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居酒屋、22時

 滴る蜜のようにしっとりと振り続ける雨が、ほんの少しだけ夏の匂いを含み始めた6月の終わり。僕たち弾き語り部門の6人は駅前の居酒屋の一室でテーブルを囲み、新入部員歓迎会という名の飲み会を繰り広げていた。


 僕は4杯目の生中を胃に流し込み、化学調味料の効いた浅漬けのキュウリを齧った。隣の席では正方寺がカルアミルクを舐め、その更に隣では五智先輩が日本酒のお猪口を傾けている。五智先輩と向かい合って座る杉田先輩は、五智先輩の徳利を掴むとさっきまでワインが入っていたグラスに注ぎ始めた。その隣では清里珠美さんが正面に座る正方寺の顔をうっとりした様子で眺め、僕の正面では金谷ひまりさんがニコニコ笑っている。


 時刻は22時。


 皆の顔がアルコールで程よく火照っている。


「てゆうか、杉田先輩ってあんなにポテチ食べてんのに、なんで全然太ってないんですか? あたしそれが納得いかないんですけど」珠美さんが問う。


「代謝がいいからじゃねーの?」フライドポテトを齧りながら杉田先輩は応える「ダイジョウブダヨ、タマチャンハ、ヤセテルカラ、ダイジョウブダヨ」


「何それひでー! 心こもってないし! 五智先輩、何とか言ってやってくださいよ!」


「基礎代謝を上げるためには、まず運動をして筋力をつけることから――」


「真面目か!」


 そんなやりとりを嬉しそうに眺めるひまりさん。そんなひまりさんを何とも形容しがたい複雑な感情で見つめる僕。財布の中には、この前ひまりさんもらったピックがしまわれている。


 ひまりさんの髪が揺れる。


 僕の心も揺さぶられる。


 この針の先端に両手を広げて立っているみたいな、足元の覚束ない不安定な感情が気持ち悪くて、新たなジョッキを半分ほど一気に飲み干した。


「おい平、ペース早すぎじゃねえか?」正方寺が言う。


「そんなことない、ぜんぜん、そんなことない」割り箸の先でキュウリを突付く。掴もうとして、上手く掴めない。割り箸の先がそろっていない。なんだこれ、おかしいぞ。


「平君、大丈夫?」かわいらしい声が僕の名をささやき、割り箸の先で踊るキュウリが宙に浮かんで僕の取り皿の上に着地する「はい、どうぞ」


 気付けば、ひまりさんが前かがみになっていた。

 ゆったりとした服の胸元が口を開けている。

 何かが見えそうで、見えない。

 ああ、何をしているんだ僕は!

 

 頭の中が真っ赤に染まって行く――


「ていうか、あたし太ってないですし。これは胸ですから。ただの巨乳ですから」


「ちょっと珠美ちゃん、それ脱ぐのはさすがにだめだよ!」


「いいぞー、もっとやれー!」


「やめなって清里さん、杉田先輩も煽りすぎっすよ」


「ごめんね正方寺くん、これは正方寺くんのものだもんね」


「いや、違うから!」


「あ、お前たち2人、もうそんな関係だったのか……?」


「いや五智先輩、真面目か!」


「あたしは、いつでもいいよ」


「やめなよー珠美ちゃん」


「そういうひまちゃんは、好きなやついんの?」


「え、あ、私は、いないですよ」


「つまらん青春だねぇ。それはいかんよ」


「いいんです、そういうのは焦らなくても自然に任せるもの

じゃないですか?」


「うむ」


「なに頷いてんだよごっちん」


「杉田先輩と五智先輩は、彼女いないんですか?」


「うるせーよ、いねーよ」


「いない」


「けけけ、先輩も寂しい青春っすねー」


「なんだとタマ。俺にとってはな、お前たち部員一同が恋人

みたいなものなのさ」


「うげげ」


「なんだよその反応! ほーじくんも、何その表情」


「杉田先輩、さすがにそれはキモイっす」


「ええー!」


「うむ」


「なにさっきから頷いてんだよごっちん」


「いや、杉田の言う事も一理あると思ってな。今の俺達には、この部が恋人なのかもしれない。他に何も考えられないくらい、一途に思う相手だ」


「いきなり語るねぇ」


「最初は俺たち2人だった。そこに平が入り――平が正方寺と、金谷や清里を連れてきた。不思議な連鎖だな」


「まぁ、平ちゃんは、どこか人を引きつけるもんがあるのかもしないな」


「ていうか、さっきから平くんしゃべってなくない?」


「おい平、どうした?」


「――寝ちゃってるみたいですね」


「結構飲んでたからね」


「しゃーない、そろそろお開きにすっか」


「おーい平、起きろー」


「――起きねーな。平ちゃんにタクシーでも呼ぶか?」


「あ、私付き添います。平君のアパート、通り道なので」


「すまんね」


「それじゃ、お疲れっす。金谷さん、平よろしくね」


「ひまり、襲われないようにね!」


「あはは、それはないって」


「タクシー代はあとで部費から出すから、領収書もらっとけ」


「そんな予算ありましたっけ」


「この前、手に入れた」


「それって、また卓球部副部長を脅すネタっすか……?」


「ふふふ」


「ぎちそうさんでーす」


「――ふう」


「平君、起きてる?」


「寝てるよね」


「みんなも言ってたけど、今この部活があるの、平君のおかげだよ」


「私、色々あって、ピアノやめようと思ってたんだ。そんな時におじいちゃんが死んじゃって、つらくて――音楽自体が嫌になりそうだった。でも、平君がギターを直してくれて、素敵なおじいちゃんの音を聴かせてくれて、だから私、また音楽やりたいって思えたの。今度はギターで、素敵な演奏ができるようになりたいって、そう思えたの」


「平くんは、私の恩人なの」


「私、なんだか恥ずかしい事いってるね」


「起きてないよね? 寝てるよね?」


「あ、タクシー来たみたい。起きてー!」


 体が揺さぶられる。

 甘い匂いがする。リンゴみたいな、甘く優しい匂いが。

長い髪が揺れるたび、甘い匂いがする。


 気付けば僕はタクシーの後部座席に座っていた。頭ががんがんするが、吐き気は何とかやり過ごせそうだ。

 隣には心配そうな顔のひまりさんが座っていた。

 唐突なそのシチュエーションに僕は戸惑う。


「あ、目が覚めた? よかった」


「僕は何を――」


「今タクシーで平くんのアパートに向かってるとこだよ。私は付き添い」


「え、あ、そうなの? ありがとう」


「ううん」

そう言って首を振る彼女のはにかんだ表情が、窓から差し込む常夜灯に照らされた。その顔には雲の切れ間から覗く月のような温かさと美しさが同居していた。


「あの――」僕が次の言葉を指先で摘み、彼女の小さな手のひらへ投げ込もうとしたその瞬間、タクシーは僕のアパートの前で停車した。


「おやすみなさい」彼女が笑う。


「おやすみ、なさい」摘んでいた言葉を握りしめて隠し、僕も笑った。

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