夏合宿(その4)
砂浜は人波の満ち潮を湛えていた。
17時の開演までもうすぐだ。
砂浜に腰を下ろした僕はメガネを外すと、首から提げたタオルで額の汗を拭った。
真夏の太陽は少しだけ首をかしげて、上目遣いに僕たちを睨んでいる。暑さは一向に衰えを見せず、人が集中した事による熱気の相乗効果で海岸一帯は今年の最高気温を記録しているんじゃないかとさえ思う。
隣ではひまりさんが、まだ誰も立っていない特設ステージを見つめていた。
髪を頭の後ろで一つに結わえて夏らしい小麦色の麦藁帽子を被り、チュニックの袖口から覗く白い二の腕を日の光から守るように、大き目のタオルを肩から羽織っている。
手に持つコカコーラの模様の紙コップは汗の雫を光らせている。
太陽へ抗議するメガホンように空へと掲げられたストローの口を、ひまりさんの口が塞いだ。僕はその一連の仕草を、太陽に目を細めるふりをしながら、ぼんやりと見つめていた。
夏の風が潮の匂いを運んでくる。
それにほんの少し、昨日の温泉のシャンプーの匂いと、香水のような甘い匂いが混じり、僕の胸の鼓動は高鳴った。
急に歓声が沸き起こり僕はステージを見る。
ステージ上には一組目のアーティストが立ち、中央のボーカルが大げさに手を振っていた。ドラムがリズムを刻み始め、そこにギターとベースが加わる。イントロから続くギターリフに合わせて、ボーカルがゆっくり歩き始めるようにメロディーを囁く。
その囁きはサビに差し掛かり一気に弾けた。マイクのコード接続部を空に掲げるようにして、体の奥底から声を張り上げるボーカル。その圧倒的な声量を後押しするかのようにエフェクターで歪ませたギターストロークが鳴り響く。
この一曲で僕たちの心は、徐々に、そして急激に現実から引き剥がされた。
現実から乖離し浮遊する僕の心は、音の波にのり空中を漂う綿帽子のようだ。
夕日へと姿を変えていく真夏の太陽に照らされて心地よい音に身をゆだねと、煩雑なしがらみは全て、音楽という強風が路上の塵のように吹き飛ばしてくれる。
皆が立ち上がり、ある曲では手を天に突き出し、ある曲では隣の誰かと肩を寄せ合い、様々な感情によって色づけられた演奏に聴き入っている。
心の色が、内側からではなく外側から、何度も何度も強引に塗り替えられて行くその感覚に、僕は目眩がするような恍惚感を覚えていた。
そして、自分の演奏がこんな風に他人の心を掴む事が出来たら――そう思った。
「アピンチ・オブ・ソルト」の演奏は最後だった。
ステージの上に立つ2人は、先ほど食事を共にした2人とは全く違って見える。音楽を人生の柱として生きている人の持つ、自分の感性に対する強い自信と誇り、それが2人の堂々とした立ち姿から滲み出ていた。
五智さんのアコースティックギターが繊細な音色を奏でる。
文子さんはその音色に寄り添うようにして歌いだす。
2人の音が指を絡め、硬く手を握り合わせている。
僕は温かい手のひらで頭を撫でられているような、そんな錯覚を覚えた。
心地よい、慈愛に満ちた歌声だった。
この心地よさがいつまでも続いて欲しいと、そう思った。
終わらないで欲しいと、そう思った。
でも、全てはいつか終わってしまう。
突然僕の心に霞が掛かった。
どんなものにも終わりが来る。それはこの心地よい音楽も、楽しい合宿も、弾き語り部門も――全てにはいずれ終わりが来てしまう。
昼間思ったその事実が再び頭を過ぎり、僕は一瞬で現実に引き戻された。
僕はもっと聴いていたい。
弾き語り部門のみんなで奏でる音楽を、いつまでも聴いていたい。
それが無理だとは分かっている。
でも、でも僕は――
しかし無慈悲にも、終わりの拍手は盛大に鳴り響いた。
ステージではアピンチ・オブ・ソルトの2人がお辞儀をしている。
演奏を聞き終えた人々は、踵を返しぽつぽつとステージから離れていく。
さっきまで感じていた一体感は風に煽られた雲のように薄れ、人々の声と砂浜を踏みしめる音が不協和音を響かせている。
やっぱり終わってしまうんだ。
僕は寂寥感に身をゆだね、ただ立ち尽くすことしか出来なかった。人がどんどん引けていく中、僕はその流れに逆らう小石のように突っ立っていた。
「平くん」
その時、ひまりさんの声が聞こえた。
「また、来年も来ようよ」
そして左手に温かいものを感じた。
少し汗ばんだ温かい右手が、僕の左手の指先を握っている。
誰にも気付かれないように小さな仕草で、しかし力強く握っている。
僕はひまりさんの方を見る。握られた手はその瞬間離された。そこには薄明かりの中はにかんだ笑顔を見せるいつものひまりさんがいた。
ひまりさんが目を閉じる。
「波の音がきれいだよ」
彼女をまねて僕も目をつぶった。
人々の喧騒の背後に、確かに波の音が聞こえている。
いつまでも鳴り止む事のない、自然の音楽。
「誰かの奏でる音楽が終わっても、波の音はずっと鳴り続けているんだね」
彼女は僕の心が読めるのだろうか。
驚愕と同時に、なんだか自分の考えが馬鹿らしくなった。
一つの音が止んだとしても、それで終わりではないはずだ。その背後で鳴り響いている別の音楽に気付くことが出来るのだから。
僕たち弾き語り部門はいずれ終わってしまうだろう。
でも、それによって新たな何かが見えてくる。
そんな簡単な事に思い至らなかった自分がなんだか恥ずかしくなり、僕はただ無言でひまりさんの言葉に深く頷いた。
「おーい、邪魔するようでなんだけど、そろそろ帰るぞー」少し離れたところから杉田先輩の声が聞こえ、僕たち2人は砂に足をとられながら4人の元へと走った。




