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砂糖菓子のレシピ  作者: 黒崎メグ
2 運命の石
4/15

【1】

「少年、ここ最近うちに入り浸ってるけど、就活や卒論の準備はよいのかい」

 田口がカフェ・アンジェに出入りし始めてから、すでに一週間になる。結局、ティラミスの謎と名前の謎には辿りつけず仕舞いだが、その間に覚えたこともある。店の営業時間だ。  

 カフェの開店は午前十時、閉店は基本的に午後八時だが、週末だけそこから一時間の休憩を挟んで営業時間が深夜まで延びる。そして、定休日は日曜日。あの週末の出来事の翌日、日曜日に店に入れなかったことを除けば、田口は毎日欠かさずこの店に出入りしている。それも昼間を中心にやってくるものだから、店主の心配はもっともであった。

 けれど、店主と向かい合う形でカウンターに座っていた田口は、アイスコーヒーに浮かんだ氷をストローで突き顔をしかめた。

「嫌なこと思い出させないでください。俺にだって事情ってものがあるんですから」

 もちろん、田口とて自覚していないわけではない。それでも田口には思うところがある。田口は、正直このまま就活を行い、ありふれた会社に就職する自分が想像できなかった。

 思えば自分はいつ頃からそう思うようになっていたのだろうか。田口は頭の片隅で思考を巡らせる。

 第一志望の大学に合格できなかったのがそもそもの原因だろうか。母が亡くなるまでは、両親の期待に添えるように一生懸命だった。だが、母の死と大学入試の時期が悪い具合に重なって、田口は母が応援してくれた第一志望の大学に落ちてしまったのだ。そして辛うじて受かったのが今の大学である。田口はそんな大学でできた友人たちとの一時が嫌だったわけではない。講義自体もそれなりに興味深いものであった。何より、母の死で塞ぎこんでいた田口を元気づけてくれたのは、そんな大学での生活と新しい友である。それでも母の死から数年経って、いざ社会に出る時が近づいて、田口は漠然と疑問に思った。

 これで本当によいのか、と。

 あの時は父も塞ぎこんでいたし、田口に浪人するほどの心の余裕はなかった。それは重々承知しているし、今になって悩むことでもないのかもしれない。しかし田口は今でも、自分が何になりたかったのかはっきりとしなかった。この就職の難しい時代に何を贅沢な、と言われてしまそうだが、それが田口の今の思いだ。

 だから一週間前のあの日も、友人である悠斗にそれを相談するつもりでいたのだ。結局相談できず仕舞いに終わったため、あの日の店主に対する怒りは、それらの鬱憤が爆発した結果であったといえる。

今思い出すと気恥ずかしくもあるが、店主との賭けは、その悩みから逃げる恰好の言い訳となっていた。

 そんな田口の悩みも知らず、店主はグラスを洗っていた手を止め、興味深そうに目を細める。

「事情ねぇ。私が納得できるように話してごらん」

 店主の口ぶりは好奇心からくるもののようで、田口にとってはあまり気分のいいものではない。それが表情に出ていたのだろう。店主は困ったように肩をすくめてみせた。

「私は一人で抱え込むよりは、断然ましだと思うんだけどねぇ」

「まるで、経験があるような口ぶりですね」

「そりゃあ、私にだって悩みはあったさ」

「過去形なんですか?」

「正確には〝ある〟なんだろうけど、今は少し前進中だから」

 店主は田口を見てどこか嬉しそうに笑った。

 もしかしたら、店のことで大変な時期もあったのかもしれない。若いうちからこれだけ立派な店を切り盛りしているのだから、田口には推し量ることができない悩みもあるのだろう。それでも「今は前進中」と言える店主は強い人だな、と田口は思う。

 だが強い人だからこそ、田口の悩みに共感してもらえない可能性だってある。それこそ思いを素直に口にしてしまえば、折角見つけた避難所を失うことになりかねない。なりたいものになるどころか、タダ働きという未来に一歩近づくだけだ。

「その……」

 田口は言葉に困り、手元のグラスへ視線を落とした。

 店主の視線が自分から離れていないことを肌で感じる。グラスに浮かぶ水滴のように、背中には嫌な汗がじわりと浮かぶ。このままでは、本音を引き出されるのも時間の問題だ。

 けれど救いの手は、思わぬところから現れた。

「メイさんはいらっしゃいますか」

 メイというのは店主の愛称だ。それを認識した途端、田口の頬を熱気が撫で、店内に広がっていた焼き菓子の香りがふわりと混ざり合った。田口が顔をあげ店の入口を見やれば、強い日差しを背に一人の小柄な影が浮かび上がる。田口は眩しさに思わず目を細めたが、その横でカウンターを抜け出した店主が、早急に来訪者へ駆け寄った。


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