【1】
スコーンの一件からただ一つわかったのは、店主の作り出すお菓子が、客に幸福をもたらしているということだけだ。
店先に掲げられた「思い出の味お届けします」の言葉には、種も仕掛けもないのかもしれない。あの一件から半月も経てば、田口はそんな考えすら浮かぶようになっていた。
何より、店主が届ける思い出の味が客の心を豊かにしていることは、田口がその目で確認している。あの一件の三日後、店で顔を合わせた川村が、スコーンを頬張り穏やかに笑ったのを思い出して、田口は誰かを幸福にできる仕事を生業とすることの意味を噛み締めた。
しかし、だからといって母のレシピの謎も明かされたわけでもなく、田口自身の悩みが晴れたわけでもない。それどころか、少しずつ増す暑さに、体だけでなく心までも蝕まれ始めている。夏が終われば、この猶予期間もあとわずかになってしまう。店主に小言を言われることは、もはやわかりきっていながらも、田口は賭けの内容を言い訳に、今日もアンジェに逃げ場を求めた。
だが訪れてみれば、今日のアンジェはどうも様子が違う。店の前に掲げられているはずの看板は出ていない。今まで看板が出ていなかったのは田口が知る限り、定休日である日曜くらいだ。したがってそれは、田口の中で店の休みの証と位置付けられている。だが、今日は水曜日。定休日ではないはずだ。
田口は首を傾げながら店のドアノブに手を掛けた。内に向かって軽く押せば、ドアに鍵は掛かっていない。ドアの隙間からはいつも通り、コーヒーとバターの香りが漂ってくる。きっと看板を出し忘れていただけだろう。
田口はそう結論づけて、ドアをくぐった。しかしその瞬間、目の前に広がった光景に唖然とした。
いつも客は決して多くないが、田口が訪れる時間帯はテーブル席が一つ二つうまっている。けれど今日は、そのテーブル席の配置ががらりと変わっている。椅子は壁際に追いやられ、日頃一定の距離を保って配置されているテーブルは、距離を置かずフロアの中央に固められている。そのテーブルの上には、ボールやトレイといったお菓子作り欠かせない器具が並び、さらにその横には、ガスボンベをさした簡易式のガスコンロと、いくつかの小瓶の存在すら確認することができた。
それは明らかに、お菓子作りの準備であるように見える。
「いったい今から何を始めようっていうんだ?」
田口が思わず呟けば、
「おや、店の看板は片づけていたはずだけど、入ってきてしまったのかい」
とカウンター席に座った川村が溜息をついた。だが田口がわけもわからず突っ立っているのを見て、
「そんなところに突っ立っていないで、こちらにおいで」
と、手招きをする。
それに釣られて田口がカウンターまで近づくと、彼の左隣には、いつもはテーブル席に着いているはずの男が一人、コーヒーを啜っていた。三十歳くらいのその男は、この暑い中、ネクタイをしっかり締めて、額には汗が滲んでいる。しかしそれを気にした様子はない。いつもと違う座席が落ち着かないのか、どこかそわそわと、キッチンの入り口と手元のコーヒーカップに交互に視線を向けている。
男がこちらに気づいていない様子だったので、田口は川村にのみ挨拶をしてその右隣に腰を下ろした。 いつもはこのタイミングで、店主が水の入ったコップを出してくれるのだが、今日はそれがない。田口はそこでようやく、カウンターの中に店主の姿がないことに気がついた。どうやらテーブルの配置に気を取られ、店主の声がしなかったことにすら気づかなかったらしい。
田口はこの状況の真相を知っているだろう川村を見やった。
「あの人は今どこに?」
「キッチンだよ」
その答えに田口は眉を寄せる。ケーキの盛り付けなど、彼女がキッチンへ姿を消すことは多い。それでもテーブル席をあんな状態で放置して、いったい何をしていているというのか。田口には理解し難いことだ。ましてや、客の来訪にも出てくる気配がないのは珍しい。キッチンはさほど大きくないようだから、客の声や気配も伝わっているはずだ。
田口がキッチンに気を向ければ、確かに中で動いている気配がする。それも一つではなく、二つあるようだ。
店主の他に誰かいるのだろうか。
それに首を傾げながら、田口は川村に、先程抱いた疑問を口にした。
「テーブル席はあんな状態だし、あの人は出てくる気配がないし、いったい何を始めるっていうんです?」
「まあ、見ての通りお菓子作りだろうね。私はこうして、スコーンとコーヒーにありつけたけれど、私が店を訪れて間もないうちに、臨時休業状態さ。もうしばらくしたらメイさんが出てくると思うから、詳しくは彼女に聞いてごらん」
「じゃあ今日のコーヒーはお預けか……」
肩を落とした田口の姿を見て、川村が喉の奥を鳴らして笑う。田口は川村がそのような笑い方をするのを始めて見た。思えば川村とこうして店主抜きで話すのは初めてのことである。
川村はとても気さくで話しやすいから、昔馴染みのような錯覚に陥りそうだった。