【1】
平日の昼を少し回った時間、地下鉄の車内は空いていた。座席が五割ほど埋まっている程度で、田口は易々と座席に腰を下ろすことができた。
田口の家がある藤丘は終点だ。考えに集中するあまり乗り過ごす心配はない。藤丘まで、駅数で八駅、時間でいうと二十分。それが思考を整理するために田口に与えられた時間だった。
その限られた時間で、田口は思考を巡らせる。
母がレシピ帳を隠すとしたら部屋のどこだろうか。リビングやキッチンにあったなら、今まで誰かが気づいたはずだ。そう考えると、最も疑わしきは、二階の母の自室である。
母が亡くなった時から、部屋は手つかずのまま残してある。部屋はもともと両親の寝室として使われていたが、母の死後、父が客間に寝室を移したからだ。だから、父の物を除けば、部屋から持ち出されたものはなかった、と田口は記憶している。ならば母のレシピ帳も、部屋のどこかに残されているとみて間違いない。
続いて田口は、部屋の間取りを思い描いた。
部屋に入った右手には、クローゼットと母が嫁入り道具として持参した化粧台。左手には、ベッドが二つ並んでいる。クローゼットやベッドは、父が触れる可能性も捨てきれない。そうなるとやはり、母の持ち物である化粧台という線が有力だろう。
化粧台には、台と一体になった引き出しがあり、さらには移動可能なキャビネットが付属していたはずだ。母が引き出しの中身を取り出す姿を、幼い頃に見た記憶がうっすらと残っている。引き出しには宝飾品が仕舞われていて、子供心にキラキラ光る宝飾品に興奮した覚えがある。だが田口は、キャビネットの中を見た覚えはない。
レシピ帳はキャビネットの中にあるのだろうか。
そうこうしているうちに、車内アナウンスが到着を告げていた。
ただでさえ少なかった乗客は、すっかり姿を消している。田口は早足に電車を降り、改札を抜けた。
駅から家までは、田口の足で十五分。駅の構内を抜け、外へ続く階段を上りきれば、まばゆい光が田口を襲う。目が慣れるまで田口はゆっくりと歩を進めたが、目が慣れてくるといつしかそれは駆け足になっていた。
そして、家に辿りついた頃には、額に汗が浮かび、汗を吸った衣服はすっかり重たくなっていた。だが、シャワーを浴びる時間も、着替えを済ませる時間も惜しい。田口は乱暴にスニーカーを脱ぎ捨て、玄関を抜ける。向かうは二階――階段を上って廊下を進んだ突き当たりが、目的の部屋であった。
田口がその部屋のドアを開けると、中からは埃と湿気の入り混じった空気が流れだした。父が休日に時間を見つけては掃除機をかけているが、それでも人が使用していない部屋は独特の臭いがする。
田口はそれを気にせず、化粧台に足を向けた。キャビネットや鏡の上はうっすらと白い埃で覆われている。田口がキャビネットの中を探るために身を屈めると、その息遣いに合わせて埃が宙を舞った。キャビネットを開いた瞬間、田口はその埃を思いっきり吸い込み、咳き込んだ。
「うわ、埃っぽ……」
田口は悪態をついて顔を背けかけたが、視界の片隅を掠めた物の存在に、その動きを止める。今まで咳き込んでいたのが嘘のように、田口はその一瞬、息をするのも忘れた。
そこに入っていたのは、十数冊にも及ぶノートだった。
それは何の変哲もない大学ノートだったが、母がそれらを使う必要性はレシピを記す以外に思い至らない。
田口は、恐る恐るノートを手に取った。表紙に記されているのは、そのノートを使用した期間だろう。そして手から伝わる感触は、思いのほか重い。紙を貼り付けてあるページもあるようだから厚みもある。そのままノートを開けば、それはやはりレシピ帳だった。