あたしの場合
「み、みんな帰っちゃったねー‥‥」
部室で正方寺くんと2人きり。
それを意識すると、ついさっきまでの気の抜けた空気が途端に緊張感を帯びてくる。
普段は努めて明るく振舞ってはいるけれど、こういう肝心な時にかぎって舌がこんにゃくみたいになってしまうのがあたし――清里珠美の情けないトコロだと心底思う。
みんなそれぞれの生活があって、その円のちょうど重なりあう部分が部活なのであり、当然重なり合わない部分での事情なんかも存在する。そういう事情のタイミングによっては、こんなふうに部室に2人で残される可能性だって当然あり得る。今までこうならなかったのは、あたしとひまりの円がけっこう広範囲で重なり合っていたためで、要するにあたしたち2人は基本セットで動いていたからだ。
でも最近、ひまりの円が少し広がったと思う。その広がりは今この部室に居ない部員の1人――平均の円と微妙に重なりそうでいて、まだ重なってはいない。
「あ、お茶飲む?」ファッション誌をテーブルに置いて、あたしはいそいそと立ち上がる「この間、駅前で新しい紅茶を仕入れてきたんだ」
「ああ、ありがと。飲みたい」
正方寺くんは手元の本――最近読み始めた声帯関連の医学書――から目を離し、あたしの目を見て頷く。頷いた時の上目遣いの表情がやっぱりかっこよくて、あたしは恍惚の吐息を漏らしてしまった。
夏の合宿で正方寺くんに悩みを打ち明けて以来、心なしか正方寺くんの反応が優しくなったように感じている。いや優しくなったというか、あたしという存在をしっかり認めてくれているような、そんな感じ。
だからあたしも、自然と素の自分を出して正方寺くんと向き合うようになれた。
そりゃ、あたしの思い違いの可能性もあるけどさ。
「この前、平に呼び出されて、あいつのアパートに行ったんだけどさ」そう言いながら紅茶を一口飲む「あれ、これ、ほんのり甘い」
「アップルティーなんだけど、ハチミツを少し入れてみたよ。ほら喉にいいって聞くし」
「おお、サンキュー」
「それで、平のアパートに行って、どうしたの?」
「ああ、ごめん。えっとな、あいつ頭の中、完全に金谷さんでいっぱいみたいで」困ったように笑う「曲が作れないって嘆いてたよ」
「それは一大事だ」
あたしは口元を押さえて笑う。ざっくばらんな性格を気取っているけど、やっぱり好きな人の前で大口を開けて笑うのは恥ずかしい。
平がひまりの事を好きなのは完全に周知されている。ていうかバレバレすぎて隠せていない。気付いていないのは思いを向けられている本人、ひまりくらいだろう。
「これでもし、金谷さんに告白して振られでもしたら、どれだけ落ち込むかわからんわ」
正方寺くんは笑顔で続けるが、そんな平くんを心配してるって事はすごく伝わってくる。
「あ、あー」あたしは続く言葉を言うか言うまいか躊躇した。
ひまりだって、平の事が好きだと思うよ。それを言って安心させるべきかどうするか迷った挙句、それはいけない、本人同士の問題だからと口を噤んだ。
ただ「そこは、そんなに心配しなくてもいいと思う」と呟いてから「あ、そういえばクッキーもあったんだよね、食べる?」と話を逸らした。
しばらく2人でクッキーを摘まむ。
無言が、なんだか心地よい。
お互いがお互いの存在を認め、許容し、その上で生じる無言であれば、多分おしゃべりしてるのと同じくらい2人の距離を縮めてくれるような気がする。
あたしたち2人はどうなのだろう。
そんな事を考えながら正方寺くんを見る。
正方寺くんはクッキーの感想を促されたと思ったのか「うまいね、これ」と呟く。
「どこで買ってきたの?」
「これも駅前の洋菓子屋だよ」
「へー、今度俺も差し入れで買ってくるよ」
「楽しみにしてるね」あたしはもう一枚クッキーを摘まむ。
あたしたち2人の円は今以上に重なり合うのだろうか。
同じ部活の部員同士、ただそれだけの関係性が、今後変わっていく事はあるのだろうか。
あるかもしれないし、ないかもしれない。
でもそういうのの始まりって得てして、秋の始まりに吹く風みたいに、唐突に頬の体温を奪って、乾いた木の葉を舞い上がらせたときに初めて気付くものだと思う。
「そういやさ、清里さんに頼みがあるんだ」
クッキーを食べ終えた正方寺くんは、あたしの座るテーブルの方に向き直る。
「え、なに?」
その改まった様子に、こちらも自然と背筋が伸びる。
「俺に、ピアノを教えて欲しい」
秋の風が吹いた。
2人の円が、少しだけ触れ合ったような気がした。




