【3】
「幸福の種?」
「そう、幸せを掴んだ女性が、その幸せをお裾分けするために配るお菓子だよ」
返された答えに、田口の疑問はさらに増す。
「幸せを掴んだ女性となると、あんた、何かよいことでもあったのか」
「私もそうだと嬉しんだけどね。だけど今回は、残念ながら私のことじゃないんだ」
「じゃあ誰が……」
田口の問いに店主は、川村の左隣に座る男に視線をやった。女性と限定しながら彼に視線をやる意味がわからず、田口は再度首を傾げる。それに店主は苦笑を浮かべた。
「意味がわからないという顔をしているね」
「女性と言っておきながら、これじゃあ混乱するに決まってるだろ」
「はは、正確には、その女性のパートナーが彼だと補足しておこうか」
「パートナー?」
田口がオウム返しに言葉を口にした、ちょうどその時、
「智子、手伝うよ」
と、男が音をたてて立ち上がった。
田口が驚いて視線を向けると、キッチンから姿を現したのは、黒髪をシュシュで結いあげた見知らぬ女だった。その見知らぬ女は店主より少し若い。
田口が感じた気配が二つあったのは、どうやらその見知らぬ女が原因らしい。そこで田口は彼女を目で追った。
女は青いシャツワンピースの上に、花柄のエプロンを身につけている。それは明らかに客がするような出で立ちではなかった。そして彼女は、その両手に店主と同じ三十センチくらいのガラス瓶を抱えている。よくよく凝視すると、その中味はオレンジ色がかった沢山の木の実のようだった。
あれはアーモンドだろうか。
田口がそれを認識する合間に、男は若い女に駆け寄って、その大きな瓶を受け取った。どうやら、店主のいう幸せを掴んだ女性とは彼女のことらしい。男がカウンター席でそわそわしていたのは、彼女がなかなか姿を現さなかったからなのだろう。
そんな彼らのやりとりに微笑ましそうに目を細めた店主は、再び田口に目を向け、声をあげた。
「少年も突っ立ってないで、手伝いなさい」
「何で俺が……」
「女性が大きな荷物を抱えていて、何も思わないのかい」
出会った当初なら進んで手を貸しただろうが、彼女に散々小言をいわれるようになった身としては、素直に手を貸す気にはならない。
まったく動く気配のない田口に、続けて声をかけたのは川村だった。
「亮平君、私の代わりに彼女に手を貸してあげて欲しい」
川村は足が不自由だから、手伝いたくても手を貸せないのだろう。流石の田口も、その言葉には動かざるを得ない。
田口は席を立つと、店主のもとへ向かい、渋々その手から瓶を受け取った。
「あそこのテーブルに運べばいいのか?」
店主はそれに頷くことで返して、自分は早々にテーブルへと足を向ける。
瓶自体は成人男性にとっては大して重いものではなかったが、この大きさがあれば足元も見えづらい。田口はテーブル席とカウンター席を隔てる段差を慎重におりて、テーブルに瓶を置いた。
その横には同じように、男の手によって瓶が置かれる。瓶の中に入っているアーモンドの数は軽く千を超えそうだ。瓶二つ合わせれば、三千粒以上の数になるだろう。
こんなに沢山のアーモンドを、田口は見たことがなかった。
テーブルの上に準備された器具から、このアーモンドで何かを作ろうというのはわかる。しかし、材料は見たところ、これと砂糖だけだ。たったそれだけで作り出せるものが、田口には思いつかない。ましてや作ったところで、この数をいったいどう処理するのか想像もつかなかった。友人知人に配るにしてもたかが知れているし、自分で食べきれる量でもない。
田口は自ら沢山のアーモンドを頬張る姿を想像して、眉を寄せた。
「材料はアーモンドと砂糖だけだろ。こんなにたくさんのアーモンドからどうやって幸福の種ができるっていうんだよ?」
「あら、幸福の種を知っているなんてなかなかロマンチストなのね」
田口の言葉を聞いて、瓶を運び終えた男の隣に寄り添うように身を寄せた女から、軽やかな笑い声があがる。
「少年がロマンチストねぇ」と店主も釣られて笑い声をあげた。そんな彼女達の様子に、田口は隣に立つ男と顔を見合わせる。女性というものは時に理解し難いことがある。
「ご迷惑をお掛けして申し訳ない」
男は田口に謝罪を口にした。こうして近くでみると、服装はしっかりしているし、眼鏡の奥から覗く目は優しい。言動からも察することができるように、大学生である田口の周囲にはいない誠実な男のようだった。田口も自然と彼に好感が持てた。
なので、田口は迷わずその疑問を言葉にすることができた。
「いえ、あの人の言動には慣れましたから。ところで、気になることがあるんですが」
「僕に答えられることかい?」
「はい。あの人は、幸せを掴んだ女性のパートナーがあなただと言っていました。そんなあなただからお聞きします。彼女の掴んだ幸せとはいったい何なのですか?」
男は目を瞬かせた後、
「僕らはもうすぐ結婚するんだよ」
と、幸せそうに微笑んだ。