第二話
「ようこそ、異世界へ」
その台詞に当吾の世界は一瞬破壊されてしまったと言ってもいい。
あの森にいた時は、まだ地球上のどこかにいるとまだ信じていたし、異世界なんてものを信じるなんて、自分でも正気を疑う。
しかし、このアシュレイと名乗った男は確かに言い放ったのだ。異世界、と。
「うん?どうした、トーゴ?」
握手で手を繋いでいた所為か、こちらの動揺があちらに伝わってしまったようだ。
あまり心配をかけまいと、作り笑いを顔に張り付ける。だが、おそらく簡単に見破られているだろう。自分でもぎこちないと思える。
「ハハハ、異世界だなんて…からかってるのか?アシュレイさん」
そんな台詞を吐いたところで、おそらく自分は自分の住んでいた所へは帰ることなどできないと、心どこかで確信していた。
先ほどの喉への治療や、彼らの服装、この部屋の内装を考えると、どうしても自分のいた世界だとは思えない。仮に、さきほどマルシェルカが放ったあの光が映画などで使われるSFXだったとしても、痛みが引いた事実はどう説明すればいい。予め薬でも塗ってあったというのか。それなら、あんな真似は必要ないはずだ。
「……いや、ごもっともだ。いきなり異世界へようこそ、だなんて言ったら混乱するに決まっているよな。だが、君にとってここは異世界だ。断言する」
先ほどまで朗らかで、陽気な雰囲気を醸し出していた男が、正反対な態度を取っている。そこからは微塵も嘲りや嘘は感じられない。
握手の途中だった手をするりと解き、当吾は自分の顔を手で覆う。困った時にしてしまう癖で、治したくても治らないものの一つだった。
こちらがにっちもさっちも行かないことを察したのか、彼らは何も言わず、ただ言葉を待っていた。まるでそれが使命であるかのようにジッと待っている。
「…アシュレイさんは、どうして俺が異世界から来たと?」
確かに、自分のしていた格好は彼らの文化圏では珍しいのだろう。しかし、そこまで文明が発達していないのなら、ほかの大陸や国の文化かもしれないとは疑わなかったのだろうか。
「アシュレイでいい。もしくは、アシューだ。ああ、悪い。理由は簡単だ。君の持ち物は、この世界ではありえないからだ」
見事に言い放ってくれる。
「君には悪いと思ったが、あの荷物入れの中を検めさせてもらった。一級と思われる紙で出来た、こちらでは見慣れない言語の乗った本、そして何に使うのか分からない箱や金属片。これでも、言語やそういったものには詳しくてね。どれにも該当しないなら、答えは一つだろ」
つまり、見たことも聞いたこともないから異世界のものに違いないと、この男は言っているわけだ。
「他の大陸とか、知らない国のものだという可能性は?」
彼とて一人の人間だ。現代社会のようにほぼすべての国が情報を開示していない限り、全てを知っているとは限らない。つまり、彼が知らないだけでこの世界にも存在する可能性だってあるはずである。
しかし、そんな儚い可能性はないと、彼の反応から窺えた。
「確かに、君の言うとおり俺の知らない国や大陸のものである可能性はあるだろう。しかし、これには全く魔力を感じない」
魔力。ここにきてゲームやファンタジーでしか聞かない単語が平気で出てきた。
「この世界では、如何なるものも微かながら、一寸ほどのものでも魔力を帯びるんだ。文字を書いた者であろうと、皿を造った者であろうと、無意識に自分の内在する魔力を送ってしまう。しかし、君の持ち物にはそれらが全くもって感じられない。だから異世界のものだと判断した」
早い話がこの世界での認証たる魔力を持っていないからそう判じたというわけか。
「例外は?」
それでも材質上魔力を帯びないものだって在っていいものだ。
「ああ、あるよ」
あっけらかんというものだから、思わず期待してしまう。
「君以外の異世界人が、持ち込んだものだ」
畢竟、自分だけがこの世界に迷い込んだわけではないらしい。過去にもそんな者たちの持ち物が残っているわけで、それらが魔力を帯びていない。
少し期待した自分がまるで道化だ。
「納得は、してくれたかい?」
納得、9割方諦めがついているのは確かだった。自分が何らかの理由でこちらの世界に来てしまい、酷い苦痛に遭い、そして彼ら夫婦に出会った。それは認める。曲げようもない事実だからだ。
「…マールさんが先ほどしてくれたものは?」
あの淡い燐光を放ったものは一体なんなのだろう。いや、自分の中では答えは出ているのだが、彼らの口から聞くまでそれはあくまで予想でしかない。
「あれは、回復の魔法です」
こうして彼女の発言により予想は事実に変化したが、それでもまだ半信半疑である。効果のほどは自分の身で実証済みなのだが、やはり科学や物理の分野で生きていた当吾にとって魔法なんてものは本当に空想のものでしかなかった。しかし、今自分がいるのが異世界なら、その世界なりの物理法則、いや言うなれば魔力法則が存在するのだろう。
「生憎勉強も修行も一切していない私では痛みを和らげるくらいしかできませんが」
見たことのある事例がこの人だけなので、凄いのか、凄くないのか全くもって検討がつかない。少なくとも魔法のない世界から来た者にしてみれば、凄いのを通り過ぎて信じられない領域なのは間違いない。
「魔法…ですか?ハハハ、それじゃ、本当に異世界に来たと認めるしかないかな」
「君の世界には魔法はないのか?」
アシュレイが目の色を変えるのを見逃さず、間髪を入れずに質問してくる。
よほど、この男。異文化が好きなのだろう。
「名前だけなら。概念だけなら。実物は空想の産物に過ぎませんね」
「ほう、なら興味はあるかい?」
「…興味ですか」
ない、と言えば大嘘になる。空想のものである魔法を目の前で見せられて興味がないと言えないわけがない。ましてや当吾も男である。好奇心はこの褐色の男には負けていない自負すら持っている。
「…使えますかね?」
それが大前提である。
先ほど、この世界のもの以外は魔力を帯びないと言われた。ならばここにいる自分自身だってそうだろう。無機物は魔力を帯びないと言われても、有機物はどうだ。異世界の大きな物体であるこの体ははたして魔力を使えるのだろうか。使えなければ、魔法を習う価値など在る筈もないからだ。
「この世界のすべての命には魔力が宿る。勿論、この世界に来た命にだって魔力は宿るのさ。まあ、聞くところによると、痛い洗礼を受けるとかなんとか」
__洗礼、か。当吾は森の中での出来事を思い出し、あの地獄はそれなのかもしれないと思った。
「うん?まるで心当たりがあるような顔だなぁ。まあ、たぶんそうだろうよ」
あの激痛の嵐は洗礼なのだろう。突然出てきた異世界の、自分の世界では異物とも言えるようなものに対しての干渉というより、化学反応に近いものだろう。あるいは、順応か。
ふと、扉の方を向けば数人の視線がこちらを向いていたに気付いた。その視線の高さはまだ低く、どう見てもまだ子供にしか見えない少年が人見知りするかのように扉の影に隠れていた。
「ああ、息子のレイヨールとここで預かっている孤児たちだ。皆俺の子供だと思っていい。気を悪くしないでくれ。見ての通りまだ子供でね、皆人見知りが激しいんだ」
アシュレイの手招きで一人部屋には入ってきたが、マールの後ろに隠れながらこちらを窺うレイヨール。
「お父さん。ほんとうに悪魔じゃない?」
悪魔?それは自分に対して向けられた言葉なのか。
「おいおい、レイ。この姿をどう見たら角が付いていたり鱗がひしめいていたりするんだ。それに彼は悪魔じゃない。トーゴという名前の異世界人だ」
「トー…ゴ」
ジィと褐色の少年の視線はこちらを見ている。
「初めましてレイヨール。当吾と呼んでくれ」
「もう、苦しまない?」
真っ直ぐな視線で質問されてしまい、思わず言葉に詰まる。それに、すぐに答えを出せなかった。
「森でな、叫び声がするって気付いたのはレイヨールでね。あんな森の奥にいたのに入口まで聞こえるような叫び声を聞いたのは初めてだ。おかげで子供たちはあまりの恐さに悪魔が来た、とか言い出す始末さ。俺も半分恐くて仕方がなかったんだが、人畜無害そうな青年だったから連れてきたんだ」
半ば放心状態で記憶も定かではないから、自分がどのような声で叫んでいたのかは分からない。しかし、こうして子供を怯えさせてしまうような声だったのは確からしい。そう考えると、恥ずかしくて堪らなくなる。
「どうやら気付かないうちに迷惑をかけてしまっていたようですね。申し訳ありません」
「本当に悪魔だったらそのほそっちい胸に剣を刺してやるよ。あんたも珍しいが、子供たちには代えられないんでね」
実に正直な方だと当吾は思った。個人的に好きになれる人だとつくづく思わされるし、何より子供たちを大切にしている。
「さて、ここいらで皆を紹介したかったんだが、生憎トーゴは療養しないとな。さあ皆、睡眠の邪魔だ。部屋から出な。え、あのお兄ちゃんと遊びたい?お前ら本当に怖いもの知らずだなぁ」
豪快な笑い声を響かせながら子供たちを腕や背中にくっつけてそのままアシュレイは出て行った。
「夕食の時間になれば起こしに来ますから、ゆっくり体を治してくださいね。こんな心配はいらないと思うけど」
「いえ、感謝してます」
最早、必殺の笑みとも言える笑顔を見せられて、無碍に出来るほど当吾は鬼ではない。
ただ、これからことを考えると快眠できるだけの余裕があるかどうかはまた別の問題であった。
「おやすみなさい」
マルシェルカを部屋から出て行くのを確認すると、当吾は寝台の上で横になった。
現代のベッドとは違い、ウレタンや化学繊維を一切使わない天然の寝台。早い話、木枠と動物の毛皮や羽毛だけで造られた単純なベッドである。
それでも充分上等なものだとある程度分かる。窓の外から見える家屋を考えれば、この家はずいぶん広く立派だ。おそらくアシュレイはここら一帯でもそれなりの地位をもつ者なのだろう。そうだから、あそこまで大らかなのかもしれない。貧困に喘ぐものからしてみれば、こちらはでかい荷物に違いないだろうから。
__ここからどうしたものか。
アシュレイの言葉が耳に張り付いたままである。
異世界という単語は、空想と妄想の産物だ。それなのに彼はおくびもなく行ってのけた。つまり、それだけ根拠があるのだろう。
まだ節々は痛むが当吾はゆっくり起き上がり、机に置かれた自分の荷物に手を触れる。プラスチックや合成樹脂で覆われた役目を終えた携帯、もう役に立つのかも分からない教科書、幸先は暗いものだ。
窓枠に体を乗り出す。外の空気を吸えば少しは楽になるかもしれないと踏んだが、人生そんなに甘くはない。
子供たちの楽しそうな声が、元の世界の子供たちと重なる。やっていることはまったく違うが、友人たちと遊んでいて楽しくないわけがない。
今思えば、自分も友人たちには会えないのか。
そういえば、自分の世界への帰り方を聞くのを失念していた。しかし、そんな淡い期待を持つのは止した。理由は簡単だ。
知っていたら、教えるだろ。
それに尽きる。
考えれば考えるだけ八方ふさがりだ。困ったものである。
「あの」
思案していてまったく気付かなかったが、窓の横に子供が立っていた。よく見ればレイヨールだった。
「恐い顔をしてたよ」
さっきまで嫌なことばっかり考えてたからな、と声にならない返事をしてぎこちない笑顔を作る。
「ああ、ごめん。ところで何か用?レイヨール君」
「レイでいいよ、お兄ちゃん。お兄ちゃん、一緒に遊ばない?寝てないってことは元気なんでしょ?だったら遊ぼう?」
昨日まで悪魔と恐れていたんじゃないのか、と思わずツッコミたくなる状況である。
普通は警戒するだろう。
「恐くないのかい?」
「だって、もう苦しくないんでしょ?」
基準がよく分からなくなってきた。
「それにお兄ちゃん、優しそうだもん」
屈託のない笑顔で言われれば、誰も満更ではない。
その日、病み上がりとは言え、子供の体力を侮った馬鹿が一人いたことはまた別の話である。