【2】
「チキンカレーのレシピもあるな」
けれど田口は、呟いた後、首を傾げた。そのレシピ帳は、田口が思い描いていたものとどこか違う。見開きの左ページには通常通り、母の小奇麗な筆跡でレシピが記されているが、問題は右ページだ。
田口はそこに記されている字を目で追って、目頭が熱くなるのを感じだ。
『亮平五歳。玉ねぎ嫌いの亮平も、喜んで食べてくれた。このチキンカレーは気に入ってくれたみたい。これを機に、玉ねぎ嫌いが直るとよいんだけど……。』
チキンカレーの右ページには、そう記されている。田口がさらにページをめくれば、他のレシピにも同じような書き込みがあった。田口自身のことであったり、父のことであったり、その一言、一言に母の思いが込められていることは明らかだ。
まるで日記帳のようだ――と田口は思った。
事実、それがレシピ帳であると同時に日記帳であるなら、母がレシピ帳を見せたがらなかった理由にもなる。
このレシピ帳には、レシピの数だけ母の思いが綴られている。
母は今までどんな思いで料理を作ってきたのか。そして亡くなる直前までどんな思いでいたのか。
そんなことを考えながら田口は、一番真新しいノートを手に取った。といっても、表紙の日付は五年前から始まっている。ページを順にめくっていけば、五ページと進まないうちに目的とするティラミスのレシピは見つかった。そこには、印刷された紙が貼りつけてある。ティラミスという文字の上にはアンジェの文字。それは先程、店で目にしたレシピと同じ形式をとっていた。間違いなくアンジェのレシピであることは明らかだ。
「母さんは、あの人のお菓子教室に通ってたんだ」
これだけ証拠が揃えば、それはもはや確信だった。店主が母のレシピを使っていたのではない。母が店主からレシピを授かっていたのだ。もしかしたら、四、五年前の母の思い出の味の多くが、店主のレシピにより形成されてきたのかもしれない。
田口はそれを知るために、次々にページをめくる。プリンにミルフィユ、ジャムにロールケーキ。田口が母の手作りの味として口にしたレシピがいくつも、アンジェの文字と共に貼りつけてあった。その一つ一つに思い出がある。その右ページはどれもが母の文字で埋まっていた。田口はそれを懸命に目で追った。
そして、最後のページに行きついた頃、田口はようやくその手を止めた。
そこには、アンジェの文字の入ったショートケーキのレシピと一枚の写真が挟まれていた。
田口はその写真に見覚えがあった。それは田口の高校入学記念に、制服を着て撮った家族写真である。椅子に座った母を囲む形で、田口と父が立っている。現像された写真を見た母は、父と田口の身長差がなくなったことに心底驚いていたはずだ。だが、ショートケーキには覚えがない。田口が記憶している限りで、母がショートケーキを作ってくれたことは、一度としてなかったはずだ。それを証明するように、その右ページは空白である。
母が亡くなったために、作られることがなかったレシピなのだろう。田口はそう結論づけた。
よく考えてみれば、母はホールケーキ自体を焼いたことがなかった。田口の記憶に残るケーキといえば、パウンドケーキやロールケーキが主だった。田口の誕生日ですら、クリスマスが近いことから、ブッシュドノエルだったはずだ。
そんな母がどんな思いでこのケーキを焼こうと考えたのだろうか。
それを考えた時、田口の脳裏に浮かんだのは店主の顔だった。
あの人なら何かを知っているかもしれない。
田口はレシピ帳を手に立ちあがった。