にも、この景色が見えただろうか。見えていて欲しい、そう願う。
「ライブが終わったら、学祭見て回ろうよ」
「うん」
「二人で」
少しの沈黙。その後「うん」
目は合わせず、二人同じ方向を見ている。彼女にも、この景色が見えているだろうか。
部室では、既にみんなが集まっていた。
普段はバケツの中のふやけた雑巾みたいに弛緩しているここの空気も、今日に限ってはだらけのぬるま湯が絞り出され、硬く引き締まっている。
僕の差し入れたたこ焼き口に投げ込み、熱々のそれをハフハフ言いながら飲み込んだ後、弾き語り部門長の杉田先輩は、皆を見渡し頷く。
「えー諸君、いよいよ本番なわけだが」皆、杉田先輩の方を見る「この学祭にかける想いは、人それぞれだと思う。今日で最後になるもの、これからの弾き語り部門を繋いでいくもの、色んな想いが重なり合った時にこそ、最高の音楽ってのが完成すると俺は思っている。心を一つに、とか言う合唱コンクールみたいなノリは俺達には似合わない。好き放題、叫びたい音楽を叫び、掻き鳴らしたい音楽を描き鳴らせばいい。でも、それでも、これだけはみんなに感じといて貰いたい。それはーー」
その言葉の先を僕は知っている。
僕が勇気づけられ、ひまりさんを勇気づけてくれた言葉だ。
「ギターって、音楽ってめちゃくちゃ楽しいって事だ」
僕は、頷く。
「そんじゃ、楽しんでこよう!」
そして、学祭ライブの幕が上がる。




