第六話
獅子熊の雌を倒したという知らせはすぐに村中に伝わった。
その知らせに喜ぶものもいれば、逆に見つかってしまって現実に打ちのめされたものもいる。
アシュレイに至っては、後者だった。
「…危なかったな、青年」
声にやや力がなかったが褐色の男は当吾に対して声をかける。
「出来れば一人で倒したかったが、彼女に助けてもらった」
「ハハハ、言うじゃないかトーゴ。死にかけた癖に」
少しだけ強がっているのが分かったのか、金髪の麗人はトーゴに人好きのする笑みでからかいながら、アシュレイに相対した。
「……アイリンシアか?」
その時アシュレイはトーゴが見たことがない顔で彼女の顔を見ていた。そこから覗き見れる感情は、複雑すぎて当吾には分からない。ただ、一つだけ分かったのは「会いたくなかった」という不思議な感情。
「……こんな所にいたのですね。叔父上」
アイリンシアはアシュレイの事をそう呼んだ。
その時、アシュレイは何かを言おうとしたようだったが、寸前でそれを飲み込み、そのごつい手で顔を一瞬覆い隠して、普段の平静を取り戻した。
「ああ、久しぶりだな。6年ぶりかな?」
「最後に稽古をつけてもらってから7年経ちましたよ」
「ああ、そうだったな」
お互いの顔に叔父と姪という関係以上に複雑な何かを当吾は感じ取った。この二人の間には凡そ自分が立ち入れる隙もないというのも同時に感じ取る。
「青年もお前も疲れただろう。俺の家に来い、歓迎するぞ」
アシュレイは当吾の顔を見て、まるで自分が助かったかのように言葉を続けた。勿論、誰もがアシュレイとアイリンシアの間にある奇妙なものに気付いていたが、誰も何も言えなかったのである。
「皆、その熊の肉は全部運んで、血に濡れた場所は心苦しいが燃やしていけ。あの雌はただ飢えてただけでここまで来たんだろうから、他の雄たちもいないとは限らないからな。獣は総じて火を恐れる。さあ、皆急げよ」
アシュレイを始めとする村の狩人たちはここに来るや否やすぐに森を警戒していた。雌の独断専行も珍しかったが、彼らは獅子熊が森以外を活動しているとは思わなかったのである。だから物見櫓から当吾が熊と戦っているのを見て俄かに信じられなかった。
しかし、そこで一刀両断された死体をみると、食料として持ち運び、他の熊が来ないように警戒しているのであった。
「熊の肉って美味いのか?」
「ああ、煮込むなり焼くなり好きにな。特に獅子熊の肉は高値だし、他の熊より肥えてる。栄養も比べようがない」
当吾の疑問にアイリンシアは間髪答えてくれたが、その視線はアシュレイを見ていた。それが内心面白くない。
「焼いてもいいが、結構弾力性があって食い難いぞ」
アシュレイが付け加えた。剣で切り分けた獅子熊の肉の断片を抱えながら帰路についている途中だった。今回の功労者であるアイシンシアに対してか、もらえた肉はあの熊の一番おいしい所らしく、最も量が多い。それに村の人たちはアシュレイの所が大所帯だというのが分かっているからこその量なのかもしれない。
当吾が後ろを振り返ると、先ほどまで立っていた場所に火が放たれていた。月明かりで充分な明るさだから誰も松明を持っていなかったが、おそらく魔法で火をつけたのだろうと、適当にあたりをつけ当吾は、急に寒くなった。
「さて、誰かは説教の時間かな」
「え、あ、なるほど」
アシュレイがそう言うと、家の中では普段見せない表情のマルシェルカが食卓の椅子に座っていた。その表情から窺えるのはとても簡単だった。当吾の母親も似たような、というよりそっくりな顔を良くしている。あれはとても怒っている。
「トーゴ。私はなんと言いましたか?」
普段怒らない人ほど怒った時が怖いというのは本当らしい。
言葉の端に感じられる怒気は正直に言って心折られる。
「…森には近づくなとおっしゃいました」
「それなのに、どうして森に近づいたのですか?」
正直に言ってもいいが、その当人がいるここでいうのはとても恥ずかしいものだ。しかし、目の前の姉のような人の目は隙もなくこちらを睨んでいる。レイヨール達が寝ていて助かった。母親のこんな顔を見たら、絶対に接し方が変化してしまう。
「早く答えなさい。お客様も待たせているのよ」
「…そのお客様が屋根の上から見えたもので、つい」
「つい、で獅子熊に襲われたのですよ。少しは考えなさい。あなたはここにきて短いですが、いなくなれば家族の皆が悲しみます。特に懐いていた子供たちが。それでも良いのですか?」
どこか悲痛な訴えでもある。確かに、この世界にきて一週間近く、この家族とは変な絆で結ばれてしまっているのは当吾も分かっている。そこまで考えていなかった事実もそうだが、この家の母はここまで考えていたのはとても意外だった。とてもうれしく感じた。
「…反省しています」
「よし、ならトーゴには罰として私の事を姉さんとでも呼んでもらいましょうか?」
機嫌が良くなったと思えばこれだ。女性は恐ろしい。
「ハハハ、どうしてトーゴはこんなにも愉快なんだ。ああ、もう楽しくて堪らん」
まるで男のように腹を抱えて笑うアイリンシアに、トーゴは微かな苛立ちを感じるも、言い返すことも出来ない。
「あら、トーゴは面白そうな人を連れて来たのね。こんばんは、アシュレイの家内のマルシェルカです」
「初めまして、アイリンシアと申します。私も叔母上より姉上とでもお呼びいたしましょうか?」
その軽口にマルシェルカは不思議な返し方をした。
「……」
無言である。
その顔には酷く困惑の表情が浮かんでおり、しきりに台所に入って行ったアシュレイを見ていた。そこでアシュレイが出てきて困惑したままのマルシェルカに首を縦に振った。
「あ、ご、ごめんなさいね。こんな綺麗なお客様初めてだったもので…」
明らかな嘘だった。照れ隠しに頬に手を寄せて自分の笑みを誤魔化そうとしている時点で当吾はこの反応に戸惑ったが、今思えばアシュレイもそうだった。
マルシェルカの嘘に気付いているはずなのにアイリンシアも作り笑いで応対し、結局姉上という呼び方に決めたようだった。
アシュレイにさきほどのことを聞こうと思ったが、アシュレイは一瞬複雑な顔でアイリンシアを見ては肉の切り分けに入り声が掛けづらい。マルシェルカにそんなことを聞けるはずもなく、当吾は諦めるしかなかった。
気付けば既に深夜だった。
大きな満月には薄く雲が生え、まるで絵具をにじませたかのような白い夜が空にあった。
アシュレイは先ほどの肉を切りそろえ塩漬けにして保存をし終わり、マルシェルカは流石に眠いのかすぐに寝室に向かっていった。
それに対し当吾は不思議なくらい睡魔に襲われず、ただアイリンシアとアシュレイの間に流れる得体の知れない空気を眺めるだけだった。
「何しにここに来たんだ?アイリンシア」
重苦しい雰囲気に耐えかねて口火を切ったのはアシュレイだった。
「休暇を貰ったので、適当に東に足を向けただけだよ、叔父上」
「休暇?そう、珍しい事もあるんだな」
「ええ、18年生きてて初めてですよ」
酷いこともあるんだな、と当吾は会話に入ることを諦めた。
「討伐組合から派遣されたならまだ心は軽かったんだが、いや…止そうか」
「それらしいのなら来るときに会いましたよ」
「そうか。なら、いいんだ」
二人の会話はなぜか息が詰まる。
それに討伐組合といえば獅子熊を討伐出来るだけの実力者が派遣されてくるはずである。今回、相対して分かったのは、飛び道具もあまり発達していないこの世界で、どこまであんな熊に対抗できるのか。
そのために魔法があるのだろうが、当吾はまともな戦闘用魔法を一回も見たことがない。
やはり、火とかが飛び出すのだろうか。
「青年大丈夫か?」
「え?」
「腕、震えてるぞ」
抱えていた腕が小刻みに動いていた。否、震えていた。当吾はそれをなんとか抑えようと残った腕で片方の腕を抑えようとするが、それが伝播してしまい、挙句の果てには全身が震え始めた。
心の底と脳が感じた恐怖。突然の出会いに麻痺していた感覚がようやく正常に戻り始めた。一生に一度しかないような出会いを2つもした時点で、感覚が狂っていた事にようやく気付いた。
「青年。よく持った方だ」
震えている理由に気付き、アシュレイは声を掛けるが、当吾の震えは止まらなかった。しまいには椅子の上で両膝を抱え、そのまま少女のように震えている姿を、当吾は晒してしまっていた。
他ならぬ恩人二人に。
突然の命の取り合い。突然の実戦。よくも自分の体は、心が持ったものだと思う。
こうして時間をおいて、恐怖で縮こまってしまうような情けない男だったんだ、と当吾は自分を再認識した。
「トーゴ。剣を握って間もない上に、君は戦士じゃない」
淀みのない声を放つのはアイリンシアだった。彼女の自分を庇う言い分は嬉しいが、男としては些か悲しくなる。
「青年、もう休め。明日にはあいつらの肉を食わせてやる。その頃には良くなってるさ」
「…ハハハ、何だか楽しみになって来たよ」
「そうだ。その意気だ」
アシュレイは髭の生えたその厳つい顔を朗らかに崩し、人好きのする笑顔でこっちを見据えた。
「…先に休ませてもらうよ。アイリンシアはどこに?」
「私か?私は寝れるなら床でもいい。実際野宿しながらここまで来てしまったものでね」
なんというたくましさか。しかし、簡単に野宿する様を連想出来てしまえる時点で嘘でもないだろう。
「…床に寝るのは俺でいいよ。俺が使わせて貰ってる寝台で寝てくれ。いままで野宿だったならそれでもいいだろ?」
居候の身で家族の親戚を床に寝させるわけにもいかないだろう。それに今日は寝台に横たわるって気分じゃないのも事実だった。
「すまんな、青年」
アシュレイはそういうが、その顔に映っているのは笑みだった。
「ありがとう、トーゴ。ありがたく使わせて貰おうかな」
アイリンシアはドキッとするような綺麗な笑みで礼を言い、おもむろに立ち上がる。
「では叔父上。私も休ませて貰います」
腰あたりまであるやや癖のある金髪を靡かせながら、彼女は当吾に手を差し出した。
「ほら、行こうか」
「ああ、ありがとう」
そのすらっとした手を触るのは二度目。それに触れると不思議と安心できて、その間は震えが止まった。
アシュレイに挨拶し、当吾は自分が寝泊まりしている部屋に入る。木枠の寝台に小さな卓があるだけで、本来の自分の部屋とはかけ離れている。パソコンとシステムデスクにパイプベッド、それにテレビやゲーム機と男の部屋としてはかなり一般的だっただろう。
それが今、ない。
それでいいと思った。下手に自分の部屋だったなら、パソコンの中身をいじられてる可能性だってあったし、会話が持たなくなってゲームをやり始める羽目になったりするだろう。
この金髪の令嬢に対しては、そんなものは必要ないと感じた。そんなもので彼女の興味を引いたって仕方がない。
「ああ、これが君の世界の本か」
アイリンシアは卓の上にあった大学の教科書を手に取り、適当にめくっていた。
「やはり、字は読めないな。それにしても綺麗な印刷だ。嫌でも技術の差を思い知らされる」
パタンとその教科書を閉じ、今度は音楽プレイヤーに手を伸ばす。
「これは何だ。奇妙な箱だな?」
「それは音楽を聴くための機械だよ。そこから伸びてる管の先を耳に入れて聞くんだ」
「ほう、音楽をこんな小さなもので聞くのか。これは楽器なのか?」
そう言いながらイヤホンを耳にかけるその仕草は現代人と何も変わらない。
「楽器…、正確には音を記憶して再生するものと言った方が正しいのだけれど。すまないが、それもう動かないんだ」
この世界に来てからそれに興味を持ったここの家族が全員使用したおかげで電池が切れてしまった。本当は一日に一曲の割合で聞こうと我慢していたのに、子供たちが操作して電池がなくなったのだ。これも家賃だと思えば安くなるが、やはり自分の世界の歌はゆっくり聞きたかった。
「…そうか。残念だ。異世界の音楽はどんなものか興味があったのだが、動かないというのなら仕方がない」
本当に残念そうにしょげる彼女の顔を見ると、ものすごく居たたまれない気持ちになる。
そのまま彼女は寝台に座り、こちらを見上げる形でお互い目があった。
「いっその事、一緒に寝るか?貧相な体だが抱きしめてやってもいいぞ」
「とてつもなく魅力的な案だけど、遠慮しておく」
からかう様な笑みでそう言われたら、誰でも冗談だと分かる。しかし、これが上目遣いでしおらしい仕草で言われてたのなら、二つ返事で了承してたかもしれない。
「本当に乙女のようだな、君は」
へたれで結構。
「だからこそ、好ましいのかもしれないな」
「女々しい男で悪かったな」
壁を背にゆっくりと座り、当吾はアイリンシアに少しばかり対抗する。
「ああ、すまない。私が会って来た異性は、皆傭兵とか戦士とか戦場に生きる者たちばかりだったものでね」
やけに殺伐とした会話になってしまった。
「おそらく君のような男が珍しいからこうしてからかってしまうのかもしれない。異世界人であるのも考慮してね」
こんな美人にからかわれるのは悪い気分じゃないが、釈然としないものがある。
「君は、何故私がここに来たと思う?」
金髪の前髪が彼女の目線を隠した。おかげで彼女の表情が読みにくい。
「分からないよ。俺にはここら一帯の地形すら頭にないのに」
今は特別ここよりも外の世界を見たいとは思わない。アシュレイたちの世話になっている身なのに勝手なことをしては悪いし、ここには変な里心みたいなものまで根づいてしまっているのが現状だ。
「実は何も考えてなかった」
「はぁ?」
「いたって真面目だぞ、私は」
やや恥ずかしそうに語っているのを見ると、本当に何も考えずにここまで来たのかもしれない。
「仕事に暇が出来てな。初めて休暇を取ろうと思ってしまった。そしたら、許可されて。馬で何処に向かおうかと考えているうちにここまで来た」
彼女の仕事が何か気になったが、おそらく武人関係のものなのだろうと勝手にあたりをつける。そうでなければあの熊を倒した太刀筋や動きは説明できない。彼女が戦いの天才なら、まだ説明が出来るがそれにしては動きが洗練されすぎてる。
「何も、言ってくれないのか君は?」
「……いいんじゃないか?せっかくの休暇なのに好きなように動けばいいさ。俺も休みには行ったこともない所に行きたいと思ったことは何度もあるし、それにこの世界なら何処に向かっても何かしらの出来事には事欠かなさそうだ」
いきなり話を振られたが、正直枕を胸に抱えて恥ずかしそうに語るアイリンシアが可愛過ぎて放心していた。先ほどに姿からは考えられない格好だ。どうしたものか、萌えるとはこういうことなのか。
「ならば、君と叔父上に会えた事に感謝しよう。何だか、変に考えてた私が阿呆のようだな。おかげで胸のつっかえがなくなった。今なら君に体を許してもいいかもしれないな」
体を許すという意味を分かって言っているのなら、この御仁は酷い人だ。
「乙女のような男だからって襲わないとは限らないんだぞ、アイリンシア」
「ハハハ、冗談だよ。だが、個人的にはそれでもいいかもしれないと思っただけだ」
顔が火照って彼女の顔を直視出来ない。それにこちとら二十歳近い男だ。そんな事を言われてしまえば嫌でも反応してしまうし、嫌でも嬉しくなってしまう。
「私は、出来れば違う世界に行きたい」
半ば独白のような言い方だった。
「出来るなら君の世界がいいな。君のような危機感のない男がいるのだ。さぞかし、戦いがないのだろう」
戦争はないが、戦いはある。それは色んな形に姿を変え、あるいは全く姿を変えず言葉だけを変えて存在する。決して今の彼女が思っていそうな世界ではないだろう。
「いや、失言だったな。忘れてくれ」
そのまま彼女は寝台に横たわった。疲れていたのだろう、すぐに寝息が聞こえた。
木枠の窓から照らされる月光を反射し、彼女の黄金の髪は輝く。その輝きに守られるように彼女の寝顔は映えた。
当吾はそれを見て、何だか子供の寝顔で安心する親の気持ちは分かった気がした。
彼女と会話をしながらも、彼の体は震えていた。
獅子熊と戦った恐怖と、これからの自分の得体の知れなさに慄いていた。
不安、焦燥、いやでも考えてしまう感情。
窓から元の2倍はある月を見上げた。肉眼でもはっきり判別できる隕石痕が生々しい。
ふと視線を戻すとそこには大きな熊がいた。
先ほどアイリンシアが斬った熊そっくりだった。
当吾はそれを見て声を上げずにそれが何か確信する。
「妄想にまで出てくるなよ」
あまりの現実味のなさについに脳も悲鳴を上げているようだ。こんなものまで見えてしまうくらいにあの熊が強烈だったのだ。だが、逆に考えれば簡単なのである。
「もう、お前を、この世界を怖がるのは少し止めるよ。精一杯出来ることをやるから、消えてくれ」
当吾の告白に応じるかのように目の前にいたその熊は霧のように消えた。
震えも止まる。
受け入れること、頭の芯でまだ否定していたこの世界を完全に現実だと認める。そうすることでようやく当吾は先に進めると気付いた。
緊張の糸が切れたかのように、睡魔が彼をゆるりと包んだ。
ああ、これが睡眠欲だったか、とまるで懐かしい友人に会ったかのようにそれを感じ取り、当吾は彼女の寝顔を肴に眠ることにした。
誤字脱字、感想などございましたら遠慮無くどうぞ。