第30話「始まりの季節〜天河鏡夜編〜」
誰かに名前を呼ばれた気がした。だから天河鏡夜は空を見上げた。
「あっ! 天河!」
前から驚いたような声が聞こえ咄嗟に視線を戻した鏡夜の眼前に丸くて白い物が迫っていた。
「あいたぁ!?」
鏡夜の顔面に直撃したサッカーボールは高く舞い上がり家と空き地を仕切る塀を簡単に飛び越えて行った。
一方、顔面にボールが当たった鏡夜は尻餅を付き顔面を押さえている。
「なぁにやってんだよ天河!」
「早く取って来いよ!」
周囲から一斉に非難の声が上がった。
よそ見をしていた鏡夜は言い返すことも出来ずに仕方なく塀の前に立ち手をかける場所を探している時でも、後ろからは急かす声が飛んで来た。
「俺も手伝ってやるから。早いとこ行こうぜ」
笑いながら隣に立ったのは田中優。幼稚園からの付き合いで小学校五年間ずっと同じクラスの親友である。
勿論、六年目である今年も同じクラスだ。
「すまないねぇ。お前にばかり迷惑かけてぇ」
鏡夜が先日、見たドラマの物真似をすると田中は馬鹿やってないで行くぞと言って塀をよじ登った。
無駄に図体のでかい田中に続き鏡夜も塀をよじ登り人様の家の庭に着地する。
ガラスが割れていないのを見て鏡夜と田中はほっと安心した。
「俺は右の方を探すからお前はそっちな」
「あいよぉ」
今いる場所から見える範囲にはボールがないので鏡夜と田中は二手に別れる事にした。
それにしても広い庭だと鏡夜は感心する。最も鏡夜の家の前庭の方が倍以上は広いのだが。
建物を囲むように庭はグルッと続いているようだった。
前方に見えるのは塀。左側も塀。鏡夜は建物の陰になって見えない場所も探す為、直角に造られた場所を右に曲がる。
曲がった先には一人の女の子が椅子に座っていた。
サッカーボールを両手で持ち物珍しそうに眺めている。
「……あら?」
クラスにいる女子の誰よりも可愛い女の子に見とれていた鏡夜と女の子の目が合う。
見つかった鏡夜は動揺した。何か声をかけようにも何て言ったらいいのか解らない鏡夜は逃げた方が良いのではないかと考えた。
サッカーボールのことなど既に頭から消え失せ、可愛い子を前にして緊張しているシャイボーイとしか言いようがない。
「初めまして。これはあなたの?」
「えっ。あっ、はい」
女の子はボールを芝生の上に置くと右手で手招きする。
鏡夜は緊張したまま女の子に歩み寄り、ボールに届く距離で止まった。
「お返ししますね」
にっこり微笑んだ女の子から顔を逸らしながら鏡夜は口ごもった声でお礼を言った。
ボールを広い上げて、もう一度、笑顔の女の子の顔を見て顔を赤くしながら鏡夜は振り返り最初に居た場所まで走った。
丁度、反対側から田中が戻って来た所だった。
「おっ。見つけたか……ってお前、顔赤いぞ?」
「な、な、何でもないっすよ?」
ボールを空き地に投げ入れると鏡夜は塀に手を掛けて素早く登って反対側の空き地に降り立つ。
退屈そうに待っていた五人に鏡夜と田中を加えた七人でプチサッカーを再開した。
太陽が傾き空が茜色になると解散し鏡夜は田中と一緒に帰り道に着く。
「なぁ天河。算数の宿題やったか?」
「やってないなぁ。やりたくもない」
「即答かよ」
他愛もない話をしながら帰り道を歩き、田中とは家の前で別れた。
鏡夜は門を閉めてだだっ広い前庭を横目で見ながら歩く。
「ただいま」
「お帰りなさい!」
帰った鏡夜を出迎えたのは一歳年下の妹、天河加奈。勝ち気で活発な性格だが友達は多い。
他にも兄が二人。姉が一人いるが三人とも遠く離れた大学や高校に行っている為、今は一緒に暮らしていない。
両親は仕事の都合で家に寄り付かない。それでも面倒を見てくれる使用人の人が住み込みで働いているので鏡夜も加奈も寂しい思いはせずに楽しく暮らしている。
夕飯を食べた後は風呂に入り加奈が寝付くまで相手をするのが日課だ。
今日も例外ではなく加奈が寝たのを見届けてから鏡夜は自分の部屋に戻る。
部屋に戻った鏡夜はベットに身を投げて電気を消す。
薄暗がりの中であの女の子のことを考える。
あの子は誰だったのだろう。同い年くらいだとは思うが学校で見た事は無い。
学校には通っていないのか。それとも中学生だったのだろうか。
気が付けば女の子のことで頭が一杯だった。
気にしないようにしてもやはり気になってしまい寝付けないまま夜は更けて行った。
次の日、寝不足で閉じかけている眼を擦りながら鏡夜は教室に入る。
ドアの近くに立っていた二人と挨拶を交わし席に座る。
「おぁ。天河、眠そうだな」
田中が横に立ち頭を小突いて来る。
「少し考え事をね」
「なにぃ!? 天然。脳天気。そして伝説のプラス思考のお前がか!?」
演技じみたリアクションに鏡夜は立ち上がり田中の頭を軽く叩く。
「僕をどんなキャラ付けしてんだよ」
「どんなってそのまんまの意味だろうよ。なぁ」
近くに居たクラスメイトに田中は話題を振り話題を振られたクラスメイトは事情を知りもしないのに田中に同意した。
「ほら」
「あぁ、そう。ならもうそれでいいや」
投げやりにそう答えた鏡夜は席に座り、ランドセルから教科書やノートを取り出し机に入れた。
時間になるとチャイムが鳴り響き、担任の先生が教室に入って来て何時も通りの日常が始まる。
転校生が来たとかそんなイベントは一切なしで一日は過ぎて行き、放課後。鏡夜と田中は下駄箱で加奈を待っていた。
「お待たせお兄ちゃん」
「じゃあ帰ろうか」
「本当に仲いいよな天河兄妹はさ」
田中の言葉に加奈と鏡夜は顔を見合わせ笑う。
テレビや学校のことなど三人共通の話題を話しながら下校していると昨日、サッカーをしていた空き地の前に差し掛かると鏡夜は横目で女の子の家を見つめながら通り過ぎた。
あの女の子の顔が脳裏にちらついたが鏡夜は変わったそぶりを見せる事はなかった。
それから月日が経ち女の子の事をすっかり忘れていたある日、鏡夜と田中は駅前にある本屋を訪れた。
田中が先日発売された漫画を買いに行くと言うので鏡夜はその付き添いだ。
お目当ての漫画を購入しご機嫌の田中と普段通りの鏡夜が本屋から出ると、道路を挟んだ向かい側で小さな子供が泣いているのが見えた。
大人達は誰もが見て見ぬ振りをして足早に子供の横を通り過ぎていく。
誰もたった一人の子供に声を掛けようともしない。
「……行こうぜ天河」
「……」
返事をしない鏡夜を不審に思った田中は右隣にいる鏡夜の顔を覗き込むと鏡夜は珍しく怖い顔をしていた。
「天河……?」
今の鏡夜には田中の声は届いていない。
鏡夜は泣いている子供の姿に家に来たばかりの頃の加奈を重ね合わせていた。
妹の加奈は本当の妹じゃない。鏡夜の両親の同級生で親友だった人達が事故で亡くなり、親戚にも引き取られず施設に入れられそうになった所を引き取ったらしい。
それが真実なのかは解らないが兄からそう鏡夜は聞かされた。
どうして今の家に寄り付かない両親は加奈を引き取ったのか、疑問は多々残るが。
加奈は鏡夜の家に来たばかりの頃はいつも泣いていた。
テレビで家族連れなどを見ると両親を思い出すのだろう決まってしゃくり上げ始める。
不意に夜中に起き出して喚き散らす時だってあった。
そんな加奈に兄達と姉は優しかった。
どんなに忙しい時でも例え深夜でも加奈が泣き止むまで温かい飲み物を入れて慰めていた。
今より小さかった鏡夜はいつも兄と姉と加奈を遠巻きに見ている事しか出来なかった。
兄達と姉はもういない。加奈がまた泣き出したらどうする気だ。
それはやはり。
「放っておけないよな」
「んっ……おぉい天河ぁ!?」
鏡夜は小走りで道路を横断する後ろから素っ頓狂な田中の声が聞こえて来るが気にしない。
泣いている子供の前に立った鏡夜は一瞬、何て声を掛けようか迷った。が、これしかないだろうと降りて来た言葉を口走る。
「HEY! どうしたんだい少年坊主」
「……ちょ、おま」
田中にも聞こえていたらしく何とも複雑そうに声を発した。
何か間違ったのだろうか。非常に気まずい雰囲気が流れた。
「こういう時は俺に任せろ。こんくらいの歳の弟と妹がいるしな」
田中は自信ありげに漫画本を鏡夜に手渡すと微妙に泣き止んだ子供に向き直り、
「キング・ヤツザカ」
と意味不明の掛け声と共に意味不明なポーズを取ったのだった。
「おいこら!」
持っていた本の角で田中の頭を突く。
「んな呪いのポーズ見せられた日にはトラウマのこんだろが」
「ぬぁ!? この人気絶頂のお笑い芸人、キング・ヤツザカの物真似が呪いだと!?」
「誰だよそれ、いねえよそんなお笑い芸人!」
子供そっちのけで鏡夜と田中はお笑い芸人キング・ヤツザカは存在するか否かで議論を繰り広げていた。
「おーおー。明日、クラスの奴らに聞いて半ベソかくなよ天河!」
「もう勝った気かよ。ってか別に負けても泣かないだろ普通」
「くっ……なら俺が勝ったら加奈ちゃんは俺の嫁だ!」
「え……ちょ、何だよそれ勝手に決めんな! 誰がお前みたいな奴に可愛い妹をやるかよ!」
「もし俺が負けたらマイシスターを進呈しよう。どうだ条件は五分だ」
「話し進めんな。ってか人を物みたいに扱うな」
終わらない議論の途中で下から小さな笑い声が聞こえた。
下を見ると子供はすっかり泣き止んでいて小さく笑っていた。
「おい……天河。お前さっき少年坊主とか言わなかった?」
「言わないでくれ……」
鏡夜が男の子と間違えた子供は女の子だった。 下を向いて顔を押さえていると解り辛いんだと言い訳を鏡夜は田中にして膝を折り曲げて女の子と同じ目線にする。
「迷子になったの?」
首を縦に振って肯定した。
「お家は何処か解る?」
今度は横に振って否定する。
「お巡りさんに任せた方がいいんじゃないか」
確かに田中の意見も最もだが駅前の交番に警察官が居たのを鏡夜は見たことが無かった。
どうせ今日もいないだろう。
「……おまもり。おねえちゃんがくれたのだからわたしもおねちゃんにおまもりあげたくて。おねえちゃん、びょーきだから」
お守りか。
見ると女の子は首から手作りと思われるお守りを提げていた。
「お守りは買えたの?」
力無く首を横に振る。
「よし。じゃあお兄ちゃんと一緒に伊弉諾神社に行ってお守り買おう」
「……いいの?」
優しく笑いかけながら鏡夜は頷く。
「どうせ暇だからね」
「ならばまずは腹拵えだなもう昼近いし」
鏡夜も田中の言い分に賛成した。
「おっ。たまには役に立つな田中」
「勿論、天河の奢りで」 「……まぁいいか」
いまいち納得は出来ないがこの際だから仕方ない。
「そうだ。お名前は?」
「……えと、たかさきまりな」
「僕は天河鏡夜。こっちが田中。宜しくね」
何気ない休日に流れる時間の中を過ごしている鏡夜はまだ知らない。
この出会いによって悲劇の幕がゆっくりと上がって行くことに。
もしも、この時の鏡夜が『未来を予知』する事が出来たのなら、未来は変えられたのかもしれない。
悲劇は避けられたのかもしれない。
しかし、人間に未来を予知する事など出来る訳がない。
迫り来る未来は人間には解らない。知る術もない。だからこそ人間は本当の喜び、悲しさ、憤りを感じられるのだから。