名もなき恋
待つということに慣れてしまったのはいつからだっただろうか。
流れてゆく時間に抗うこともできぬまま、私はただ待っている。
ずっと一人の人間を待ち続けている。
色褪せてゆく記憶をとどめておくことは困難で、顔すらももう思い出すことは難しい。
それでもきっと心は通じ合っているからと、今にも千切れてしまいそうな希望の糸に縋りついている私は哀れな存在なのだろうか。
しかし、それでもかまわない。あの人に再び出会えるのなら。
*
ドアが開く音で意識が浮上する。
心地の良い気温の中、肌触りのよいシーツに包まれ過ごす時間は私にとって毎日のことながらも至福のひと時である。
その為なのか、またはただ単に私の寝起きが悪いからなのか、私はいつも二度目の眠りに誘われてしまう。
これが淑女のマナーに反しているということは十分承知している。
しかし、至福の時間を手放したくないという気持ちが私をこの場につなぎとめてしまうのだ。
要するに、思考が私を誘惑するのである。
誘惑とは、誘い惑わすが故に誘惑なのである。よって、誘われ惑わされる相手が居なければ成立しないわけで。
だから、私のこの状況は誘惑という言葉を成立させるためにも必要不可欠なのだ。
そんなくだらない考えを巡らしていると急にシーツがはぎとられ、真っ白だった世界が色づいた。
「さあ、起きて」
私の至福の時間を邪魔するものだとは思えないほどの優しい声で言葉をかけられる。
「いやよ。あともう少し。」
優しい彼に甘えて少し駄々をこねる。その言葉に彼は微笑みを返し、抵抗を許さぬ力で、でもとびきり優しく両手で私を抱え上げ、私専用の椅子に座らせる。
そして、私に色を付けていくのだ。これが毎日の日課である。
「今日はどんな色がメインなの?」
「うーん、赤色かな?」
そういいながら私の体に色を乗せていく。
「かな?って。・・・しっかりしてよ。」
そんなやり取りをしつつも、彼のセンスを私が疑うことは一切ない。
ただの色の組み合わせだけでなく、素材から、光に当たった時の色の変化なども気にして見立てていく。その様子の彼はとても真剣で、今彼の時間は私のものなのだと感じられる。
そんな時間は早く終わるときもあれば、一日夜通し行われることもしばしばだ。
だが、流石に一日がかりの時は堪えた。シーツにくるまって眠るという時間が一向にやってこないことに加え、ずっと色を重ねられると肌が限界になるのだ。
けれど、真剣な彼を見ていると声を掛けられず最終的に彼が満足するまで付き合ってしまう。
すると、彼が色を机に置いた。
「これでよし。」
「もう終わり?」
いつもよりも早い終わりを告げられ驚きと寂しさが混じりあう。
「今日は少し外を見てくるよ。それで、色が売ってないか見てくる。黄色が少し足りない気がするからね。」
「そうなの。・・・気を付けてね。」
そうやって笑顔で送りだせば、彼も微笑みを返してくれる。
そして彼は私に直接陽が当たらぬようカーテンを閉め部屋を出ていった。
*
意識が浮上する。
心地の良い気温の中、肌触りのよいシーツに包まれ過ごす時間は私にとって毎日のことであり、それに対して思う所はなにもない。
二度寝してしまおうと考え、私は再び目を閉じる。
彼はあの日出かけて以来、あの日課をやめてしまった。はじめはとても心配で、彼を訪ねに行こうかとも考えた。
だが、そこでふと気づく。どのように訪ねに行けばよいのだろうか。
歩けばよい。歩けばよいのだ。
しかし、私は歩くことを忘れたかのように、その場から動くことが出来なかった。
自分でもなぜなのかわからない。もしかしたら、真実を知ってしまうことが怖かったのかもしれない。または、行動を起こすことによって彼に嫌われてしまうかもしれないという可能性をぬぐい切れなかったからかもしれない。
毎日を共にしていたにも関わらずそんなことを疑ってしまう関係性は何なのだろうと自己嫌悪に陥る。
それでも私は動くことが出来ず、半年の月日が流れていった。
勿論彼はその間一度も私の前に姿を現すことはなかった。
*
外が騒がしい。人々の悲鳴と破裂音が共鳴して私の耳を貫いた。いったい何が起こっているのだろう。外を覗いてみようにもあの時と同様、私の体が動くことはなかった。
すると、扉が勢いよく開く音がした。入ってきた足音は早く、何かをあさっているような物音に身を縮こませる。シーツを被っていたままだったため相手は私の存在にまだ気づいてはいないようだった。
私と彼との思い出が詰まったこの部屋を荒らされていると認識しながらも抵抗できないもどかしさと不甲斐なさが私を支配する。
早くいなくなって。お願い。早く出て行って。
心の声が聞こえたのだろうか、ピタリと音が止んだ。
よかった。終わった。
きっと彼はこの部屋の惨状を見たら悲しむだろうが、すぐに元通りに直してくれる。そして怖い思いをさせた償いとして、また前みたいに私に色を付けてとお願いするのだ。そうしよう。そうすればすべてが元通りだ。
そう思った瞬間、私のシーツが剥ぎ取られた。真っ白だった世界に色がつく。
そして目の前に現れたのは、まぎれもなく私が求めてやまない彼だった。
「助けに来てくれたの?」
彼の瞳が私をとらえる。
「久しぶりね。とても心配していたのよ。あなた、あの日以来全く来てくれないから。でも今こうして来てくれた。とても怖かったの。部屋が誰かに荒らされて、あなたとの思い出が奪われてしまうんじゃないかって、怖かった。
あなたは?大丈夫だった?襲われなかった?部屋を荒らしていった人が出ていったような足音は聞こえなかったのだけれど、どこかに隠れていたりしないかしら?」
そう言って彼に注意を促すも、彼の瞳は私をとらえたままだった。
「ねえ、どうしたの?まだ危険かもしれないわ。注意して。」
しかし、やはり彼は動かない。
「ねえ、どうしちゃったの?」
おかしい。いつもの彼なら私を安心させる言葉の一つや二つかけてくれるはずなのに。いや、そんなことを考えている暇はない。まだ、部屋を荒らした張本人がいるかもしれないのだ。
そこでふと考えてしまった。なぜその思考にたどり着いてしまったのかは分からない。でも、なぜだかその答えはピタリと私の中にはまってしまった。
「ねえ、もしかしてあなたが?」
部屋の外から彼を呼ぶ声が聞こえる。
早くしろと、そうでなければ殺されてしまうと。
「とりあえず、ここから逃げましょう。」
問い詰めるのは後でいい。きっと何か理由があったにちがいないから。
今は逃げることを最優先にしなければ。
しかし、彼は一向に動こうとしない。
すると外からひと際大きい銃声が聞こえ、やっと彼の足が扉の方へ向けて動いた。私を置いて。
「まって、私も連れてって!」
その声が聞こえたのか、彼は一度扉の前で立ち止まり私の方を振り向いた。
「ごめんね。」
それが私が見た彼の最後の姿だった。
その後、誰かが来て私をここへ連れ去ったのは覚えている。
しかし、それ以外の事は覚えていない。彼が私を置いて行ってしまったことからのショックなのか、なんなのか。原因すらもわからないけれど、私は彼を恨むことが出来ずにいる。それどころか、彼ともう一度会いたいとすら思っている。
彼ともう一度会ったら、わざと何でもないようなふりをして、彼の罪悪感を増長させてやるのだ。
そして、その罪悪感を利用して彼を私につなぎとめるのだ。
そんなことを考えて何年たっただろうか。
もう、彼の顔を思い出すことも難しい。
けれども、彼をずっと私は思い続けている。
額縁に拘束され、ガラス張りで遮断された世界の中で。