【3】
田口が再び電車に飛び乗り、アンジェに辿りついた頃には、店内は砂糖の甘い香りで満ちていた。田口が店を出てから二時間ほど経過している。カウンターの上をはじめ、テーブルはドラジェがのったバットで覆われている。どうやら川村さんは、ドラジェに居場所を占領されて帰ってしまったようだ。例のカップルはフロアの端で、作り終えたドラジェの包装を行っている。けれどその中に、店主の姿はない。
田口は二人に店主の居所を尋ねようとしたが、彼女はタイミングよくキッチンから姿を現した。彼女は田口の姿を見て足を止め、手にあるノートに目を細めた。
「見つけたんだね」
まるで母のレシピ帳の存在を知っていたような、そんな口ぶりである。
母はここにレシピ帳を持ち込んでいたのだろう。だとすると、田口が欲しい答えを店主が持っている可能性がぐんと高くなる。そしてレシピ帳と共にあの写真を見たことがあったのなら、田口の顔と名前を知っていたことにも納得がいく。
「川村さんが帰り際に少年の様子を教えてくれたから、気づいたのだろうな、とは思ったけれど、こんなに早く答えを見つけてくるとは思わなかったよ」
「母はあんたにお菓子作りを教わっていたんですね」
一拍置いて店主は頷き、
「賭けは君の勝ちだね、少年」
と微笑んだ。
そこでようやく田口は、賭けのことを思い出した。母のレシピ帳を読むのに一生懸命になるあまり、田口は店を出るまで覚えていたはずの賭けをすっかり忘れていたのだ。賭けが終われば、この店に逃げ込むための理由も失ってしまう。だがそれでも田口には、聞かなければならないことがある。
「賭けのことよりも、あんたには聞きたいことがあるんだ」
「何をだい?」
「決してホールケーキを焼くことがなかった母が、どんな思いでショートケーキを作ろうとしていたのかを」
店主は、その質問を予測していたかのように笑みを深くした。
田口はごくりとつばを飲む。
「私にはモットーがあってね。特別なことがない限り、ホールケーキは焼かないんだ。だからお菓子教室でも教えてこなかった。けれど少年の母親、祥子さんはそれを不思議に思ったんだろうね。一年ほど経った頃、彼女は私に尋ねてきたよ」
「それであんたはなんて答えたんだ?」
「ありのままを。聖なる円形の秘密を」
「聖なる円形の秘密?」
田口はホールケーキの形を思い浮かべて、首を傾げた。