第五話
家を出た当吾は先ほどのマルシェルカの姿に己の母親の姿を重ねずにいられなかった。
小学生の時に体操服に小さな穴をあけてしまったときに糸と針で補修してくれた横顔にそっくりだったからだ。
父親は優しく、叱っている所など見たことない反面、厳格な母として当吾を事あるごとに大きな声を張り上げていた。部屋が汚い、ゴミが片付いていない、扉が開きっぱなしとなんてこともない事で簡単に怒った。普通の子供ならあまりに母がうるさいと反抗もしたくなるものだろうが、当吾はそれを甘んじて受けていた。母がどうしてここまで口うるさいかを理由も分かっているからだった。
母は自分にダメな人間になってほしくなくて言っている、親心からくるものだとちゃんと理解している。大学に入り、一人暮らしだった当吾の借家に幾度も通い、そのたびにお叱りを受ける。
昔はここまででもなかったのだが。と締めて、母の思い出に浸るのは止そう。里心がついてしまう。
当吾は身体能力を強化して上った屋根の上で、ぼんやりと映る月を仰向けになりながら眺めていた。元の世界と何も変わらない白色の月。だが、明らかに大きさが一回り大きい。何も知らなければ落ちてきそうだと思いたくなるほどである。
上体を起こし、そこから見える森を見据える。地平線の彼方まで続いていそうなその森に件の獅子熊が潜んでいるらしい。
アシュレイと組み手をしながら獅子熊についていろいろ聞いた。名前の通り獅子のような鬣を持ち、鋭い牙と爪を併せ持つ大型の獣。大きさは1丈以上あると言われた。簡単に言えば3メートル以上ということである。
ただの熊なら魔法を駆使すれば倒せないことはないはずだ。しかしアシュレイは首を横に振り、狙いをつける前にやられてしまうと言った。巨体に相反しとても素早い獣なのだ。
なんなんだ、それは反則だろう、と思わず言いたくなるが、元の世界の熊さえ100メートルを陸上選手より速く走りぬける。ただそれは熊が一直線に走っているときだけだ。しかし、獅子熊は狼のように俊敏だという。
当吾はどんどん気が重くなってきた。村の人たちは自分が冬眠中だった獅子熊を目覚めさせたと言っていたらしい。確かにこの世界に来て洗礼に遭い、耳をつんざくような声をあげたかもしれない。しかし、それだけで熊は冬眠から起きるのか?
そうやって考えをまとめていたら、森の目の前で煌めく何かを発見した。
はじめは立ち眩みよる現象かと思ったが、それはゆっくりと移動して森に近づいて行っている。
気になって仕方がないが、あそこは近づいては行けないと言われた所だ。それに森の入口と言ってもこの屋根の上からだとそれなりに距離がある。
命は惜しいが、好奇心が勝っていた。
当吾は練習用に受け取った剣を握り、そのまま強化した身体能力で屋根を、そして村を囲んでいた囲いを乗り越えた。その際に、櫓の上にいる見張りに見つからないようになるべく早く、なるべく音を立てないように気をつけた。気分的に隠密系のテレビゲームをやっている気になったが、あれは個人的に得意ではなかった。
見張りから見えないところまで来て、当吾はようやく一息ついた。そもそも見張りの人間はあの煌めきに気付かなかったのだろうか、気付いていたら何か行動を取ると思うのだが、思えばあの見張りはそんな素振りなど見せなかった。
もしかしたら気付いても放っておくような代物だったのかもしれない。ここまで来て当吾は若干後悔し始めてきた。しかし、気になるものは気になる。それを確認したら、おとなしく家に戻ることにしよう。
当吾はさきほど確認したものの位置を確認しながらゆっくりそれに近づいた。そこから見えるだけでも、それは薄らと黄色に発光している。
そしてその発光体あと数メートルというところで、それが何か理解した。
それは魔力だった。金色に発光する、力強く鼓動する力の塊。
それは髪だった。月の光を反射して、白い黄金を思わせる長髪。
その長髪が靡いた。
金色の髪の向こうにあったのは一言で表せないほどの美人だった。
切れ長の、意志のこもった金眼。健康的な白色の肌に、薄い紅色の唇。そして前髪を整えるための剣を象った髪飾り。服装は外套を着こんでいたが、丈夫そうな黒色の衣装をまとっていた。
当吾に取ってそれは何もかもが神秘的だった。女神がいるなら、おそらく目の前の女性に違いないと正気で言える。
ここまで綺麗だと思える女性はあったことがない。大学では幾人かの女性を、特にミスキャンパスと呼ばれる人たちを遠目に見たことがあるが、個人的に合わなかったのか、とても美人とか可愛らしいとか思うことは出来なかった。
「き、綺麗だ」
思わず、心の声が口から洩れていた。当吾は急いで口を押さえたが、零した声はもう戻せない。恥ずかしさだけで顔が火照り、死にたくなった。
「男性に褒められるのは初めてだ。なるほど、なかなか気分がいいものだな」
はっきりとして、一分の淀みもない声だった。まだ距離があるのにはっきりと聞こえる。
その台詞を聞くと、なぜか、心の底奥からこみ上げる何かを感じた。とても気分が良くなる感覚だった。
「こんな時間に、こんな所で何をしているんだ?村のものならば、ここは危ないと知っているはずなんだが」
その言葉をそのまま返したかったが、突然すぎる出会いに当吾は上手く自制できない。鼓動は跳ね上がり、体温は酷く上がっている。
「あ、え、ええと。光る何かが気になって」
「私の目には何も光るものは確認できないのだが」
それはそうだ。光り輝いていたのはこの女性本人である。本当の事を言うべきかと迷ったが、とても台詞が気障ったらしくて言葉にするだけでも悶死してしまいそうだ。
「…いえ、どうやら、あなたの髪が月の反射で光り輝いていただけのようです」
「……あ、そ、そうか。いや、まいったな。まさか、口説かれてるのか?私は」
__あ、まずった。これは口が暴走している。口が上手く思考と噛み合っていないぞ。それにこの台詞も実に気障ったらしい。
それに最初に「綺麗だ」と言った時点で既に口説きが開始されていると言ってもいい。しかし、困った。こっちにはそんな気はない。でもそんな気も少しはあるのが本音だ。この女性は、自分の理想形に限りなく近い。
なんとか誤解を解かなければならない。しかし、顔の温度が全く下がろうとしない上に、心臓の音はとても耳障りで考えがまとまらない。
そんな当吾に助け舟を出したのは彼女だった。
「ところで青年。私を口説こうとしているのは嬉しいが、お互い名前も知らない。これも何かの縁だ。名を教えてくれないか?」
会話が成り立とうとしている。この金髪の美女と、こんな良いともいえない冴えない男性である自分との間に。
「当吾」
「トーゴ?聞き慣れない響きだが、良い名前だな」
名前を褒められた。そんな些細なことですら、とても愛おしく思えるほど、今自分はおかしくなっている。
「あ、あなたは?」
回らない舌を必死に動かし、なんとか言葉を紡ぐ。
「ああ、私は…アイリンシア。アイでもリンでもシアでも好きなように呼んでくれ、トーゴ」
月明かりを背景に彼女は微笑んだ。何だか少し嬉しそうにも見える。この時当吾は、彼女、アイリンシアが今までで一番美しく思えた。
ああ、分かった。
これが人を好きになるということなのだ。
これが恋なんだ。
当吾は理解した。自分の中にあるこの感情を。
「ところでだ。トーゴ」
金色の眼がこちらを見据える。その眼差しは先ほどのような感情を浮かべていない。それに気付き、当吾の中の気持ちは少し冷静になった。
「ここは、危ない。何やら、まずいものがいるようでね」
当吾はアイリンシアにアシュレイと似た雰囲気を感じ取っていた。女性の身でありながら、その物腰はとても落ち着き払いながらも辺りを警戒しているのを窺えた。そして佇まいが、アシュレイにそっくりだった。その足運び、その腕の所作、目線の動き、三日間続けて稽古した当吾はアシュレイの動きが記憶されていた。だからこそ、アイリンシアから似た何かを感じ取った。
「獅子熊が森の中に巣くったらしいので」
「ほお、獅子熊」
当吾の言葉に、アイリンシアはどこか嬉しそうだった。酷い違和感を覚える。アシュレイは獅子熊の名を出すのを躊躇った。なのに、この女性は逆だ。
まるで宿敵に出会ったかのような顔をしている。
これが、文化の違いか。
当吾は無理やり答えを繕った。勿論、これが違うと本能的にも理性的にも分かっている。でも、こうして無理にこじつけないといけないような気がした。
そうしなければ、狂ってしまいそうになる。
「どうしたトーゴ。顔が青いぞ。ああ、あれに気付いたのか?」
整った顔に浮かぶ、獰猛な笑みは思いの外綺麗だった。
どうやら、自分の感性もこの世界に来て変わってしまっているのかもしれない。元の世界だったならば、異性のそんな顔を見たならば、絶対に眼を逸らしていた。
彼女の顔を見た後、彼女が示した先を見て驚愕した。
爛々と光る一対の眼がこちらを見ていた。
それこそまだ森の奥の方だったが、当吾は気付いてしまった。アイリンシアに至っては最初から気づいてたような素振りがあったため何の動揺もしていない。
「混じりっ気なしの殺気だなぁ」
楽しそうに言う彼女の横顔は筆舌に尽くしがたい。何といえば納得できるのか、当吾には高度な理解力だった。これを理解できてしまえば、元の人間には戻れないと薄々感づいてしまう。
「ただなぁ、これ私に向いていないんだ」
見るとは見られること。つまり、標的はこっちだった。
奥の眼光が揺れる。洩光を残しながらそれは消え、ガサガサと木の葉を擦る音を立てて、無音になった。
「ああ、獲物は君かトーゴ。気をつけろよ、なかなか手強そうだ」
その台詞の一瞬後に、閃く何かが頭上から迫った。
恐怖のあまり頭を下げ、回避行動を行うとそこにいたのは巨大な熊だった。
「ほう、よく躱した。あいつらの爪は鎧も簡単に破壊するらしいからな。喰らったら、死ぬぞ」
他人事のように言う彼女は既に剣を手にかけていた。標的は当吾だが、いつでも対応できるように身構えている。というより、先ほどから戦いたくてうずうずしているのが分かりやすい。
ようやく鞘から剣を引き抜き当吾は臨戦態勢に入る。熊の方は先ほどの攻撃が入らなかったからか、こちらを見据えていた。
冷静になった当吾はその熊を観察する。
黒ずんだ毛皮に、鋭い爪牙、そして獲物を見つけた眼光。そして体躯は目算2メートル近く、鬣は生えていなかった。だがそれよりも印象的だったのがその口からでる涎だった。
「雌だね」
アイリンシアはこちらを見透かしたかのように言葉を入れる。
「鬣がなくても立派な獅子熊だ。だが、雌は基本縄張りを出ないし狩りもしないんだが__」
熊の足が動き、まるで構えたかのように縮こまる。当吾それを見て、悪寒が走った。
「よほど、君が食べたくて仕方がないんだろうさ」
彼女の無情な言葉と一緒に、熊は発進した。それはさながらロボット物のアニメで機体がカタパルトから発射されるシーンを彷彿させる。
単純な言葉でいうところの体当たり。
しかし、そこに発生する運動量は計り知れない。
当吾は自分に向かってきたその突進をなんとか横に飛ぶ事で躱す。だが、躱した瞬間に熊は急制動をかけ、その爪をまるで鎌を振るうが如く、当吾に振り落とした。
躱すという選択肢を選ぶには遅く、攻撃を選ぶには手遅れで、結局当吾に残された手は、受ける。
「ぐ、おお」
防御に剣を使うも、その衝撃で思わず声が漏れる。鋭い爪が肌を抉ることはなかったが、腕が折れそうになる感覚が止まらない。
熊の攻撃を受け止めたが、剣を伝って体中が悲鳴を上げていた。特に支柱だった足がすでにもたついてる。
熊は仕留められなかったことを悟るともう片方の腕を振るい、追撃する。
当吾は横から来たその一撃に対し、刺突を繰り出す。狙うのは熊の掌。
それらがぶつかった瞬間、剣があらぬ方向に曲がり、折れた。しかし、その破片は熊の肉を貫き、刺さったままになった。
それに熊は激昂した。
両腕を振り回し、まるで狂ったかのように暴れ始める。当吾はその爪や巨腕をなんとか躱していたが、衝撃を受けていた足が竦んで思い通りの回避運動がとれなかった。
4度目の攻撃が当吾の顔に迫っていた。当吾はそれに自分の死を確信してしまっていた。理由は、それがとてつもなく遅く見えたからだ。一瞬で終わる筈なのに、その攻撃はまるでスピードカメラで撮られた画像のように遅い。
当吾は覚悟を決めた。おそらく死ぬ直前はこういう時間が必ず起きるものなのだと感じた。こうやって死ぬ準備を済ませるためにこの時間があるんだと理解する。
しかし、当吾の覚悟も虚しく、熊の一撃は空を舞った。
空を舞ったと言っても、攻撃が当吾を逸れたわけではない。正確に表現するならば、熊の腕が空を舞っていた。
斬、と効果音まで聞こえるかのような斬撃が熊の腕と当吾の間に割って入った。攻撃の主は金髪の麗人。
「見ていられないから、助太刀に入る」
煌めく髪を靡かせながら、アイリンシアは片手に持っている剣を半ば気だるそうに構え、熊に相対する。
腕を切られた熊は下手人を確認すると残った腕を振り下ろす。
アイリンシアは一歩前に出て熊の懐に入っていた。その動きはあまりにも自然で当吾は全く気付かなかった。
彼女は熊の股から頭までその剣を持って一刀両断する。彼女の細腕のどこにそんな力があるのか疑いたくなるくらいに、ほんの一瞬の出来事であった。
彼女は若干熊の赤い返り血を浴びたが、月光に照らされるアイリンシアの姿はまた別の意味で魅力的だった。
戦場に舞い降りた戦乙女。語彙数の少ない当吾ではそうとしか言い表わせられなかった。
「危なかったな、トーゴ。あと少しで死ぬところだった」
そう言いながら手を差し出す彼女。その手は女性に似つかわしくないゴツゴツの手ともとれたし、繊細な柔らかい手とも取れた。ただ、元の世界の女性とは明らかに違う手だった。
「…ありがとう。アイリンシアさん」
「さんはいらないし、もっとくだけた喋り方でいい。ああ、名前を呼んでくれたか、なかなか心地いいな」
頬に血が付いているにも関わらず彼女は笑っていた。それがどれだけ異常なのか分かっていたが、彼女の笑みを優先することにした当吾もすでにまいっている。
「ふふふ、手を貸せと言えば貸してやったのに、自分でやろうとするとはなかなか気骨のある男だな。だが、まだまだ未熟なのは否めないか」
賛辞は胸に熱いものがこみ上げるが、後半の言葉はとても胸に痛い。それにまだこの世界にきて一週間も経っていないにも関わらず、ここまで出来たことはそれなり異常なのかもしれない。
「トーゴ。私は君が気に入ったよ」
「ああ、さいですか。アイリンシア」
素っ気ない言葉を返すが、心の中はいろんな感情が混ざりすぎて考えがまとまらない。それに自然と彼女の名前を言ってしまったことに半ば不思議になった。
「なんだ、こんな女は嫌いか?どんな女がいい?可能な限り好みに合わせてやろうか?」
自分の外套を翻して彼女は己の体を見せつける。月明かりの所為か、とても彼女の豊満な体は映えた。ちなみに彼女の体つきもとても理想的だった。
「そのままでいてくれれば何も望まないよ」
「ほう、そうか。異世界人でもこちらの世界の女性は好みか」
彼女は面白そうにこちらの顔を窺っては不敵な笑みを隠さない。
「いつ、気付いた?」
「動き、言動、剣の握り、雰囲気、魔力の質、そして__」
彼女はこちらにそのしなやかな指を向ける。
「__その服装」
「…ああ、ごもっともで」
この服装で気付かない人もどうかと思うが、彼女の場合は別の所でも気付いていたようだ。
「別に私は君が異世界人だろうか何だろうが気にはしない。それに戦場で幾人も見てきたしな」
彼女の金色の目に剣呑な雰囲気が生まれる。当吾は見慣れないその眼から視線を外せない。
「ああ、哀れな渡り人よ。国を捨て、世界を捨て、人生を捨て、現世に何を求めるか」
まるで詩でもあり、歌のように聞こえる一節だった。
「異世界人に対しての皮肉の歌さ。私もつくづく思う。彼らは何でこんな世界に来るのかとね」
アイリンシアは剣呑だった眼を引っ込め、当吾は金縛りにも似た感覚からようやく解放された。
「君は何だか違う気がするな。まあ、理由は聞かないさ。言いたくなければそれでいいし、こんな私に言える程度の理由なら愚痴でも聞いてやろうさ。ただ、これだけは言ってやらねばならない」
「なんでもどうぞ」
何を言われても構いやしない。彼女は命の恩人でもあるし、自分の理想でもある。そんな人からなら罵倒だって喜んで受け入れよう。
「異世界へようこそ、トーゴ」
金髪を揺らし、満面の笑みを向けるアイリンシア。
トーゴはその輝く笑みをみて、惚れ直した。