【2】
「川村さん、この暑い中お一人でいらしたんですか」
目が慣れてきた田口が、来訪者の姿を視界に捉えると、それは一人の老紳士だった。長身の店主と並ぶと小柄で、足が悪いのか茶色の杖を手にしている。身につけているものは仕立てのよいシャツに麻のズボン。日よけの帽子の合間からは、白髪交じりの髪と温厚そうな目が覗いている。
老紳士は店主にその身を支えられ、目元の皺をいっそう深くした。
「ちょっとメイさんにご相談したいことがあったものだからね」
「奥様のことですか?」
「相変わらずメイさんは鋭いですね」
「最近奥様をお見かけしていませんでしたから。とりあえず、座ってからゆっくりお話を聞かせてください」
二、三、言葉を交わし、店主が老紳士をカウンターまで誘う。木製の床には、杖の音が響いた。田口がカウンター席からその音に耳を傾けていると、それは田口の隣で止まった。足元に目をやっていた老紳士が顔を上げ、彼と真正面から目が合う。
「お隣、失礼しますよ」
驚きに対応が遅れた田口の横で、朗らかに言葉を発した老紳士が席につく。お昼を過ぎたこの時間、客はこの老紳士と田口しかいなかった。
足が不自由な老人にテーブル席への段差は辛いのはわかるが、大切な話をするにも関わらず、他人がこんなに近くに座っていてよいものだろうか。カウンターに戻った店主からの視線を感じて、田口は老紳士に遠慮がちに問い掛けた。
「なんなら俺、席を外しますよ?」
「いいえ、先客であるあなたが気を使う必要はありません」
田口は気を使ったつもりだったが、逆に気を使わせてしまったようだ。
「でも、大切なお話なんじゃ……」
田口の言葉に重ねるように、店主が彼の前にすかさず水のコップを置く。
「就活やら学校やらをさぼってここに入り浸っている奴なので、川村さんが気を使う必要はないですよ」
「そんなことはないです。折角、煩わしいことを忘れてゆっくりされている方の邪魔をするのは、私も本意ではありませんから。それに、知恵をお貸しいただける方は一人でも多いほうがいい」
老紳士は田口と目を合わせて、目元の皺を深くした。田口はその言葉にわずかに緊張を解く。
「じゃあ、お言葉に甘えてこのまま同席させてもらいます」
だが、そう口にした後、よくよく彼の言葉の意味を考えて、田口は少し不安になった。この教養深そうな老紳士に貸す知恵を、自分は持ち合わせているだろうか。もしかしたら、潔く店を後にした方がよかったのかもしれない。
店主も同じ考えだったのだろう。彼女は、
「亮平にあなたにお貸しできる知恵があるとよいのですが」
と皮肉の籠った言葉を口にした。
それを聞き、老紳士は声をあげて笑う。
「メイさんがそのように言うのは珍しい」
「不甲斐ない男は嫌いですから」
そう言って彼女は、ちらりと田口に視線を向けた。田口は居心地悪さを感じて、手元のストローを咥え、コーヒーを啜る。しかしながら、居心地の悪さを感じたのは、田口に限った事ではなかったらしい。
「では私も嫌われてしまいますね」
隣からあがった声に、田口は口に含んだコーヒーを思わず吐き出しそうになった。
店主も驚いたのだろう。
「川村さんは不甲斐なくなどないでしょうに」
店主は慌てて老紳士に言葉を掛けた。それでも老紳士は、首を横に振る。
「いいえ、私は妻の願いすら叶えられない不甲斐ない男なのですよ」
「奥様の?」
店主が確認すれば、老紳士は「はい」と頷いた。
そういえば、奥様がどうのという話をしていたな、と田口は先程のやりとりを思い出す。店主の言葉から察するに、店にはよく二人で訪れていたのだろう。彼の言葉は、彼の妻の姿がないことに関係しているのかもれない。
田口が考えを巡らせる側で、店主は姿を見せない件の妻の居場所を問う。
「奥様は、今どちらに?」
その問いに老紳士は、視線を遠くへ向けた後、大きく息を吸って、
「妻は二年ほど前から患っていた認知症が悪化して、先月から施設に入っております」
と答えた。それに店主は眉を寄せた。
「それで最近、お二人でいらっしゃらなかったのですね」
「ええ、妻はとても外出できる状況にありませんから」
彼が先程遠くへ視線を向けたのは、きっと妻との思い出を振り返っていたからなのだろう。今、彼は悲しみとも、苦笑いともつかぬ表情を浮かべている。
田口とて母との思い出を振り返ると、複雑な気持ちになることが多い。田口には彼の気持ちを察することができた。だが、この老人がその妻のことで相談に訪れた以上、その話に触れないわけにはいかない。
田口は老紳士の表情の変化を気に掛けながら、店主が話を促すのを待った。
「相談事は、その奥さんに関することでしたね。川村さんが妻の願いを叶えられないとおっしゃることに、関係があるのですか」
「お察しの通りです。実は先日、妻が入っている施設から連絡がありまして。妻があるものを食べたがっていると言うのです」
「あるもの、とは?」
店主は真剣な面持ちでカウンターから身を乗り出した。
「運命の石――と呼ばれるもの。それをあなた方は御存じでしょうか」