働きアリの歌
さっき見た流行りの長編アニメーション映画を頭の中で早送り再生して、鳥肌が立つような感動を反芻している。
けれどもシャツの襟から露出した首元やうなじの辺りが泡立つのは、衰退した太陽の残渣を秋の夜風が拭い去ってしまった事とも無関係ではないだろう。
地方都市とはいえ土曜の夜は長い。
駅前では一次会から二次会へ向かうサラリーマンの集団や、肩を寄せ合い交差点を渡るカップル、眠そうな小学生くらいの男の子を背負ってバスに乗り込む親子連れなど、様々な人々の持つ色彩が渦を作り黒ずんだ駅舎の外観に華を添えている。
平均は自らも色彩の一つとしてこの景色に溶け込んでいる様を俯瞰し、自分がどんな色合いを見せているのかを思った。
思いながら、駅ビルに隣接する歩道橋を渡って下り路線に近い側の改札へと向かう。
どうやら一つ前の電車が駅を出た直後らしく、時刻表を見ると次の電車まではまだ1時間近く時間があった。
この時間帯になると1時間に1本しか電車がないのは、地方都市の常識なので今更落胆も憤りもない。のんびりと時間を潰す術を平は、そしてこの街に住む人々は皆、持ち合わせている。
駅ビル内の本屋で新刊の文庫本を眺めようかと踵を返したが、どこからか聴こえてくる歌声に足を止めた。それは駅の南口側から聴こえてくるようだった。
平の足は自然と歌声の流れてくる方へと向かう。
通路の壁で反響し逃げ惑う魚の群れのように散らばっていた音が、徐々に一つのメロディーへと収束していった。
ギター一本の弾き語りだ。
そしてこの曲は、平も好んで聴いているミュージシャンの曲だった。
切なげなメロディーが聴く者の心を揺さぶり、歌詞が伝えるのは生きる事の苦しさと、その奥に仕舞われ忘れかけていた喜び。
原曲が秘めた感情の波紋をこの歌い手は見事に歌い上げていた。
ただ一つ違いがあるとすれば、この歌声が掠れた男の声ではなく、細く透き通った女性の声であるという事。
駅の南口は繁華街に面した北口とは異なり人もまばらだ。
仲間とゲラゲラ笑っている若者たちや、足早に家路を急ぐ残業を終えたサラリーマンが、女性の歌声などまる聴こえていないような素振りで去っていく。
白いシャツの上に黒いPコートを羽織った女性が、生垣の囲いの前にギターのハードケースを広げ、ナチュラルカラーのアコースティックギターをかき鳴らしていた。
目深にかぶった帽子のつばとと縁の太いメガネのせいで女性の目元は伺えない。匿名性を強調したようなその出立ちには、自らの存在をこの歌そのものに変換してしまいたいという女性の本心が薄っすら滲み出ているような気がする。
女性から数メートル離れたベンチに腰掛け、平は女性の歌声に聴き入った。
美しい声だった。
深緑の中に佇む湖で一匹の小魚が跳ねたような、規則的で静寂なーー音楽を静寂と表現する事に矛盾を感じるけれどもーー波紋が薄暗い南口に広がっていく。
静かな歌だ。
外耳道の表面に触れる分には、その歌は落ち着いたバラードだった。
しかし鼓膜を震わせ耳管に響き渡ったその歌の中に、平は点在する街灯の弱々しい光さえぬらりと反射する刀剣のような、鋭い刃を感じた。歌い、叫ぶ事で、自分を飲み込んでいく何かに抗おうとするかのような、自分を殺しに来る誰かに向けて滑らかな刀剣を必死に振り回しているような、そんな滅茶苦茶で我武者羅な攻撃性と、恐怖を感じた。
女性は昼間の自分の背中を引き裂き、強引に羽根の生えた姿へと生まれ変わろうとしている。
そして、その痛みで口から漏れ出た声が歌として形作られている。
そんな風な感想を持ったのは、この南口が駅前にしてはあまりにも暗く、世界の最果てにいるような孤独を感じるからかもしれない。
でも、そんな感傷の後押しがなくとも、女性は明らかに孤独を歌っていた。
平の中に、女性の心が流れ込んで来るような気がした。
女性の心を縁取った幻想映像が、スクリーンに映し出される。
他人に足首を掴まれ、押し付けられ、抑え付けられ、心にもない言葉を放つ昼間の私。そんな薄汚れて乾燥してガチガチに固まった殻を身につけた昼間の私を、他人は辛うじて人と認めてくれる。
ではここで歌っている夜の私はどうなのだろう。
背中の亀裂から首を頭を突き出し、叫び声をあげている私は「それも君だよ」認めてもらえるのだろうか。
誰もが通り過ぎていくこの南口で、背景音楽と成り果てた叫び声を聞き入れてくれる人はいるのだろうか。
蛹の中で羽化する日を待つ本当の私。
いつの間にかその蛹が、自分自身になってしまうのではないか。
こうやって背中を割いて叫び声を上げ続けなければ、いつか羽化の仕方さえ忘れてしまうのではないか。
女性の顔の中心にある、赤く、少し乾燥した傷口は、孤独な歌を高らかに唄う。
夢想と現実が混じり合っていく‥‥‥
そこで、電車の時間まで10分を切っていることに気付き、平は夢想から現実へと急降下した。
急いでベンチから立ち上がる。
女性は平の姿など気にも留めず、唄い続けている。
電車に揺られながら平は思った。
唄い惚けるキリギリスと勤勉に日々をすり減らすアリ。でもそのありの群れの中にだってきっと、自分の本当の声を響かせたいアリだっているに違いない。
そんなアリたちはこうして、無関心なアリの群れの中で、ただ叫び声を上げ続ける。
いつか、自分もそうなるのかもしれない。
自分が働きアリの歌を唄い始める頃、女性はまだ孤独の歌を唄い続けているのだろうか。
そんな事はない、と首を振る。
女性は透き通った羽根を羽ばたかせ、新たな世界へと飛び立つに違いない。
そう、信じたい。
それは、希望であり、願いだった。
自分が自分でいられる一瞬、それが青春時代というものなら、それを終わらせるの長らえさせるのも、自分自身に委ねられているのかもしれない。
僕はギリギリまで、キリギリスの歌を作り、唄い続けよう。
僕の青春を、弾き語り部門を、いつまでも終わらせないために。




