【2】
そして、人の合間を縫うように歩き、田口が気づいた頃には、目の前に見慣れない扉があった。浮かれていたために正確な道順は覚えていないが、どうやらここは繁華街から少し外れた場所にあたるらしい。その証拠に、先程まで聞こえていた機械音や人々の笑い声は、建物を隔てて遠くに感じられる。あれだけ明るかった照明も、申し訳程度の街灯と店の入り口を照らす暖色灯だけだ。
いや、正直なところ、田口はその店の入り口を見て固まってしまっていた。そこを店と呼んでいいのかすら、田口にはわからなかった。
ビルとビルに挟まれたそこには、白塗りの壁に木目調の扉がぽつんとあるだけだった。白塗りの壁には窓すらなく、中の様子をうかがうことはできない。そこが彼女の働く店だと言われなければ、きっと存在すら気づかなかっただろう。明らかにあの繁華街に建つ他の店とは違う。常連客だけが通う、秘密の隠れ家のような雰囲気が漂っている。
こんな店の食事代が払えるだろうか――田口は好奇心に混じって、不安が込み上げてきた。店内に入ってみたい気もするが、やはり不安が先行してしまう。
田口が言葉を失くしていると、その様子を見て案内人は笑った。
「心配しなくても、普通の値段の店さ。それにあんたみたいな学生からぼったくろうなんて考えてないから」
「ここは何の店ですか?」
「カフェ・アンジェ。私の自慢の店さ」
そう言って彼女は、扉に同化するように掲げられていた木製のプレートを表に向けた。
そこに綴られていたのは、カフェ・アンジェという文字と――。
「思い出の味お届けします?」
田口は店名と共に綴られた言葉を声に出して、首を傾げた。
「思い出の味の料理を作ってくれる場所、ってことなのか?」
「さぁて、ね。何はともあれ、店内にどうぞ、お客さん」
彼女が鍵穴に金色の鍵を差し込めば、小さな金属音がして、恭しく扉が開かれる。次の瞬間、田口が目にしたのは、白と木目で統一された落ち着いた空間であった。
向かって右側にはケーキの入ったショーケースが配置され、その奥には木製のカウンターが続いている。カウンターの背にはカップや茶葉がきれいに並べられた戸棚があり、店の主の几帳面さを表しているようだった。
だが田口が案内されたのは、そんなカウンターではなく、左側のテーブル席である。数段低くなった位置に広がるフロアには、木製のテーブルと白いソファーセットがざっと六つは並んでいる。
その中の一つに腰掛けた頃には、田口は幾分か落ち着きを取り戻していた。外観と違い、内装が普通のカフェとそれほど大差ないからなのかもしれない。窓がないにも関わらず明るい店内は、珈琲の香りと焼き菓子のバターの香りで満ちている。その香りを吸い込んで、田口が大きく息をはくと、女店主はミントが浮かべられた水のコップをテーブルに置いた。
「うちはデザート以外のフードメニューは、日替わりの一品だけなんだ。常連達はそれぞれ好き勝手に注文するから、他のものを用意することもできるけど、日替わりで構わない?」
彼女の言葉に迷う暇もなく、田口の腹が鳴る。そのため田口は、素直に「はい」と頷いた。
「好き嫌いは?」
「ありません」
田口の答えに彼女は、「よろしい」と満足そうに笑い、キッチンへ向かう。その笑顔が可愛らしくて、後ろ姿を目で追いながら、田口の頬はついつい緩んだ。
好き嫌いがなくてよかった、と田口は素直にそう思う。こればかりは亡き母のお陰だろう。母は決まって、田口の苦手を克服する料理を作ってくれた。
先程、田口が思い浮かべていたチキンカレーも、玉ねぎが苦手な田口のために母が作ったのが切欠だった。田口が思い出に思考を走らせていると、キッチンの方から食欲をそそる香辛料の香りが漂ってきた。この香りは正しくカレーだ。口の中にじわりと広がってきた唾液を、田口はごくりと飲み込んだ。一層増した空腹感を紛らわせるために、テーブルに置かれた水を飲む。
そして女店主が、白い皿の乗った盆を手に再び姿を現した頃には、コップの中の水はすっかり無くなっていた。
「待たせたね、少年」
空になったコップを見て、彼女は苦笑を浮かべた。それでもそれ以上言葉は続けずに、テーブル上にカレーライスの盛りつけられた器とスプーンを置く。カレーの具は鶏肉以外、煮崩れて形がないが、彩として添えられたナスとオクラが目に優しかった。
「本日のメニューは夏野菜のチキンカレー。さあ、召し上がれ」
田口は「いただきます」と両手を合わせた後、カレーをスプーンですくい口へと運んだ。
口の中に広がった心地よい味わいに、田口の口から「うまい」と言葉がもれる。
香辛料の辛さと炒められた玉ねぎの甘みが、ほどよい味わいを醸し出している。香辛料の配合は違うが、その味はどこか母の作るカレーを思い起こさせた。これは明らかに、市販のルウでは出せる味ではない。
「喜んでもらえてよかった。ルウから手造りしているから、そう言ってもらえると嬉しいよ」
空になっていたコップに水を注ぎながら、店主は言った。
「本当にうまいですよ。この味は、母のカレーを思い出させてくれます」
田口の言葉に店主は驚きに肩を震わせ、
「お母様の?」
と瞬きをする。
「はい。母もよくルウからカレーを作ってくれたんで」
「へえ、光栄だよ。お母様は料理が得意だったんだね」
「そうですね。高校の頃友人にお弁当を羨ましがられていましたよ。毎日大変だっただろうに、手の込んだ一品も多かったから」
「お母様の料理は好きかい?」
「もう食べられませんが、だからこそ大好きだったのだと、今なら胸を張って言えます」
もう食べられないという言葉に、女店主は悲しみを共有するように目を伏せた。彼女は事情を察してか、深くは追求しなかった。
「君は母親思いなんだね」
「どうなんでしょう。俺なんて、いなくなってようやく母の有難みを感じた奴ですから」
「それでも、気づいた君は偉いと思うな。そんな母親思いの君には、デザートをサービスさせてもらおうか」
「デザート、ですか?」
「うん。甘いものは嫌い?」
「いいえ。むしろ大好きです。お菓子もまた母の手作りでしたから」
母の影響もあって、田口は甘いものが好きだった。母が亡くなってからは、甘いものを口にする機会は減ってしまったが、そんな田口にとって店主の申し出は喜ぶべきものである。
「ならよかった。でも、今日の分はほとんど昼間に売れちゃったから、ティラミスとプリンくらいしか残ってないんだけど……」
「ティラミスがあるんですか」
「おや、少年はティラミスを御所望かい? そんなに夜遊び好きには見えないけど」
「夜遊びってなんのことだよ」
くすくすと笑い声を上げた店主に対して、苛立ちを覚えた田口の口調は自然と乱暴になる。
田口がティラミスを選んだのは、純粋に母のことを思い出したからだ。受験勉強中によく作ってくれたのがティラミスだった。もちろんプリンを作ってくれることもあったが、ティラミスの方が母との思い入れが強い。母の作ったティラミスを食べると、勉強が捗ったものだ。
この人に母との大切な思い出の何がわかるというのだ。受験勉強を一生懸命応援してくれた母の思いは、それに元気づけられて頑張っていた自分にしかわからない。だからこそ田口は、そんな自身の頑張りすら否定されたように思えてしまう。
田口は店主を睨みつけた。