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魔を掴む  作者: volare
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第八話

 当吾とアイリンシアが獅子熊討伐に参加を決めた後、アシュレイは当吾を外に連れ出した。その手には練習用の剣を提げている。

「獅子熊と本気でやりあうには人と人で訓練しても仕方がないんだが、ここは一つでも多く経験というのが物を言ってくる。青年はあの熊とやりあって、一つ強くなった。それはな、簡単に見て取れる」

 アシュレイはそう当吾を褒めながら、剣を抜いた。それは刃を潰しているにも関わらず、人くらいなら簡単に斬れそうな気がした。

「おっと、そうだった。青年の剣は熊とやり合ったときに折れたんだったな」

 別のものを取ってこようか、とアシュレイが納屋に行こうとしたが、当吾はそれを止めた。

「いいよ、アシュレイ。今、自分で作るから」

「はぁ?」

 アシュレイは意味が分からないと言った様子で当吾を呆けた顔で見ていた。

 当吾は、集中しながらそれを思い描く。昨夜、折れてしまった自分の斬れない剣を。

 体の芯から鉄砲水が流れ出る錯覚。手の中にそれは集まり、まずは細い棒になり、次第に剣の形を作っていく。そして、当吾の手の中には一本の剣と呼んでいいものが出来上がっていた。

 とはいうものの、それはよく見れば真っ直ぐな刃をしていなかったし、所々歪んでいた。正確に想像しても創造しきれなかったのは、おそらく当吾の力量がその程度だからなのだろう。

「…どうだい?悪くないと思うけど」

 練習用の剣としてはね。と付け加え、当吾はアシュレイにそれを見せるように構えた。当のアシュレイは、驚きを隠せない様子で、当吾が創り上げたその剣をまじまじと見ていた。

「ああ、悪くないぞ、青年」

 アシュレイの声はやや震えていたが、それは嬉しさからなのか、またはそれ以外の感情からなのかは当吾に判別できなかったが、嬉しそうなのは確かだった。

「創製魔法、か。よくもまあ、そんな大きなものを創り上げられたものだ。しかも一瞬で」

「初めて使った魔法がこれでね。まあ、作ったのは針程度のものだけど、要は力加減と大きさの違いだけだって気付いたから使ってみた。結果がこんなものだけどね」

 あの獅子熊を斬れる気がしないけど、と当吾は魔法で作った剣を構える。

 アシュレイも、それに釣られて剣を構えた。

「青年、お前はどうして平気なんだ?」

「どういう意味?」

 質問に質問で返してしまったが、アシュレイの質問が分からない。

「…じゃあ、質問を変えよう。今、頭が痛くなったり疲れてたりするか?」

「いいや、特別。ああ、でも今朝の鬼ごっこの疲れが少しだけ足にあるかも」

「それだけか?」

「…それだけです」

 振り下ろし。

 珍しく彼から動く。力と気合の乗った充分な一撃だ。

 当吾はそれを創り上げた剣で受け止め、手に伝わってくる衝撃でそれを落としてしまった。

「ぐ、し、痺れる…」

 思わず声が漏れたが、アシュレイはそれには気にも留めず、当吾が創り上げた剣を握っていた。そしてそれを観察している。

「折るつもりでやったんだが。折れるどころかひびもないな。いいねぇ、青年。実に優秀だ」

 それをこちらに投げて、当吾は痺れの残る手で受け取る。確かにあれだけの衝撃を受けてなんともないようだった。

「普通の魔法士はそれだけのものを創り上げるのに一日かかる」

 アシュレイはそれを指さしながら言う。

「さらにそれだけの硬度にするのに更に二日。人を斬れるようにするのに更に一日。分かるか?俺の言いたい事」

「まあ、何となく」

「羨ましいよ。誇れ、それは充分君の才能だ。創製魔法は貴重だからな。それだけで食っていける」

 武器を高速で創り上げて売り捌けばお金に困らない。食いぶちに困った時の手段は分かったが、そんなことを言われても困る。

「それに、剣の質も変わったな。死線を一つ越えるだけでこれだ。若いのっていいねぇ」

 感慨深くそう言っているが、言葉の端に少しだけ怒気が混じっていた。負けず嫌いにもほどがある。

「俺も勘を取り戻したい。ついでに君も鍛えたい。幸い、君は叩けば叩くほど伸びる、熱した鉄のような男だ。難しい理論なんていらないだろう?」

 剣を肩に担ぎ、まるで幽鬼のように彼は立っていた。ゆらり、とでも霞んでいくような希薄さが目の前にある。

 たっ、と何かを蹴る音がしたと思えば、すぐ横に褐色の男が既に剣を振り下ろすところだった。

 一瞬の逡巡。

 それの攻撃を、体をずらして躱すが、振り下ろしからの斬り返しが鋭い。剣でそれを防ぐ。

 しかし、勢いは全く止まらない。

「う、あ」

 気付けば当吾の足は地面から離れていた。心地の悪い浮遊感が体を駆け巡り、彼の体は積まれていた藁の山まで吹き飛んだ。

 何が起きたかは理解できる。しかし、理屈で説明できない状況であった。

 当吾は藁から這い出て、口に入った藁屑をぷっと吐きだした。

「この前とは全然違うな、アシュレイ」

「…あばらの2本は折るつもりだったんだが、どうやら予想以上のようで」

「それが本気?」

 当吾は聞いた。

「全然」

 アシュレイは間髪なく答えた。

 はっ、と息を吐き出して当吾は飛び出した。現在の最高値の速度で彼に迫る。

 速度と重さの乗った突きを褐色の男目がけて放つ。普通の人ならこれで死ぬであろう一撃を、当吾は躊躇もなく放った。

 その攻撃に対しアシュレイは剣を振り下ろすことで弾き、死に体になった当吾の体に蹴りを入れた。

 体を貫く衝撃と先ほどを超える浮遊感。当吾の体は回転しながら宙を舞い、そのまま地面に落ちた。幸い、受け身は取れたため大事には至らないが、それでも体に残る傷は大きい。

「気絶させるつもりでやったんだが、まだだめか。昔なら今ので殺してしまうときもあったんだが、まあこれも年ってことで」

 今の殺人キックをした男の台詞は淡々としており、全盛期のこの男はどんな化け物だったのか知りたいようで知りたくない当吾であった。

「もしかしたら、青年が丈夫なだけなのかもしれないが」

 一足で立ちあがった当吾の間合いに入る。格闘ゲームで言う起き攻めを今実感した。

 剣を持っていない手が拳を作り、当吾に迫る。それを剣の腹で受け止めるも、また足が地面を離れた。

 吹き飛ばされながら、当吾は見た。アシュレイという人間の魔力を。その全身に溢れんばかりの充実を。

 当吾はそれに対して比較対象を知らない。それが多いのか、それが少ないのか、これが強いのか、これが弱いのかは全く判断できない。しかし、これだけは言えた。

 これは凄い。

 まだかじった程度の魔法しか使えない当吾ですら分かる。これはとても凄い。

 全身に魔力を帯びながら戦うがどれだけ繊細で、どれだけ大胆なことか、ちょっとの動揺だけで簡単に霧散してしまうであろう魔力をこうして保てるアシュレイが、どれだけ凄いか。

「…凄いなぁ、アシュレイ」

 感動が口から出ていた。

「だろ」

 褒められた男はさも当然のように笑い、まだ着地していない当吾に追撃をかける。

 だが、やられるだけの当吾ではない。

『土よ、動け』

 魔法を発動させ、着地点に足場を創る。更にアシュレイに向かって大きな土の壁を複数生成する。

「しゃらくさい!」

 ぶつかるだけで土の壁を破壊していくアシュレイの姿に恐怖と興奮を覚えるが、当吾は強化した脚力で、自ら生成した壁を蹴り倒す。その壁の倒れるのを利用しながらアシュレイに牽制をかけ、壁伝いに彼の後ろに回り込む。

 倒れてくる壁に一瞬気を取られながらも、彼は当吾の姿を捉えた。

 しかし、その一瞬がほしかった当吾は構わずにアシュレイに剣を振る。

 当吾の予想ではアシュレイは壁を受け止めて、剣が当たると踏んでいた。しかし、現実は違った。

 倒れてくる壁を、その刃がつぶれているはずの剣で薙ぎながら回転切りのように当吾に剣が迫っていた。

 でたらめだ。確かに簡単に壁を壊されたが、一瞬の隙すら意味がないのかと、当吾は憤慨し、諦め、迫りくる剣を甘んじて受けた。

 その今までとは勢いの違う剣を生身で受け、当吾は激痛のあまり気を失った。



 激痛で眠り、激痛で起きる経験をした人はどれほどいるのだろうか。

 もしかしたら戦時中では全く珍しくなかったのかもしれないし、自分の言っていることはこの世界の人にとっては当たり前なのかもしれない。

 当吾は腹部の鋭い痛みを目覚まし代わりに覚醒する。

 どうやら寝かされていたらしく、居たのは自分の部屋。気付けば腹部には包帯が巻かれており、その上から当吾には読めない字が刻まれていた。そこに魔法のような力を感じることから、おそらく魔法具の一つなのかもしれない。

「お、目が覚めたか」

 淀みのない声が隣からした。そこには金髪の麗人がまるで看病していてくれたかのように椅子の上に座っていた。その手には当吾の教科書が握られている。

「暇なんでな。少しでも頭に入るかなと思ったが、全く意味をなさなかったよ。まあ、絵を見る分には問題なかったが、文字はまるでダメだった」

 パタンとそれを閉じると膝の上に置く。

「さて、記憶に問題は?最後に何をしていたか覚えているか?」

 当吾はその問いに首を上下に動かす。

「そうか、目を覚ますのも早かったし記憶も問題ないか。丈夫なんだな、異世界人って」

 彼女のしなやかな指が包帯に触れる。その際かがむように当吾の前に立つようになり、彼女の長い髪が当吾の眼前にある。いい匂いがした。

「確実に折れてたんだが、回復も良いようだな。まあ、明日になれば動くには問題ないだろう」

「折れてたのかよ」

 思わず声に出してしまった。確かに凄そうな攻撃を喰らったが、手加減してくれているとばかり思っていた。

「刃のない剣だったからいいものを、真剣だったら今頃胴体が離れているな。それにしても土壇場で魔力で防御していたと聞いたからそんなに心配していなかったが」

「…心配してくれてないのかよ」

「おや、心配してくれる女の方が好きか?」

 そりゃ冷静な反応をしてくれる女性より、大げさに心配してくれる女性の方がありがたみが大きい。しかし、目の前の女性ではそれは期待できそうにないな、と当吾は思ってしまう。

「嘘だよ。本当は随分心配したさ。なんせ、君は私を名前で呼んでくれる男だからな」

 意味深長な言葉だった。

「ああ、気にしないでくれ。つい、な」

 彼女にしては作り笑いをして当吾に向き合う。当吾もそれについて追及したかったのだが先手を打たれてしまった形になってしまう。

 それから会話がなかった。

 お互い会話の切り口がなく、何を話せばいいかも分からない。彼女も何かしゃべった方がいいのかと迷っているみたいだったが、結局何も言わない。

 気まずかった。

「お兄さん起きてますか?」

 部屋の扉を開けたのは、この家の長女アドニアだった。

 やや灰がかった肩まである髪に、負けん気の強いツリ目が特徴であり、この家で最も常識人でもあった。

「お母さんがご飯を運んでと言ったので持ってきました」

 彼女の手にはお盆があり、その上には湯気立つ料理があった。

 それを見ると何だか食欲がわいてきた。窓を見てみると既に日は暗くなっており、アシュレイと勝負していたのは昼過ぎだったため随分寝ていたと気付いた。

「ありがとう、アド」

「どういたしまして、お姉さんの分はメルが運んできますから」

 気付けば扉にもう一人の子供が来ていた。緑色の後ろでまとめられた長髪にやや目じりは下がっている女の子。この家で最も扱い難い子だった。

「はーい。メルティナが来ましたよ。はい、アイ姉さんの分です」

 ややぶっきら棒に言うアドニアとは対称にメルティナは元気よく、というより愛想よく言う。

「ありがとう、メル」

「どういたしまして、ところでアイ姉さん。トーゴ兄さんとどこまでしましたか?」

 この家で最もマセている子でもあった。まだ11歳だと言うのに。

「…メル。もういいでしょう。迷惑になるだけよ」

「どうして?アドも気になるって言ってたじゃない」

 その発言にアドニアは顔を真っ赤にさせて、メルティナの首根っこを掴み、そのまま引きずるように部屋の外に出て行った。まったくもって騒がしい姉妹である。

「ハハハ、楽しいな」

 聞かれた当人は質問の意味を分かっていなかったのか、それとも答えるに値しないのか、誤魔化していた。

「兄弟は仲良くしないとなぁ。やっぱり、家族なんだから」

 そう言う彼女の目は寂しそうだった。これも追及してはだめな言葉なのだろう。

 持ってきてもらった食事に手をつける。肉はあの熊の肉だった。それ以外は野菜のスープに米によく似た穀物。

 元の世界に比べたら淡白な味だが、とてもおいしいものである。何というか、初めてこの世界の食事を食べるときに、虫でも出されるのかと困ったが、一部の地方では食べるらしいので、どこの世界も似たり寄ったりなんだなとその時思った。

 隣の彼女は静かに食事していた。その佇まいは優雅と言うほかなく、声をかける気も失せるというもの。しかし、何もしゃべらない食事もあまり楽しいものではない。

「一つ聞いてもいいか?」

「なんなりと」

 彼女の反応は淡々としていた。

「兄弟とかいるのか?」

 先ほど聞かない方がいいと思ったが、やはり気になるものは気になるもので、それに会話といえばやっぱりこうして家族の話とか趣味とかそういうのを皮切りにすればいいはずである。いきなり専門分野の会話をしても普通の人は付いてこないものだ。特に理系関係の人間は。

「…そうだなぁ。兄たちが4人ほど。が、あまり顔を合わせないな」

 いきなり空気が重くなる。それにしても兄弟が多いものである。やはりアシュレイの事を考えて、良いところのお嬢さんなのだろう。

「そういうトーゴは?」

 会話に乗って来た。それが少し嬉しかった。

「父親と母親、言い難いが兄が1人失踪中」

 あまりにも自慢できない兄でもある。

「母親…。君の母上はどんな方だ?」

 父親とか失踪した兄には興味ないように、彼女は母親の事を聞きだした。

「俺の母さんは、とにかく厳しい人でね。何かを間違えるたびに怒鳴り散らしたもんだ。夜中だろうが、近所迷惑になろうがお構いなくだ」

「楽しそうな人だな」

「うるさい人なんだよ」

 事実、一日に一回は何かで怒る素晴らしい母親だ。しかし、これで短気なのかと言われれば違うと反論する。物事を深く考えてからそれでも違う、間違っていると判断してから怒るのだ。気に食わないから怒るという性質の悪い人種ではない。それだからこそ、当吾は尊敬している。

「アイリンシア」

 思わず彼女の名前を言ってみた。

「なんだ、トーゴ」

「君の母親はどんな人なんだ?」

 その問いにアイリンシアは少し俯いた。というよりは表情が少しだけ翳った。

「君の問いには悪いが、答えられないんだ。私の母上は、小さい頃に亡くなってね。何も覚えてないんだ」

「あ、そ、それは悪い事を聞いたな」

 しどろみどろになって言葉を紡ぐ。

「いいんだ。いないからこそ、母親が気になるのかもしれないな」

 殊更寂そうな顔を作る彼女に、当吾は何も言えなくなった。

 母親がいるのは当たり前、だが絶対ではない。

 それはどこの世界、社会でも同じだ。生まれてくるには母親が必要だが、育っていくには絶対とはいかない。しかし、倫理上、道徳上母親は必要な存在である。何かが欠けた状態でまともなものは育たない。

「何も覚えてないが、皆こう言っていたな」

 この場合の皆とは誰の事なのか、何故か気になった。

「とても強くて、恐ろしい女性だったそうだ」

 言葉に詰まる。

 実に困った。

 この世界で言う強いというのは腕っ節の強さであって、心とか精神的な強さではないのは確かだ。おそらく、自分の母も強いが、そういう意味の強さでは絶対にないだろう。彼女の様子を見る限り、血で雨を降らせたとか、その域の人物なんだと当吾は勝手に思い込んでしまう。

「母親似なんだな。お前は」

「腕っ節の強さだけなら、私の方が上らしいがな」

 また困る返し方だ。こちとら理系の人間だ。会話は専ら専門系か趣味のこと。それ以外の話題は作りだせない悲しい人間だ。

 だから、逃げることにした。

「ちなみに父親はどんな人なんだ?アシュレイと兄弟なんだろう?」

 アイリンシアはこちらの顔を見据え、少しだけ目尻を下げた。ああ、逃げたなお前、と無言で非難された気がするが、気にしないことにした。

「叔父上とは全く感じの違うお方だ。寡黙で欲深い、そういう意味では人間らしい人かもしれないが。さて、次は君の番だ」

「残念ながら自分の父親は口数の少ない普通の男さ。いつも母さんに怒られながら生活している人だ。まあ、だからこそ仲がいいんだろうけど」

 喧嘩するほど仲がいいと言うが、当吾はこの解釈を別に思っている。喧嘩できるだけ、その両人は知り合いであって、顔も知らない同士で喧嘩なんて始まるわけがない。喧嘩ばかりしていて仲が深まるかといえば、当吾は否と答える。

 結論を言うなら、自分の父親は完全に母親に尻に敷かれているのだ。この構図は付き合い始めてから変わってないらしい。まあ、両人が納得の言っている家族体系ならば文句はない。浮気をされないだけましだろう。

「…楽しそうなご両親だな」

 話聞いてたか?と思いたくなるが、よほどアイリンシアの家族は酷いのかもしれない。しかもこの世界は当吾の予想だと中世ヨーロッパにとても近い文化形成であって、戦争も絶えないようだ。

 当吾の世界のごく一般の家族の方が珍しいのかもしれない。

「さて、私はこれでお暇させてもらおうか。明日は早い。もしかしたら獅子熊に食われてしまうかもしれないしな」

 アイリンシアは自分の食事を終えるとすくっと立ち上がった。その立ち上がる動作すら優雅である。

「傷は明日には完治しているさ。君はどうも生命力良いようだからな」

 立ち上がって、寝台で上半身だけ起き上がっている当吾を見て、アイリンシアは何か考えているようだった。そのたおやかな指で当吾の顎に触れると、金髪の美女が顔を近づけてきた。

 そして、その紅色の唇を当吾の唇にあてがった。

 言葉もなかった。出せるはずもなかった。

 当吾にとってそれは初めての接吻で、何も心の準備もなかった。頭は白く染まり、思考は停止している。

 ゆっくり唇が離れた。お互いの唇の糸が切れる。

 彼女は垂れた自分の髪を右手で掻き上げ、左手でまだ当吾の頬を触れていた。

「おまじないだ。とても利くとの噂だ」

 素っ気ないとも思えるような台詞だった。

「…俺、接吻は初めてだったんだが」

「案ずるな、私もだ」

 彼女はなんら気恥しさもないらしく、ひたすら赤くなっているのはこちらだけのようだった。

「これがどういう行為か、分かってやったのか?」

「当たり前だ。私とて相手は選ぶ」

 彼女の淡々とした言葉に対し、当吾は胸が熱くなるばかりだった。おそらく情けない顔をしていることだろう。彼女は少しだけ微笑んでいるのは、そんな当吾の顔を見ているからに違いない。

「私は君に死んでほしくないんだよ、トーゴ」

「…俺もお前には死んでほしくないよ、アイリンシア」

「そうか。それは嬉しいことを聞いた」

 その言葉にアイリンシアは笑った。綺麗な、というよりは上品な笑いだった。

「では明日のためにゆっくり休め。もしかしたら最後の休息かもしれないがな」

「縁起でもないことを言わないでくれ」

「では、お休み。トーゴ」

 最後はまるで家族が言う様な言い方だった。

 そのまま彼女はお盆を持って部屋から出て行った。匂いも気配もまだ残っている。

 当吾はこのまま眠れそうで眠れない気がしてきた。それだけ、強烈な一撃だった。

「おまじない、利きすぎだ」

 当吾はひとりごちて、そのまま横になった。


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