0.12の悲劇
「お疲れ様でーす」
「平ちゃん静かに!」部室に入った瞬間に杉田先輩に怒られてしまった。
「どうしたんですか?」小声で杉田先輩に尋ねると、ちょいちょいと五智先輩を指差す。
「ギターのチューニング合わせてるだけじゃないですか」
「ばか、よく見ろあの弦を。あれは『古い弦』だぜ?」
「な、なに!?」僕は戦慄した。確かにあの弦の色は若干赤茶けつつあるが、まさか五智先輩がそんな危険な事を――
「ようやく気が付いたみたいだな……」杉田先輩が頷く。その目には普段見ることのない緊張の色が伺えた。堅あげポテトも豪快に齧るのではなく、小さく砕いてぺろぺろ舐めている。
「どのくらいの古さなんですか?」
「ああ、弾いた後にオイルを塗らず、拭きもせず、一ヶ月近く放置していたらしい」
「それは、危険すぎますよ。なんでそんなになるまで放っておいたんですか、五智先輩らしくもない」
そこで、五智先輩が抱えているギターがいつものギブソンじゃない事に気付く。
「あれって杉田先輩のマーチンじゃないですか。いいギターなんだからちゃんと手入れしてくださいよ」
「あはは」杉田先輩は笑ってごまかした。
プロのミュージシャンにとって弦は消耗品だろうが、僕たちのような貧乏学生にとっては弦1セットにかかる出費もばかにならない。可能な限り長く使う事が節約につながるため、時にはこのような「危険な賭け」に打って出なければならない場合もある。
古い弦のチューニングは危険と隣り合せだ。
いつ切れてもおかしくない弦にテンションをかけていく時の恐怖は、銃弾が1発だけ込められたリボルバーをコメカミにあて引き金を引くのにも似ている。
爆弾処理班になったつもりで僕たちは日々のチューニングを行っているのだ。
「おい、ついに1弦に手を出したぞ」一番細い1弦のペグに手が伸びたとき、杉田先輩は恐怖に耐え切れずそう呟く「いけるのか? いや、頼むいってくれ」
「お疲れ様でーす!」
元気よく登場した正方寺を二人で羽交い絞めにしながら、五智先輩のチューニングを見守る。
ギチ、ギチ…・・・
ペグ穴に通した弦のすれる音が場の緊張を更に高める。
僕の手のひらは汗でぐっしょりと湿っている。羽交い絞めしている正方寺の服がじんわりと湿るほどに。
ペーん
ぺーん
弦を弾き、その音をチューナーで確かめながら、慎重にペグを巻いていく。
そして――
「よし、終わった」五智先輩は呟いた。
その額には汗が浮かんでいる。
過酷なこの仕事をやりとげた先輩の表情は、疲労を感じさせつつもどこか晴れやかだった。
ハンカチで汗を拭うその横顔には職人の貫禄が見える。
「やった! さすがごっちん!」五智先輩の手からギターを譲り受けると、親指を立てて五智先輩に向ける。
「杉田先輩はポテチを食べた手でギターに触るのがそもそもよくないと思います」僕はあきれたが一応忠告しておく。
「たまには弾いてやらないとねー」何処からかピックを取り出すと、ソファーに座って膝の上にギターを乗せる。
そういえば、杉田先輩がギターを弾くところを見るのは初めてだ。
そんな好奇心が僕と(そして多分正方寺も)の視線を杉田先輩のマーチンに向かわせる。
「んじゃ、弾きますか――」
ジャラン
バ チ ン !
ピックが1弦に触れた瞬間、強烈な断裂音が空気を切り裂いた。
杉田先輩のギターに注目していた僕たち二人は、杉田先輩もろとも稲妻が心臓を突き抜けるような衝撃にさらされ、一瞬思考が停止する。
チューニングが上手くいったとしても、弾く段になって弦が切れるのも良くある事。
やっぱり普段からの手入れが重要なのだと僕は改めて実感した。