第12話 いざ、壇ノ浦。
夜が明けてから“三刻=6時間”が過ぎていた。“丹波=現在の京都府中部”を後にした戸丸は今、“播磨=現在の兵庫県南西部”の山中を猛スピードで駆け抜けていた。戸丸は小太郎の背に自分を結わえるとしっかりとしがみついた。小太郎は牛ほどもある巨大な山犬である。人一人担いで走る事など造作もない。戸丸が跨がる小太郎は山中を疾風の如く駆け抜けた。
戸丸は小太郎の身を案じていた。故郷から自身を探し出すまでの長旅の疲労、血の滲む足先。主人への忠誠心が己の身を顧みぬ使命感に急き立てている。これでは帰り着くまでに小太郎が力尽きるであろうと思えてならなかった。
さらに小太郎が走る事“半刻=1時間”が過ぎた。「止まれ。止まれー。」戸丸が叫ぶ。小太郎は戸丸の声を聞くとその歩みを止めた。そして糸が切れた操り人形のようにドタリと倒れ込む。気力だけで走っていたのだろう。荒い息をする小太郎の目に生気はなかった。「やはりか。」小太郎の背から降りた戸丸は彼の姿を見るとこのままではいけないと考えていた。
しばらく時間が過ぎた。小太郎はやはり気が急いているのだろう。立ち上がれない体を引きずり這って前に進もうとしていた。「これこれ、まだ無理だ。もう少し休みなさい。」戸丸が言う事にも小太郎は耳を貸さず先を急ごうとしていた。「やれやれ、仕方ないな。」戸丸はそう言うやいなや、おもむろに小太郎の首に両手をあてがうと思い切り絞め上げた。何がなんだかわからない出来事に小太郎はバタバタと前脚をバタつかせ、窒息の直前でもんどりうって倒れた。起き上がった小太郎はビックリした面持ちで戸丸を見る。
「どうした、この根性なしの山犬が。お前の主人への忠誠心はその程度か。自分を情けないと思い恥を知れ、この痴れ者めが。」戸丸は何を思ったか突然の暴挙から小太郎を罵倒する。小太郎はあまりの戸丸の仕打ちに牙を剥いて唸り声を上げた。「そうだ、お前は強い。小太郎、お前は強いのだ。その闘志があれば向かう所敵なしだ。」戸丸は唸る小太郎に今度は激励を始める。不可解な行動が続いた。そして戸丸は最後に今にも襲いかかりそうな小太郎の顔前で大きく拍手すると頭を撫でて言った。「どうだ、小太郎。もう痛くないだろう。」小太郎は戸丸の一連の行動に呆気にとられていた。そう言われてみれば先ほどの霞がかかったような意識は驚くほど鮮明で、滲んでいた脚の血も止まっている。小太郎は不思議でならなかった。
この戸丸の一連の不可解な行動には理由があった。まず、最初に小太郎の首を絞めたのは一時的に脳に行く血流を遮断し酸欠にした後、一気に血流を回復させる事で脳を活性化したのだ。そして敢えて苦言を提し、罵倒する事で怒りを呼び起こし、アドレナリンというホルモンの分泌を促した。アドレナリンには鎮痛作用と止血効果がある。これにより痛みを取り除き出血を止めたのだ。最後に拍手の後「もう痛くないだろう」と行ったのは放心後の暗示の擦り込み、要するに瞬間催眠を行ったのだった。
戸丸と小太郎は半日にも及ぶ移動により“吉備=現在の岡山県”まで来ていた。「小太郎、旅を急くな。少しは楽しもうではないか。」そう言うと戸丸は背に掛けた笠をかぶった。「小太郎、ついてまいれ。」戸丸は小太郎の頭をポンポンと叩くとそう言い、吉備の町へと下りて行く。そして小太郎を従えて街角に立つとそのまま托鉢を行いお布施を募った。
「ワッハッハ、大漁。大漁だな。」夕刻、吉備の山中に高笑いする戸丸の姿があった。白い大きな山犬、小太郎を従えた托鉢は見込み通りの功を奏し、物珍しさから大量のお布施が集まった。「これで当分、食い物には困らないな。」カッカッと笑う戸丸に彼の笑顔を喜ぶ小太郎がいた。
「なぁ、小太郎よ。人の世のつながりは利害の一致だ。なればこれほど有意義な物はないな。」人間社会のしがらみを語る戸丸にそれを必要としない小太郎はワンと元気に応える。「そうだ。よし食え、小太郎。」そう言うと戸丸はお布施の中にあった団子を小太郎に投げた。「美味いな、小太郎。これが有名な吉備の団子だ。」がっつく小太郎に戸丸が言う。小太郎は聞いてはいない。戸丸は美味そうに食べる小太郎に2個3個と満足するまで与えた。
翌日、正午。戸丸と小太郎の姿は“長門=現在の山口県”にあった。目の前には壇ノ浦を望む関門海峡。「さて、この荒れる海をどうやって渡るか。」戸丸は顎をさすりながら考えていた。精の付く食事を取り、一晩しっかり休んだ小太郎はオォーンと遠吠えをする。海の向こうに待つ、懐かしい故郷のある大地に。だがそれは一筋縄には行かないものであった。この海を無事に越える事、それこそが戸丸に与えられた第一の試練であった。
自作小説『Dime†sion』 =第12話=
つづく




