【4】
「では、運命の石は本当に存在するのですね」
声音からも、彼の気持ちが期待に踊っているのがわかる。
店主は、「ええ」と今度は力強く頷く。
老紳士は明らかな肯定を得て、気が抜けたように言葉を失った。きっと安心したのだろう。その様子を見て、店主は優しく微笑む。
「いつもお店に出しているものなので、今からお持ちしましょうか?」
「お願いしてもよろしいですか」
「はい。少しお待ちくださいね」
店主は言葉を残し、キッチンへ姿を消した。そして数分して戻って来た彼女の手には、二十センチくらいの小さなバスケットがあった。
「お待たせしました」
店主は言葉と共に、バスケットをカウンターに置いた。田口は老紳士と揃ってバスケットを覗き込む。バターの香りが鼻をくすぐり、田口はじわりと滲み出た唾を飲み込んだ。バスケットの中には、こんがり丸く焼かれたスコーンが入っていた。
「これが、運命の石」
田口と老紳士の驚きの声がちょうど重なる。老紳士と互いに顔を見合わせれば、店主は笑って言葉を補足した。
「正確には、これの由来になったスコットランドのスコーン城にある台座が、The Stone of Destiny、つまり運命の石なんだけどね。この石にちなんで、スコーンは石の形に焼きあげられることが多いんだ。そして伝説では、モーゼの先祖であるヤコブがこの石を枕にして眠ったところ、神様が現れたそうだよ」
「でも、なぜ川村さんの奥さんがスコーンの由来を知っていたんだ」
「それはおそらく、私が。奥様は私のスコーンがお好きだったから、一度スコーンの由来をお話したことがあったんだよ」
「でもそれにしたって、スコーンだって言えばいいだけのことだろ?」
それを口にして田口は、老紳士がスコーンを見つめ柔らかく微笑んでいることに気がついた。きっと川村の中で答えは出ているのだろう。川村さん――と田口が名を呼べば、川村は瞬きをして、田口を見た。
「妻は昔、喫茶店の店員をしていて、彼女が私にスコーンを運んできたのがそもそもの出会いなんです。だからまさしく、これが私と妻を結びつけた運命の石なんですよ」
川村は手で優しくバスケットを包み込む。彼の中でその思い出は、とても大切なものなのだ。
「これを頂いて帰りたいのですが、おいくらになりますか」
店主は首を振って、バスケットを持つ彼の手に自らの手を重ねた。
「お代はいただかなくて結構ですよ。奥様に思い出の味を届けてあげてください」
「しかし、それでは私の気が済みません」
「それなら、またお店にいらしてください。それが何よりのお礼です。それに、不甲斐ない少年を叱る大人は多いに越したことはない」
店主の言葉に、バスケットを抱えて席を立った老紳士は、声をあげて笑った。
「それでは、また後日立ち寄らせていただきます」
田口は老紳士の後ろ姿を目で追いながら思った。
彼の妻はまだ亡くなったわけではない。記憶を失っていく妻を見守るのは辛いかもしれないが、それでも彼の中に新たな思い出は作っていける。彼は運命の石から始まる思い出を、また一つ作っていくのだろう。それはきっと彼にとって掛けがいのないものとなる。
そしてその切欠を与えたのは紛れもなく店主だ。
田口はカウンター内から老紳士を見送る店主の横顔に、「あんたがうらやましいよ」と思わず本音をもらした。
「何か言ったかい?」
店主はその呟きが聞こえなかったのか、田口を見て瞬きをする。
「いんや、独り言」
田口は店主の耳にその言葉が届いていなかったことにほっとして、首を横に振ったのだった。