第33話「ありがとう」
花音の要望も聞きつつ二人は街中を適当にぶらついていた。
見るもの全てが珍しくて堪らないのか、それこそ花音はその辺の看板や公衆電話ボックスに張られたいかがわしいポスター。電柱に野良犬など視界に入るもの全てに興味を示していた。
ガイドのように鏡夜は花音が興味を示したものを説明していく。
駅前の本屋に立ち寄った時には花音が読書家だったことを知り、次に洋服屋に入った時は周りが女子高生や中学生だったので鏡夜は居心地が悪かった。
ある店の前を歩いた時、ショーウインドーに展示されていた指輪を花音が見つけ、立ち止まって見ていた。
「欲しいの?」
「いえ。綺麗だったので見ていただけです」
とは言うものの表情までは隠し切れていなく、鏡夜は小さく笑うと花音を引っ張るように店内に連れ込む。
どう考えても中学生に払える金額では無かったが鏡夜は店員と二、三言葉を交わし、カードで支払った。
ペアの片方を花音に渡し、自分の分は特別にチェーンを付けて貰いネックレスにした。
「あ、ありがとうございます」
店から出ると頬を朱くしながら控え目に花音がお礼を言う。
左手の指には綺麗な指輪が輝いていた。
鏡夜はこの店は知り合いが経営している場所だと話す。
実際は知り合いどはなく鏡夜の父親なのだが。それは言わなかった。
「そろそろ帰ろうか? 遅いとみんな心配するだろうし」
頃合いを見計らって切り出した鏡夜に花音は最後に行きたい場所があると答えた。
それは前に鏡夜と田中が話した二人だけの秘密の場所。
位置関係から鏡夜は微妙な顔をしたが、今日だけは花音のわがままを最後まで聞こうと思い直し連れて行くことにした。
表通りの店で懐中電灯を購入し、二人はしっかりと手を繋ぎ次第と人通りの少ない道へ入って行き、全く人が来ない山道に入る。
今まで運動などしたことのない花音に山道は辛く、鏡夜が肩を貸しながら歩いた。
「重くないですか?」
心配そうに花音は数分おきに聞くが鏡夜は大丈夫と答える。
実際、身体の密着率から鏡夜は頭がどうかなってしまいそうな程、緊張していたので疲労など感じなかった。
目的の場所に二人は辿り着いた時、眼下に広がる街を目にした時、花音は歓喜の声を上げる。
「こんなに広い……こんなにもセカイは広かったんだ。それにこんなにも綺麗で……」
「っはは。世界はもっともっと広いよ。綺麗な場所も沢山あるよ」
二人が口にしたせかいには異なる意味が含まれたものだったが鏡夜と花音がそれに気付くことはない。
「わたし……知らなかった。もっと……狭いものだと思ってた。わたしはずっと狭い場所に……しかいなかったから」
「花音?」
隣にいる花音の変調に鏡夜はすぐに気付いた。
息は荒く言葉も絶え絶えだ。
明らかに苦しそうにしている花音は糸が切れたようにその場に崩れる。
「花音っ!?」
地面にぶつかる寸前で鏡夜は花音の上半身だけを受け止め支える。
「すぐ病院に……」
花音を抱えて立ち上がろうとした鏡夜を手で制した。
「いい……の。どのみちわたしはもう……だから……だから。この場所で死なせて。ここからなら綺麗な街を。みんなを何時までも見守っていけるから」
今にも消えてしまいそうなか細い声で花音は悲痛な言葉を呟いた。
「馬鹿なことを言うなよっ! 二人で帰るって約束しただろ!? 約束は……どんな、事があっても守らなきゃいけないんだろ?」
「謝ら、ないと……いけないですね」
苦しみの中で花音は笑っていた。
「わたし、今まで生まれたことを後悔してた。家から一歩も出れず、辛くて苦しい毎日。いつ生きることが終わるとも解らない不安の毎日」
止んでいた雪はまた空から降り始めていた。
「でも、キョーヤ君達と会ってから初めて生まれて良かったと思えた。今までありがとう」
「な……んだよ、それ。今までって何だよ!?」
「わたし、知っていた。お医者様が長くは生きられないって言ってるのを。だから最後の日くらい外に出たかった。一度も外を見れないまま死ぬのは嫌だった」
今にも死にそうな人が水を欲しがっても決して水を与えてはいけない。その人は水が飲みたい一心で生きながらえているのだ。それを叶えてしまったら。
きっと花音にとっての水は『外に出る』ことだったのだろう。
鏡夜は何も言わずに花音を背負うと走り出そうとするが花音が鏡夜を止めた。
「いい……の。もうわたしは疲れた……だから休ませて。最後にもう一度、街を……」
一度は降りようと街に背を向けた鏡夜はゆっくりと振り返り、背負っている花音にも見える場所まで移動する。
「あり、がとう。わたしに生きるって喜びを教えてくれた……わたしに人を好きになる気持ちを教えてくれたキョーヤ君。ずっと……ずっと、好き、だった、よ」
「ぼく……も」
上手く言えない。涙で視界が歪み、口が動かない。
それでも鏡夜は必死に声を出す。
「僕も花音を初めて見た時からずっと……もちろん今も。好きだよ」
「うん……」
太陽を遮る白く厚い雲と空から舞い降りる結晶を鏡夜は見据え、腹から心の底から叫ぶ。
「僕は花音のことが大好きだ!!」
「ふふっ。やっぱりキョーヤ君が『僕』は似合わないよ……」
泣きながら小さく鏡夜は笑い花音もまた笑う。
「わたしは十三年しか生きられなかったけど、キョーヤ君はわたしの分まで生きてね。わたしの分まで広くて綺麗な世界を一杯見て来て……」
「かのん……?」
「約束だよ。……ごめんね。折角、指輪を買ってもらった……の、に…………」
その瞬間、背負っている花音の何かが変わったことを鏡夜は悟った。
上手く言葉に表せないが確かに鏡夜は知った。
死を迎えた瞬間を。
「か……のん?」
返事は無かった。
どれだけ呼び掛けても名前を叫んでも。もう二度と返事は帰って来ない。もう二度と。
初めて出会った日の事を想う。
緊張して緊張して、逃げるように去った。
まりなとお守りを買った日の事を想う。
田中の提案から花音の家を毎日、訪れるようになった。
一緒に過ごした夏の日の事を冬の日の事を春の日の事を想う。
全ては過去に、二度と訪れない日の事を想う。
「うああああああああ!!」
少年の悲痛な叫びと共に雪は舞い降りていた。
全てを白く塗り潰すように。
「俺が……僕が隠していたこと、そして僕の最大の苦悩。花音が最後に生きろと言ったけど。それは花音を殺した僕にとっての贖罪だと信じて生きて来た」
話を終えた時には太陽は沈み窓の外は、当然のように暗闇に包まれていた。
「まぁ、本当に大変だったのはその後なんだけど……なんで泣いてるんだよ桜香は」
目を細めながら鏡夜が尋ねるが桜香は何も答えない。答えられない。
「もう終わった話だ。何年も前にね」
「……鏡夜君」
今まで一言も口を利かなかった夏雪が鏡夜を呼んだ。
呼ばれた鏡夜も自分が呼ばれたと気付くのにワンテンポ遅れる。
「っと。なに?」
「話の最後の場所だけど……ヘリコプターで近寄れる?」
「はい?」
泣きじゃくる桜香に訳の解らないことを聞いてくる夏雪。
どうこの場をまとめたらいいものか。
鏡夜は笑顔のままだったし内心、嬉しくもあった。
この話をして態度が変わらないのは夏雪が初めてだし泣いてくれたのは桜香が初めてだ。
生きる事は何も楽しいことばかりではない。だが、人は誰もが生きている。生き方は千差万別だろう。
一つだけ共通している点があるとすれば。
どんな生き方をしようとも人は人でしかないということくらいだ。
彼等もまた世界とセカイに挟まれてながら。もがき、苦しみ、打ちのめされ、悲しみに染まっても生きていかなくてはならない。
何故、人は生きていこうとするのか。
その答えは誰も持ち合わせてはいないのかもしれない。しかし、これだけは言える。
彼は約束と共に今日のまで生きて来た。
そしてこれからは過去と決別する事だろう。
しかし、彼は忘れる訳ではない。乗り越えるのだ。