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化粧室を出たところで、直子は男性にぶつかり、後ろ向きに倒れた。
「あっ、すみません。大丈夫ですか?」
強かにお尻を打った直子は、とても大丈夫と返事が出来る状態ではなかった。ついぶつかった相手を恨みがましい目付きで見上げてしまう。
「ごめんなさい。立ち上がれますか…?」
ぶつかった男性は、彼女に手を差し延べた。直子は、何も言わずにその手に掴まって立ち上がる。
『背が高いな…』
チラリと見ると、心配そうな表情が人なつっこかった。顔が赤くなりそうだったので、慌てて手を振り払ってしまう。
そこで、直子は気付いた。彼のスーツの胸元が、ベットリと赤く染まっているのを!どうやら、ぶつかった弾みについてしまったらしい。
「あっ、それー」
「あっ、僕が余所見していたから、仕方ないですよ」
直子は、持っていたハンカチで、その染みを拭った。
ハンカチも赤く染まったが、スーツの方は変わらない。
「ごめんなさい」
悪いと思いつつ、お尻も痛い。いつもの直子だったら、もっと、あたふたと慌てるだろうが。
「いや、いいです。もう僕、これで帰りますから。車だから、気にしないでください」
彼は、上着を脱いで手にかけた。
「でも、クリーニング代ぐらい…」
「本当にいいから」
「ダメよ、そんなの」
化粧室の前で、軽く押し問答をし、バッグの中から財布を出そうとする直子の手を押さえて、彼は言った。
「じゃぁ、あとで請求するから、電話番号教えてくれるかな?」
「いいわよ」
筆記用具とメモを探したが、バッグの中には見当たらない。
ハッと思い付いた直子は、さっき亜希子から貰ったルージュを取り出し、赤く染まったハンカチに、名前と電話番号を書いた。
「はい。ハンカチは、返さなくてもいいわ」
彼にそれを手渡すと、直子はくるりと踵を返して、胸を張ってスタスタと歩いた。
お尻が痛いのを、人に気付かれたくなかったのだ。