第15話「夕暮れの約束」
長い黒髪を風に靡かせながら悠然と立っている女子生徒に目を奪われていた鏡夜は我に返り、よろめきながらやっと立ち上がった。
何が起こった? 人間の力で可能な事か?
頭の動揺を演算で打ち消しながら、鏡夜は掛けるべき言葉を探す。
「……御船桜香」
先に口を開いたのは女子生徒だった。桜香という名前らしい。
「俺は、天河鏡夜」
「……」
それきり二人は言葉を出せず気まずい沈黙が訪れた。
「あ、あのさ。俺の弁当箱……」
何とも間の抜けた質問だとは鏡夜も解っている。だが、長い間、人と関わって来なかったせいでこんな時どうすればいいのか解らない。
「……お腹空いてるみたいだったから」
「えっと、あの犬が?」
桜香はこくんと縦に頷く。
最初から主語を抜かさなければ聞き返す手間もいらないのだが。
「ダメ……でした?」
何かを伺うようにおどおどしながら桜香は言った。
可哀相なくらい怯えてしまっている。
先程の凛々しさはどこに行ったのやら。
「命を助けて貰ったのに文句は言わないさ」
出来るだけ優しく言ったつもりだが素っ気ない言い方になってしまう。
「……」
それでも桜香は少しだけ笑った気がした。
「どうしました!? 大丈夫ですか!?」
階段を駆け降りながらさっき校門で会った上級生が叫んだ。
後に続いて光輝の姿も見える。
「え、ええ……」
どうして今の今まで危険な状況にあったのか解るのだろう。
鏡夜が訝しんでいるのに気付いたのか上級生は肩をすくめて上の階にいた時に物音が聞こえてたから来たと説明した。
「犬は?」
辺りを見回しながら上級生が尋ねる。
たった今、起こった事を鏡夜は包み隠さず話した。
犬が窓の外にすっ飛んだ事も弁当箱が犠牲になったことも。
「それは良い判断ね」
怪訝そうな顔を鏡夜が向けると今度は上級生が説明した。
この辺の野犬はお腹が空いているから人を襲うのであって、お腹が満腹になれば住み処に帰る。
そう上級生は淡々と説明した直後に笑顔を作り四段もの重箱を顔の高さまで持ち上げる。
「保健所には連絡しておいたから、今はお弁当を食べましょう。ね?」
昼ご飯が無くなった鏡夜と元々持っていなかった桜香は半強制的に上級生の弁当を食べる事になったのだった。
上級生に案内され先は屋上だった。
適当な場所で上級生がレジャーシートを敷き上履きを脱いで座る。
随分と準備の良い事だ。ピクニックに行く用事でもあったのだろうか。それが急にダメになったとか。
考え過ぎか。
鏡夜が座ろうと身を屈めた時に棒立ちしている桜香が視界に入った。
「座りなよ」
「……うん」
聞き取るのがやっとの声量で桜香は返事をする。
二人のやり取りを沈んだ表情で光輝が見つめていたことを鏡夜は気付かなかった。
彩りが綺麗な手作り弁当をつつきながら相田光輝。泉川ユキナ。天河鏡夜の順番で自己紹介をする。
最後に残された桜香はずっと俯いたままで何かを感じ取ったのかユキナは優しい言葉を掛けたり紙の皿に桜香の代わりにおかずを取ったりしている時だった。
「…………ひっく……うあ……ひっく」
突然、桜香が泣き出した。
大声で泣くのではなく小さくしゃくり上げるように。
一度、溢れた涙は止めようがなく次々と流れ出る。
ユキナは必死に桜香を慰め、光輝と鏡夜は一階まで冷たい飲み屋を買いに走った。
「……俺さ、あいつと同じ中学なんだよ」
自動販売機の前で光輝が切り出した時はそれがどうしたと鏡夜は思ったが続いて出て来た酷いじめを受けている。という単語で鏡夜も黙ってしまう。
「もう、擦り切れる寸前なんだと思う……」
それが解っていながらどうして助けようとしない。無責任な奴だ。所詮は我が身大事か。
苛立っている理由も解らないまま、鏡夜は自動販売機のボタンを乱暴に押す。
取り出し口から冷たい缶を取ると光輝には一瞥さえせずに歩き出す。
鏡夜の後をノロノロと光輝は追った。
「ダメよ! 思い直しなさい!!」
屋上のドアに手を掛けた時、ユキナの怒鳴り声が聞こえ、慌てて鏡夜はドアを開け二人は屋上に飛び出す。
鏡夜は目を疑った。
桜香がゆっくりと屋上のフェンスに向かって歩いていた。
どう見ても行き着く先は等身自殺しかない。
ユキナが必死に止めようとするが振り払われてしまう。
「まずい御船の奴、パニック起こしてる!!」
詳しい事情は後で話すと光輝は荒い口調で叫び桜香の元に駆け寄り、桜香を止めようと桜香の身体を両手で掴む。
鏡夜は振り払われ倒れ込んだユキナの元に向かい、状態を確認する。
「大丈夫ですか? 倒れた時に頭を打ったりなんかは……」
「わ、わたしは大丈夫……それよりも」
さっきとは打って変わり大声で泣きわめいている桜香をユキナは見る。
「一体、何があったんですか?」
「それが、私にもよく解らない。慰めていたら突然……」
光輝は確かにパニックを起こしていると言った。それは以前にも似たような事があったということだ。
しかし、どうしてここでパニックを起こした? 桜香をいじめる奴などここにはいないのに。
考えられる節はフラッシュバック。麻薬中毒者が見舞われる症状だが、桜香の場合はいじめが原因だ。
どうにかして落ち着かせないと。
「死なせて!! もう嫌なの! 死にたい!! 死なせて!」
悲痛な桜香の叫びに鏡夜は息を呑む。
『もう……辛い思いをしてまで生きていたくない。だからここで……』
甦るあの日の言葉を鏡夜は掻き消す。
もう、あんな思いはたくさんだ。死ぬなら、いや、救ってみせる。今度こそ。
「桜香!」
「あっ……」
鏡夜は桜香の正面に立つと優しく桜香を抱きしめる。
泣き止むまで、落ち着くまでずっと。
桜香と鏡夜は泉川の街の川沿いを一人で歩いていた。
向かう先は桜香の家。
先程の事もあってか二人は会話どころか顔を見ようともしない。
そっと桜香は胸に手を当てる。まだ心臓がドキドキしているのが解る。
無理もない。初めて同じ歳の男の人に抱きしめられたのだ。
横を歩いている鏡夜を盗み見ると表情には何も無かった。
戸惑いも迷いも恥ずかしさも。
正面に顔を向けてからも桜香はあれこれ思案する。
あんな事をして恥ずかしくないのかとか。それとも誰にでもああいう事をして慣れているのかなとか。
結局、二人は会話一つせずに桜香の家の前に立つ。
正面は店舗の入り口で玄関は川が流れている裏側。桜香の部屋からは綺麗な川が見渡せる。
「いい場所だね、綺麗な川が流れていて」
この場所を気に入っている桜香にとってお世辞でも嬉しい言葉だ。
「じゃ、俺は行くよ」
背中を向けて歩いていく鏡夜を見ようともしないで桜香は玄関へと歩み寄る。
「あぁ、そうだ」
声に振り返ると鏡夜は夕日を背景にして立っていた。
言葉に出来ない程、綺麗だ。
「俺は絶対に合格して泉川にまた来るから。あんたも合格してろよ? あんたが居なかったら俺がこの街に来る意味がないからな」
笑いながら鏡夜はそれだけを言うと手を振りながら背中を向けてまた歩き出した。
本当に嬉しい言葉だった。初めて人に必要とされた。そんな気がして。
「ただいま……」
「おかえんなさい〜」
ダンボール箱を二階に運ぼうとしていた弟。御船智希がだらけた声で迎える。
「おぅ帰ったか。お前の荷物は全部、運んどいたからな」
二日前に禁煙を宣言した御船父がタバコをくわえながら台所から出て来た。良く見るとタバコに火はついていない。
取り敢えず、何かをくわえていないと落ち着かないのだろう。
「あら? 桜香。お帰りなさい。お引越のお片付けは明日にして、夕ご飯にしましょうか」
「イーヤホゥ!」
途端に野郎二人は元気になりダンボールを放り出し居間に駆けていく。
桜香もそこら中にあるダンボールを避けながら居間に入る。
この家に引っ越して来たのは二日前。
前の町でお店を開いてそれなりに繁盛していたのに。
私のせいだと桜香は自分を攻める。
変でオタクだけど優しい父さん。
美人で気立てが良くて優しいお母さん。
年下なのに妙に達観していて、支えてくれている弟。
今まで散々、迷惑をかけて来たのに、これ以上甘えることなんて。
「いいのよ。甘えて」
心を見透かすように桜がご飯を桜香の前に置きながら言った。
「生活の事なら気にすんな。ここでも絶対に繁盛する。何故なら俺の作る料理は美味いからな!」
大声で笑い声を上げながら御船父が言って桜香の頭を撫でる。
「僕の事も気にしないでいいよ姉ちゃん。何故なら僕は世渡りが上手いからね!」
と智希は御船父の真似をする。
友達と別れる事になってしまった智希は不満一つ言わない。
それが逆に桜香の心を苛む。
「あのさ姉ちゃん。自分が悪いとか勘違いしてない? 言っとくけど姉ちゃんは何一つ悪くないからな! 悪いのはあの町の腐った奴らだよ!」
前の町に対して不快感をあらわにする智喜。
「あそこは親も陰険な奴が多かったからなぁ」
と珍しく怖い顔をする御船父。
「人はね、合う人と合わない人が絶対に居るの。偶然にも前の町には桜香と合わない人達だっただけ。だから桜香は悪くないからね?」
優しく微笑む桜。
居間に暖かな空気が流れた。
「その点ここ泉川は俺と桜が青春時代を過ごした土地でもあるからな! 桜香にも誰か現れるかもなぁ!」
最後の御船父の声に桜香は反応した。
そうだ忘れてた。今日、出会った男の子。天河鏡夜の話をしよう。
でも、何て言えばいいのかな。犬に追われてたはなんか違う。
校門で違う人に間違われたも違う。
いきなり抱き着かれた。それだと天河君がただの変態だ。
悩み抜いたあげく桜香は最も適しているはずだと信じた表現をした。
「好きな人が出来た」
「…………」
場の空気が固まった。
訳が解らずに桜香はおどおどしていると御船父が凄い勢いで立ち上がった。
「さ、桜っ! せせせ、赤飯だ!!」
ミサイルのような勢いで御船父が叫んだ。
「まぁ。おめでたいですね。早速作ります」
満面の笑顔で台所に向かう桜。それを見ていた智喜は箸を置いた。
「ちょっと、父さん、母さん……飯は?」
「ばっかやろっ!! こんな一大事に飯なんか食っていられるか!!」
「まあ。そりゃそうだけど……で? どんな人なの姉ちゃん」
鏡夜から受けた印象を桜香は話した。
口は悪いけど優しくて暖かくていきなり抱き着いて来た。と。
「だ、だ、だ」
それを聞いた御船父はおかしな顔をしながらだという発音しか繰り返さない。
「へぇ……それは……何だろ何て表現したらいいんだろ? 変態?」
「へ、へ、へ……!」
だがへに変わった。
「抱き着き魔で変態だとぅ!? 上等だ! 俺の可愛い娘に手ぇ出しやがって刻まれてラーメンのダシになる覚悟はあるんだろうなぁ!!」
居間から全速力で飛び出していき、足音に驚いた台所から桜が顔を出した。
「あら? どこに行くんですか和希さん?」
和希というのが御船父の名前。御船和希が本名だ。
「ちょっくらダシを捕まえにな!」
そして和樹は玄関をロケットの如き勢いで飛び出して行った。
「あわわわわ……」
「大丈夫だよ。その天河さんって人はこの街に住んでないんだろ?」
「うん……」
「だったら捕まらないよ……多分」
智希の多分という部分が桜香には嫌な感じだった。
何はともあれ御船桜香の新しい生活は慌ただしくも優しく暖かい家族に囲まれながら始まりを告げた。
さて。すっかり遅くなってしまった。
駅前の街頭の近くにある時計を見るとデジタル表示で六時半を指していた。
次の電車まで四十分近くあるが何をして暇を潰そうか。
コンビニで立ち読みでもしようとベンチから立ち上がる。
「そこな少年!」
「……あっ?」
思わず声のした方を見る。
そこには中年のおっさんが仁王立ちしていた。頭は坊主の上、額には鉢巻きが巻き付けられ、身体は筋肉質。
大工の親方。という印象を鏡夜は受けた。
一応、辺りを見回し他に少年がいない事を確認してから鏡夜は答える。
「俺に何か用ですか?」
「おぅ。この辺で抱き着き魔で変態な学生を見なかったか?」
「……はっ?」
頭でも打ったのか? 大体、そんな学生がいる訳。
「……」
認めたくないことだが、鏡夜には心当たりがあった。変態はとにかく抱き着き魔の方には多大な心当たりがある。
だとするとこのおっさんは御船桜香の父親か。
ひしひしと伝わって来る形容しがたい気配に本能が逃げろと叫んでいる。それ程までに危険な存在か。
「さぁ? そんな変態はこの辺りにはいないと思いますけど」
「そうか。手間取らせて悪かったな……しかし」
御船父は鏡夜の顔をじろじろ見つめる。
「何か?」
「いや。な〜んか、お前をダシにしとけって感じすんだよな〜。今後の為にも」
どんな為だよと危うく突っ込む所だったが、鏡夜は堪えた。
長く話しているとボロを出してしまいそうだったので鏡夜はお辞儀をして足速にその場を立ち去ろうとした。
「ちょい待ち少年!」
「なにか……?」
何でもない風を装ってはいるが心臓は太鼓を打つが如く高鳴りっぱなしだ。良い意味では決してない。
「手間を掛けたお詫びと言っちゃなんだが、今度俺の店に来いよ近々オープンするラーメン屋だ。美味いぞ」
「……気が向いたら寄らせて頂きます」
そう言い残して鏡夜が向かった先はコンビニではなく駅の構内だった。
切符を買い改札を通り、長い階段を昇りホームに出る。
ホームのベンチに座り街並みを眺める。
来年の今頃はこの街に居るのだろうか。
そして鏡夜は自嘲気味に笑った。
来年の。いや、未来の事など解るはずがない。
未来は解らないから楽しみやスリルがある。
未来を予知出来る人間がいるとしたら、きっとつまらない人生を送るに決まっている。
しかし、同時に未来を予知出来るとしたら、その人間は間違いを侵さないだろう。その点では羨ましいと鏡夜は思った。




