【3】
だが店主は、それに臆することなく目を瞬かせる。
「もしかして知らないのかい」
何を問うているのかわからず、田口の眉間の皺は自然と深くなる。
「その様子だと知らないようだね。ティラミスは昔、夜遊びの前に食べるお菓子として作られたんだよ」
母はそんなお菓子を息子の受験勉強の合間に出していたというのか。田口は彼女の話が信じられなかった。これでは母を馬鹿にしているとしか思えない。
「あんたに母さんの何がわかるって言うんだ」
抑えきれなくなった怒りに任せて声を荒げれば、店主は首を横に振った。
「いんや、私にはわかるよ」
店主が田口を見つめる目は曇りない。その自信がどこからくるのかわからなかった田口は、なおもその言葉を否定しようとした。けれどそれを口にする隙を与えず、店主は言葉を続けた。
「ティラミスは、エスプレッソに含まれるカフェインの効果を利用したお菓子なんだよ。その名前の意味は、私を元気にして。お母様は君を元気づけたかったんだよ」
「元気づける……」
先程まで抱いていた怒りも忘れ、田口は店主の言葉を噛みしめるように口にした。
店主の言葉はきっと間違ってはいない。田口は母のティラミスから、多くの元気をもらっていた。あの時は母のティラミスがあったからこそ頑張ってこられたのだ。田口はそれを嬉しく思う一方で、もうそれを口にできないことをひどく残念に思う。最近は、無性に母のティラミスに元気づけられたいと思う出来事が多かった。
その思いを隠すように田口は、
「確かに、母のティラミスからは元気をもらっていたような気がします」
と呟いた。その様子に店主は慈しむように目を細める。
「では私も、君のお母様のティラミスに負けてられないね。自慢のティラミスに元気の出る魔法をかけてこよう」
言い残して店主はキッチンへと消えた。再び彼女が姿を現したのは五分後。その手には白い皿が載せられている。
「さて、私のティラミスは、君を元気にしてくれるかな」
出されたティラミスは母の丸いカップに入ったものとは違い、細い長方形型をしていた。それどころか、母の簡素な盛り付けとは違い、フルーツとホイップクリームで綺麗に彩られている。その盛り付けを崩すのが忍びなかったが、田口はデザート用のスプーンで、長方形の端を崩した。
何もかも母のティラミスと比べている自分に苦笑して、田口はそれを口へと運ぶ。母の味はもう食べられないのだ。比べたところで仕方がない。それはわかり切っていることだ。
だがそれを口に入れた瞬間、田口は目を大きく見開いた。
「これ、母さんの味だ」
カレーの香辛料で舌がおかしくなっているのだろうか。田口はその可能性を打ち消すために、コップの水をあおり、もう一度ティラミスを口に運ぶ。
ほろ苦いコーヒーの香りが口いっぱいに広がり、その苦みを甘いキャラメルが優しく包みこんでいる。
市販のティラミスにキャラメルを入れることはない。それは甘いもの好きの田口のために、母が使っていた特別なレシピによるものだ。その味を間違うはずがない、という確信が田口にはあった。
「これ、母さんのレシピですよね?」
「さぁて。似ているだけじゃないかな」
田口が問えば、店主は肩を竦めた。その仕草はどうにもあやしい。田口は諦めずに言葉を続ける。
「俺が母さんのティラミスの味を間違えるはずない。それに、ティラミスにキャラメルを入れるなんて普通しないですよ」
「なかなか自信があるじゃないか。もしそうなら君はどうするんだい」
「母のレシピをなぜあなたが持っているのか、教えてください」
母は滅多なことでは、家族である自分達にもレシピ帳を見せたりはしなかった。なのに、他人ともいえる彼女がそのレシピを知っていることが、疑問でならない。
もしかしたら、入口に掲げられた言葉に関係してくるのかもしれない。そして先程のあの言葉――。だが、あれらの言葉が真実だったとしても、その疑問は覆されようのないものだ。
「努力をせずに、簡単に教えてもらえると思っているのかい? ここは一つ賭けをしようじゃないか」
「何を賭けるというんですか」
「君は自分の力でその謎を解いてごらん。そうすれば、私は君に大切なものを一つ与えたいと思う。解けなければ、君にはうちの店でただ働きしてもらおうかな」
田口は眉を寄せたが、女性にここまで言われては、男として引けないところだ。田口は賭けを受けることにした。
「わかりました。その賭けを受けましょう。期限は設けますか」
「そうだね。見たところ君は大学生だね。今、何年生だい?」
「四年生です」
「では、君の卒業を期限としよう」
ティラミスの最後の一口を口に入れながら、田口は大きく頷いた。そして空になった皿を見て、物足りなさを感じる。この際、疑問は抜きにして、もっとこのティラミスが食べたいと思った。
その物欲しそうな顔が目に付いたのだろう。店主は、にやりと唇に弧を描いた。
「夜遊びはほどほどにしておくんだぞ、亮平君」
田口は皿に落とした視線を勢いよくあげた。不意打ちもいいところだ。亮平というのは田口の名である。しかし田口はそれを、一度として彼女に名乗ってはいない。母のレシピといい、田口の名前といい、彼女は心底謎が多いようだ。
田口は喉の奥から声を縛り出した。
「どうして俺の名を?」
「さぁて、どうしてだろうね」
そう言って彼女はいっそう笑みを深くした。憎たらしい物言いだが、その顔で言われると受け入れてしまう自分がいる。田口はこの時初めて、厄介な人物に関わってしまったことを少しだけ後悔したのだった。