【短編】渦潮
大海原の真ん中に、ぽっかりと空いた穴。
蒼く広がる絨毯の中に浮かぶ一つの黒点。
その黒点は特別な条件もなく、決して異常な力が働いているわけでもなく、ただ自然の成り立つがままに、海水が渦を巻いている姿であった。
私はその不思議な光景を、漁船の上からまじまじと観察し、まだ知らない海の姿を目に焼き付けている。
間近で渦潮を見るのは初めてだったから、散歩途中に道端で珍しい花が咲いているのを見かけた時のように心地良い驚きが私を楽しませてくれる。
早朝とも言えない、言うなればまだ白く発光する月が顔を出している深夜の海を走り、ここまでやってきた。
私にとってこの仕事はまだ、慣れ始めではあるが、色々な業務を重ね、こなしていく度に段々と海を好きになっていくのがたまらなく楽しかった。
寧ろ、海が好きでない人には相当に不向きな仕事かもしれない。
私は大して海が好きなわけでもなかったが、それはあまり海に出かけないからであり、こうして毎朝海に出るようになってからは海の感情や変化が手に取るように伝わってくる。
それがまた私の刺激になり、海を知りたいという好奇心を働かせた。
まるで知り合って間もない友人にするように、私なりの探りを入れている。
彼自身が見せる感情の伝わりや変化などは本当に些細なものではあるが、私にとってそれは大きな関係の変化なのだ。
そして、船は渦潮を横切る。
船の底部をリズムよく掠める渦潮。
それはまるで、生まれた赤子とその母親が鼻頭を寄せて愛を確かめ合い、生命の奇跡に感謝して笑い合うような様子を想像させるほどに神秘的なものだ。
私の周りで穏やかに揺らぐ波たちは、形ある生命のようなものなので、その脈動は私の心の芯まで力強く響いてくる。
渦潮が、彼の面影を耳打ちしてくる。
そう、ここは、柔らかな渦潮が巻き起こる大海原の真ん中だ。
暴力的な輝きを持った太陽が私の眼前に立ちはだかったが、それでも船は微塵も怯まず進んでいく。
これが、海に出る者しか見ることを許されない夜明けの姿なのかと胸が高鳴る。
私はその光を見つめるだけで浮きうきとした気持ちを抑えきれなくなり、途中から思わず笑ってしまいそうな自分を堪えた。
まだ笑うには早い。
そう思っていた私が見たのは、海面に反射して映る自分の姿。
とても、人生を楽しんでいるような面持ちだ。
決して、笑いを堪えるなんて出来なかった。
楽しい時には笑えばいい。
悲しい時には泣けばいい。
ありのままの自分を、海と共有したい。
それが、私からのただ一つの願いだ。
その時、波をかき混ぜる渦潮の中から一匹の魚が、まるで天から翼でも授かって使い達の元へと羽ばたくかのように飛び跳ね、再び下界へ身を潜める。
あの魚は、何という名前の魚なのだろうか。
まだまだ世界には私の知らないものが、この大海原に溜まった塩水のように溢れており、渦潮の如く私のことを魅了していくことだろう。
跳ねた魚の鱗は太陽の光と共鳴するかの如く、エメラルドが持つ特有の神々しさを噴出するかのように解き放っていた。




