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夏合宿(その2)

「ひまりがピアノを辞めたのは、あたしのせいかもしれないんだ」

 

 潮と青草の匂いを含んだ夜風を浴びて、浴衣の清里さんは突然現れては通り過ぎて行く人魂のような車のヘッドライトをぼんやり眺めながら、言った。


 * * * *


 近所の売店で地酒を買って帰ると、夕食まで微妙に時間が余ってしまった。


「飯の前に温泉入ってこようぜ」杉田の先輩の提案に俺――正方寺陽介は頷いた。五智先輩や平も引き連れて温泉に向かう。女子2人もこのタイミングで入るらしく、俺たち6人は風呂場の前で二手に分かれた。


 温泉はいい湯加減だった。露天風呂からは日本海が一望でき、沖の方に見える漁船やタンカーをぼんやりと眺めながら、日ごろの疲れをお湯の中へと溶き出した。平がさっさと音をあげて退散し、俺と過ぎた先輩もその数分後に風呂から出る。五智先輩はなんかの修行でもしているのか、湯船に浸かったまま微動だにしない。


 風呂上りのビールを飲んでいると浴衣を着た女子2人が部屋にやってくる。


『女ってさ、浴衣の下に何も着ないらしいぞ』杉田先輩が風呂場で言っていた与太話を信じているのか、平は真っ赤な顔をしながら伏し目がちに金谷さんの顔と胸元をチラチラと見ていた。こういう事に関してはほんとに素直で分かりやすいやつなだ、と俺は笑いを堪えるのに必死だった。


 夕食は宴会場だった。俺たち以外にも十数組の宿泊客が集まっている。お膳には地元日本海の海の幸をふんだんに使用しているであろう数々の海鮮料理が並ぶ。杉田先輩の『えー、とりあえず腹減ったんで食いましょう、乾杯』という音頭も適当に聞き流し、俺たちは豪勢な食事に舌鼓を打った。

 平はまだ杉田先輩の嘘を信じているのか、遠くの料理に箸を伸ばす金谷さんの胸元に視線を送り、ぶんぶんと首を振って目を逸らしている。『いやいや!そんないやらしい目でみちゃだめだあああ!』という心の声が聞こえるようだ。見ていて笑えて来る。


「そういやひまちゃんさ」ある程度酒が入ったところで杉田先輩が金谷さんに尋ねる「なんでピアノ辞めちゃったんだ? 上手いのにもったいない」


「べつに辞めたわけじゃないですよ、少しお休みしてるだけです」


「ふーん、音楽性の変化とか」


「まあ、そういう感じですかね」あはは、と金谷さんは笑い、杉田先輩は「なるほど」と頷くだけでそれ以上この話題を広げようとはしなかった。


 杉田先輩がちらりと清里さんを見る。

 

 それに釣られて俺も目線を向けると、彼女はビールのグラスを握りながら俯いていた。

 

 しかし直ぐに顔を上げ「ところで聞いてくださいよ! さっき海で平が水着の女子高生に鼻の下を伸ばしてたんですよー」


「伸ばしてないよ!」


 雨雲を突風で吹き消し強引に笑顔を見せる。しかし俺は清里さんが見せた一瞬の曇り空に、なんとなく引っ掛かるものを感じていた。


「正方寺くん、ちょっといいかな」 


 夕食後、清里さんが俺を誘った。ぶっちゃけ普段の言動から考えると『二人っきりでいちゃいちゃたい』って目的なんだろうし、いつも通り『じゃあ平や金谷さんもいこうぜ』って事になるはずだった。

 

 しかしさっきの清里さんの表情が俺の中でしこりとなり、普段の受け流しの言葉が上手く出てこなかった。いつもとどこか違う雰囲気を清里さんに感じていた。


「ひまりがピアノを辞めたのは、あたしのせいかもしれないんだ」

 

 夜21時の県道は車通りが少なく、数分感覚で辺りを照らすヘッドライトが過ぎ去ればあとはぼんやりとした外灯の明かりのみになる。


 旅館の側に据えられたベンチに腰掛けて、俺は彼女の横顔を見た。日の光の下では派手な茶色い髪も、月の光の下では暗闇に溶ける黒に見える。その雰囲気の違いに混乱し、俺はかける言葉を選び出せずにいた。


「急にこんなこと言ってごめん。ただ、正方寺くんに聞いて欲しかっただけだから」


 俺の沈黙を拒否の意ととらえたのか、そそくさと立ち上がろうとする清里さん。


「いや、ちがうんだ。ちょっとびっくりしただけで」立ち去ろうとする清里さんを引き止める。

 髪の色とか、そういう容姿だけではなく、今の彼女は普段の彼女とどこか違っていた。いや、これが本当の彼女なのかもしれない。笑顔で横暴な仮面の裏に潜んでいた本当の清里珠美。


「清里さんのせいでやめたって、どういうことなんだ?」


 清里さんはぽつぽつと語りだした。

 普段と違う彼女の顔を覗き見ることにほんの少し罪悪感を覚えてを、俺は遠くに見える外灯に視線を向けた。

 

 明かりに誘われた大きな蛾がくるくると回っている。

 

 清里さんは金谷さんに憧れてピアノを始めた。しかしすぐにピアノ自体の楽しさにのめりこんでいった。一生懸命努力して、その結果自分の想い描いた音楽を奏でられた時の喜び――それがピアノを弾く動機であり、やりがいだった。

 

 成長するにつれ課題となる曲は難しくなっていった。必要とされる技術も増えていった。しかしそれでも清里さんは必死で練習し、それを乗り越えてきた。


 清里さんと金谷さんは2人で競い合いながらピアノを習得していった。


 しかし高校にあがる頃、清里さんは気づいてしまった。

 

 自分が必死に努力して習得している技術を、金谷さんは大した苦労もせずに習得しているということ。それ以上の難解な曲に取り組み、自分の遥か先を歩いているということ。


 才能という言葉は努力しないものの逃げになるかもしれない。

 でも清里さんは感じずにはいられたかった。


 圧倒的な才能の差。

 

 努力で乗り越えた先には、常に決して超える事の出来ない壁がある。ピアノを弾く喜びは、苦しみに変わりつつあった。

 その頃2人の間ではピアノの連弾がテーマとなっていた。同じくらいの年頃からピアノを弾き始めた仲良しの二人組みに対し、ピアノ教室の先生が良かれと思い薦めたテーマだった。

 金谷さんは当然喜んだ。清里さんと2人で音楽を奏でられる事を心底楽しんでいるようだった。しかし清里さんにとってそれは喜びだけではない。

 才能の差が歴然な金谷さんについていくために、清里さんは必死で努力した。しかし演奏でミスをするのはいつも清里さんだった。金谷さんは「気にしないで」といつも通り笑う。しかし清里さんは自分の限界を感じていた。


 高校三年の頃、大学受験を理由に清里さんはピアノ教室を辞めた。


 日常生活で仲良しである事に変わりはない。二人はお互いを親友だと思っている。ただ唯一、ピアノという共通項だけが二人の間から欠損した。


『また2人で、演奏したいね』ある日、金谷さんがそう言ったことがある。


『むりむり、あたしはもうひまりにはついていけない。あたしは才能ないから』


 努めて笑顔で言ったつもりだった。卑屈さを感じさせない口調のつもりだった。

 

 しかし金谷さんはその一言で悟ったようだった。それ以降、金谷さんからピアノの連弾の誘いはない。


「あたし大学に入ったら変わろうと思ったんだ。だから髪も染めて、ちょっと派手目なファッションにして、でも中身はちっとも変わっていない。卑屈なままだ」


 そんな時だった。

 

 金谷さんの祖父が亡くなり、金谷さんは形見のギターを貰い受けた。

 そして金谷さんは言い放つ。


『私、ピアノをやめてギターを弾く』

 

 後から知った事だが、クラシック一筋だった金谷さんはその頃から『ピアノ』と『ギター』で演奏するアーティストを色々と調べていたらしい。そしてたどり着いたのが今流行のデュオ『にゃこ禅』だった。

 

 また2人で演奏したい、それが金谷さんの望み。

 自分のピアノが親友の負担になっているのなら、そんなものは捨ててしまおう。

 

 ただ自分は、また親友と一緒に音楽を奏でたいだけだ。


「ひまりはそういうところがあるんだよね。自己犠牲というかなんというか。でもその反面わかってないんだよ。そんな事で今まで頑張っていたピアノ辞められたら、あたしがどんな気持ちになるか。弾きたくもないギターであたしに合わせてくれているあの子を見てると、あたしは自分が情けなくて――」

 

 ピアノを辞めたのは自分のせいかもしれない、その言葉はそういう意味だったのかと俺は納得する。しかし、何か引っ掛かる。

 多分、清里さんだって金谷さんのことをわかっていない。


 「弾きたくもないギター? 俺にはそうは見えないけど」

 清里さんは俯いていた顔を上げた。子供のような黒い髪が頬を流れる。

「平が言ってたよ。『ギターを弾いてる金谷さんは本当に楽しそうだ。特に清里さんと合わせてるときなんか、幸せそうでこっちも幸せになる』って」


「でも」


「いや、清里さんも知ってるっしょ。最近の平がどんだけ金谷さんばかり見てるか」


「そりゃまぁ、あんだけ露骨だったら誰だって分かるよ。分かってないのはひまりと本人くらいだよ」


「だろ? そんだけ金谷さんオタクの平がそう言ってるんだから、金谷さんが楽しんでギターを弾いてるのは間違いないんだよ」


「そうなのかな」


「それよりも大事なのは清里さんの気持ちだろ。清里さんは金谷さんとあわせてどうなの? つまらないの? 俺は平と演奏してて楽しいよ。すっげー楽しい」


清里さんは少し考え「あたしも、楽しい、かも」


「ならそれでいいじゃん。清里さんが落ち込んだり、勝手に推測してうだうだ悩む必要なし。今現在2人は楽しい、それで終了」


「そう、なのかな」


 清里さんはイマイチ釈然としない様子だったが、さっきまでの暗い表情はどこかえ消えていた。


 顔を上げると星が見えた。


 どこか落ち着く光だ。


 海や星を前にすると、自分の悩みのちっぽけさを感じさせられるとよく言う。確かにこの夏の星空は、隣に座る女子の悩みを小さな星屑の一つに変えてしまいそうな気がする。 

隣を見ると、清里さんもまた夜空を眺めていた。


 彼女の目に星が映っている。


「正方寺くん」しばらくして、夜空から奪った二つの星をこちらに向けた彼女は、照れくさそうに言った。


「ありがとう」


 部屋に戻ると杉田先輩が近づいてきて耳打ちする「何してきた? もしやアオ――」


「違いますよ」俺はかぶりを振る「ちょっと相談にのってて」


「相談にのって、そのままのってしまったと」ニヤニヤ笑いながら杉田先輩がからかう。


「え、うそ、正方寺、そうなの?」動揺を隠せない平。


「先を越されてしまったね、平ちゃん」


「そんな、まさか、うそ、そんな」ガクガク震える平。


「だから違うって言ってるじゃないっすか」俺は飽きれて溜息を吐き「でもまぁ、意外な一面が見れたっていうか、今まで言い寄ってきた女子とはなんか違うのかなっていうか――」そう呟いて自分の心境の変化に驚いた。


 俺は女子が苦手だ。

 俺の容姿だけにとらわれて、容姿だけを着飾って近づいてくる女子が苦手だ。


 でもさっきの清里さんは、そんなやつらとは違い自分の内面を見せてくれた。

 

 他の女子とは違うのかな――そんなふうに考えるようになっていた。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 青春だねぇ。。。(^^) [気になる点] 贅沢な悩み持ってるやつだな。正方寺。(^^;) [一言] 天から与えられたものは大事にしろよ〜!!
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