それぞれの、その日まで その4
○平均の、その日まで
落ち着かない夜は、ギター磨きに没頭する。
オイルを垂らした布でボディを丹念に磨くと、高校生のバイト代で手が届く程度の安物ギターですら、ショーケースに飾られたヴィンテージのように艶かな輝きを放ちはじめる。霞がかった様にぼやけた輪郭が、濃い鉛筆で何度もなぞられたみたいに、力強い存在感を帯びてくる。
相棒が見せるその表情が、いつも僕の気持ちを落ち着かせてくれるのだ。
心の中にある、濃くて淡くて柔らかく固いものが、次第にその姿を現し始める。それは至ってシンプルな問い掛けだ。
失敗、迷惑、嘲笑、落胆?‥‥違う、そうじゃない。僕が、僕自身に問い掛けたい言葉は、そんな他人の眼の中に映り込んだ自分へ向けられるものじゃない。
その時の僕が、その瞬間を楽しめるのか?
そして未来の僕が、その瞬間を楽しかったと思い返す事が出来るのか?
秋の夜は長い。
実測値ではなく感覚として、秋の夜は脳の何処かにある赤茶けた錆だらけのリュウズを回してしまうのだろう。
時計の針は迷子の仔犬みたいに、無闇矢鱈に進んでは、同じような速度で来た道を引き返す。そんなデタラメ時間の中で引き伸ばされ推し窄められた僕の感覚は、ペグを緩めた0.012インチのスチール弦みたいに、間の抜けた欠伸を誘発した。
一つの巨大な音の集合体があるとする。いくつもの飛沫が組み合わさり、轟音と共に滝壺へと流れ落ちる澄み渡った清流。ひとつひとつの音に耳を澄ませれば、粒の大きさや落下する高さはまちまちで一つとして同じ音がない。
窓の外から聴こえてくるウマオイの奇妙でひょうきんな声に耳を傾けて、僕はそんな事を考える。
僕らの音楽もそうでありたい。
複数の音が絡み合い一体となり、音楽として空間を彩る。しかし切り離されたひとつの音にだって、何かしらのストーリーを感じさせたい。
「夜中になんでギターいじってんの? なんか怖いんですけど‥‥」
隣室の引き戸の隙間から、怪訝な顔をした妹ののどかが覗き込んでいた。明日の学祭を見物するために今日は僕の家に泊まっている。受験生としてのモチベーションを維持するために、最近は様々な大学の学祭を見物しているらしい。
「あ、わるい、起こしたか?」
「いや、布団の中で参考書読んでたから」そう言いながらも溢れそうになる欠伸を右手で抑える。多分、ほぼほぼ睡眠学習の領域に突入していたに違いない。
「ほどほどにな」僕はそう言ってギターに向き直った。背中からなんだか物足りなそうな妹の視線を感じる。
「お兄、なんか変わったよね」そんな呟きを背中に受けた。
「どこが?」僕はのどかの方を見る。引戸の隙間から覗くのどかの白い顔は、夜の窓ガラスに写った自分の顔にどことなく似ている。いつもみたいに背伸びの化粧をしていないせいか、その顔はなんだか幼く見えた。僕の後ろをついて回って、僕の真似ばかりしていた幼い妹の顔だった。
「なんだか、しっかりしたって言うか‥」のどかが呟く
「なんだよ気持ち悪い」
「いや違うし! 調子にのんなよ! えっと、うーんと」のどかは腕を組んで考え込む。
僕は布にオイルを染み込ませながら次の言葉を待った。
無言になる。
時計の音、外では秋の虫の音。ふと、明日歌う予定のオリジナル曲のワンフレーズが思い浮かんだ。
「なんていうか、いつも楽しそう、っていうか」
「楽しいよ」僕は臆面も無くそう返した。
そう、楽しい。弾き語り部門のみんなと過ごす時間も、一人で自分の思考に沈んでいく時間も、講義を聴きながら曲の歌詞を考えている時間も、その曲をみんなの前で披露する瞬間も、どれもかけがえのない時間だ。
「うちもさ、大学生になったら、そんなふうになれるんかな?」のどかは言う。
何か思うところがあるのかもしれないが、今ここでは聞かないでおく。必要になれば、こいつから相談してくれるはずだ。
だから僕は、こう答える。
「明日のライブを見れば分かるよ」




