第十二話
三者三様に硬直した今、おそらく最も冷静なのは当吾の中の一部分だけだった。
見えない腕、正確には半透明でそれは左腕だった。
その腕が自分のものだと実感するのに時間はかからなかった。その見えない腕と自分との間に筆舌しがたい何かを感じたからだ。
気づけば当吾の無くなったはずの左手の部分に代わりの手があった。それは黒く、まるで炭そのものとさえいっていいほどの黒さだ。無くした部分を補完するように、勝手に当吾の腕に成り代わっている。
こちらの腕を動かすと、距離のある向こう側の腕も動いた。どうやら連動しているようで、その動いている様を見てか、アシュレイと獅子人がその腕の主に気づく。
「貴様ぁ!まだ足掻くか!」
獅子人がまた怒り狂った口調で叫ぶ。
目の前にいたアシュレイも目に入っていないようで、彼を突き飛ばし一直線に当吾の元に走りだしていた。
その勢いを当吾は冷静に見ていた。流石に腕を無くした時の突進ほどの威力はなさそうだが、それでも危険にはかわりない。
当吾は半透明の腕を移動させた。それの戻る速度は獅子人の突進より速く、意識してすぐに左腕の隣まで来た。そして半透明だった腕が徐々に肉付けされていく。
紺色の、メラメラと鬼火のように燃える巨大な腕が現れた。
先程の半透明が嘘だったくらいに存在感に溢れた腕である。どうやら発現している距離に反比例して存在感が希薄になるらしい。とは言っても肘から下の部分が宙に浮いているという奇妙な現状だが、こいつが今の状況を打開してくれるのを感じ取っていた。
“喰らえ、喰らい尽くせ”
誰かの声がした。
当吾はゆっくりと立ち上がり、この黒い腕を動かす。黒い指が動いた。
動くということは、一応神経が通っているらしい。
左手の黒い手首を動かすと、紺色の手が手首を曲げる。
チョキを作る。チョキで返ってくる。永遠のあいこ。
黒い腕を振る。紺色の燃える手が連動して移動する。どうやら手の延長線上で移動するようだ。
獅子人の突進はすぐ側までやってきた。さっきまで何していたと他の人は言うだろうが、誰だって慣らし運転くらいするだろう。さっきまでの時間がそうだ。
当吾は怒り猛る獅子人を見据え、左手に拳を作った。紺色の手も拳を作る。
そして、真っ直ぐやってくる獅子人に、その左手を突き出した。
正拳突き。肉体の黒い腕は獅子人を捉えていないが、もうひとつの紺色の腕は違った。
その顔面に見事に紺色の拳がめり込み、獅子人は拳の威力と自分の突進力を自ら食らうハメになってしまう。巨体が一回転して後方に吹っ飛んでいく光景は、もう二度とお目にかかれないだろう。
宙に浮いていた紺色の腕が黒色の左腕にくっ付く。炭のようだった左腕が、先程と同じような紺色の色合いの腕になる。何もしていないというのに、力強さに満ち溢れているのが感じ取れる。
なるほど、宙に浮いていない間はこうして腕に戻るわけか。
当吾は新しい腕の特性を少しずつ理解し始めていた。
一つ、元の腕と大差なく動くこと。
一つ、魔力の塊として着脱可能で腕の延長線上で距離に関係なく移動できる。その間、左腕は炭のように黒くなってしまい、着脱した腕は距離が開くにつれ、力が弱まり希薄になること。
それにしても体がいきなり頗る快調になった。先程まであれほど魔力不足と体力限界に喘いでいたというのに、それがまるで嘘のようだった。
特に魔力の回復は著しい。体感で全体の半分以上回復している。先程まで雀の涙ほどしかなかったのだが、今なら剣をいくつも創りだせそうだった。
獅子人が立ち上がる。その目は獰猛かつ正気を失っているかのように血走っていた。
彼の鬣が輝く。
咄嗟に左腕を前に出し、放たれた『砲哮』を防いだ。筈だった。
『砲哮』は魔力の塊を凝縮して放つ獅子の眷属の魔法である。眷属でさえ、盾で受け止めても腕が折れるほどの威力がある。
当吾の左腕はそれをなんの苦も無く受け止めた。威力を下げた連射型『砲哮』だったが、それでもおかしい現象が起きた。
紺色の左腕は魔力の塊を掴んで、その腕の中に吸収してしまった。
あるべき衝撃もなく、ただ魔力が腕に吸い込まれていったのである。
“喰らえ、喰らい尽くせ”
誰かの声が聞こえる。
「う、ああ、ああ」
この現象に驚いたのは当吾本人であった。『砲哮』を受け止めた瞬間、それが体の中に入ってきたからである。その魔力が当吾の魔力として変換されただけでなく、『砲哮』の魔法としての『情報』が一緒に入ってきた。
これが当吾を一番困惑させた。あれだけ苦戦を強いられた『砲哮』の仕組みを、言葉通り身を持って体験してしまっている。
獅子人は何が起きているかなんてお構い無く『砲哮』を撃ちまくる。その度に左腕が半ば自動的にそれを防ぎ、それを自分の魔力として補充していく。
魔力の回復が速い理由が、ようやく分かった。
この腕は大気などの魔素や魔力を喰らっているのだ。さながらの『魔食』である。
当吾が腕の特性に驚いている間に、獅子人は距離を詰めていた。
鉄すらも切り裂く爪が閃く。
左手がそれを受け止める。普通の腕ならば切り裂かれて、はじけ飛んでいくところだろうに、この腕は受け止めた。
そもそも爪が肌に刺さっていなかった。
この腕の肌は紺色の魔力の波動みたいなものを纏っているが、質感そのものは別物。まるで爬虫類の鱗、甲殻虫の殻、甲羅、それに準ずる何かを思わせる。
それに、手負いでも力自慢であろう獅子人の膂力に拮抗していた。
“喰らえ、喰らい尽くせ”
頭の中で声が木霊した。
当吾は手首を返し、差し出されたままだった獅子人の腕を掴む。太すぎるがために握れなかったが、無理やりに掴む。
紺色に輝く左腕の指が獅子人の右腕の肉に沈んでいく。金色の肌が赤く染まっていき、血が吹き出した。
「ぐああああああああ!」
堪らず獅子人は叫ぶ。残っている左手を当吾に向かって振り下ろす。
当吾はその単調な攻撃を容易く避け、その拍子に獅子人の太すぎる腕の中で掴んでいたものを力の限り引き抜いた。
出てきたのは骨。赤く濡れた太く長い骨。人体で言うところの撓骨。下腕部にある一対の骨の片割れ。
「ぎゃああああああああ!」
骨を抜かれる痛みとはどんなものだろう。率直に当吾は思った。この世界に来たときに受けた痛みより痛いのか、そうではないのか。
獅子人は息も絶え絶えに大量に流れる血液と、もはや使用不可能になった右腕を見ていた。
「言ってみたかった言葉がある」
ここに来て当吾は口を開く。
「これでお相子だな」
当吾は獅子人に左腕を破壊された。しかし、この新しく現れた左腕で獅子人の右腕を破壊した。意趣返しにしても酷いような気がするが、彼らの再生力は半端ない。
火傷や怪我で威力が弱まっていたとは言え、爪や彼らの腕力は未だ脅威だった。だが、こうして骨自体を抜いてしまえば、ちょっとやそっとで回復はしないはずだ。
不気味にもだらんと下がった獅子人の腕を見て、当吾は確信していた。
「許さん。許さんぞぉ!」
獅子人は全身の力を一点に集め始めた。集める場所は鬣。
特大の『砲哮』が来るな、と当吾は予測する。それへの対抗策は本来はなかったが、今はある。
紺色の腕に魔力が流れ、留まる。紺色の光が輝きを増した。
先程まで獅子人がやっていたことを、この左腕がするのである。
“喰らえ、喰らい尽くせ”
また誰かの声がした。
獅子人の溜めが終わる。これまで以上の魔力を感じる。おそらくこれ以上の攻撃は出来ないだろう。
黄金の衝撃が放たれる。周りの木々を倒しながら、それは真っ直ぐに当吾に迫る。生身で受けたならば、四肢が破裂して跡形もなくなるのが想像に難くない。
当吾は半ば本能的に左腕を突き出して、つぶやく。
『砲哮』
紺色の衝撃が放たれた。
金色と紺色がぶつかり合い、その中心で空間が歪む。そして爆ぜた。
最後に残ったのは紺色の波動。それが、獅子人に向かう。
その波動は弱くなっても充分な威力を持ち、獅子人の巨体も背を地につけ倒れる。
「ぐ、それは我の……」
左腕から魔法が放たれたことに驚くばかりだが、今が絶好の機会と気づき、当吾は紺色の左腕を発現させる。
巨大な腕は倒れている獅子人を体ごと掴んだ。大きさも魔力の多寡で調整できるようだった。回復した魔力にもの言わせて、宙に浮く腕は獅子人を包むくらいの大きさになる。そしてそれはゆっくりと宙に浮かんでいく。
「ぐ、おおおおおおおぉぉ!」
獅子人は何とか拘束から逃れようと必死にもがいていた。しかし、抵抗は次第に弱くなっていく。理由は簡単だ。腕と当吾の距離がほとんどないために『魔食』が常時発生しているがためだ。ただでさえ少なくなっているであろう獅子人の魔力を腕が無理やりに喰っていた。喰って、当吾の中に流れてきている。
「我の残っている力が、吸い、取られ……る」
声にも力がなくなっていく獅子人を見ていると何故だかやるせなくなった。当吾の左腕を破壊した本人だというのに、逆にこんな腕を生み出すきっかけを作った当人でもあるからだ。
獅子人の魔力を手に入れる内に腕も更に力強さが増してきた。
“喰らえ。喰らい尽くせ”
呪詛のように頭の中に反響している。それは抗い難い誘惑の言葉。
そしてそれに誘われるように、当吾は腕に力を込めた。頭からの命令ではなく、脊髄からの命令のごとく込めざるを得なかった。
グシャ、と何かが潰れる音が響く。バキ、と何かが砕ける音が伝わる。
左手が得も言えぬものを握っている感覚に襲われた。紺色の腕の隙間から赤い液体がぽたぽたと伝わって落ちる。その赤い血が、当吾の顔にいくつも付着した。
「……青年」
その姿勢をいつまで続けていただろうか、アシュレイに声を掛けられるまでそのままだったような気もするし、一瞬だった気もする。判然としない感覚に当吾は戸惑った。
ゆっくりと紺色の指を広げると、そこには押し潰された『何か』があった。当吾は嫌悪感からそれを気づけばその場で投げてしまっていた。
先程まで命のやりとりをしていた獅子人には悪いと思いながらも、気持ち悪さから手を離してしまったのだ。今度は自分への失望感で嫌になる。
「……青年。腕は大丈夫か」
アシュレイは普段と同じような顔色で、当吾に声を掛けてきた。彼の調子はもういいらしい。
対する当吾は青ざめた顔をしていた。この手で命を奪った感覚に心がついていかなかった。理性では分かっているのだが、どうしても払拭できない何かがある。それにこの腕が現れてからの高揚感。
「青年。君の考えていることは手に取るように分かるぞ」
気づけば尻餅を付いていた当吾の頭をワシャワシャと撫で、アシュレイは先程までの出来事が夢だったかのような笑みを当吾に向けた。
「ほら、笑え。それが今を生きている証になる」
正直、笑えるような心境ではなかった。当吾は新たに現れた左手を見つめる。
紺色、あるいは紫の明るい配色に、やや甲虫を思わせる質感。よくみるとひび割れみたいなものまであり、そこからは血管のような赤い燐光が放たれ、流れていた。魔力なのかもしれない。
この腕はなんなのか。
どうしてこうも都合よく当吾の左腕になっていたのか。確かに当吾は無くした左手を創製魔法で創ろうと試みた。しかし、その複雑さと難解さからすぐに諦めていたはずだった。
だが、こうして紺色の腕は今も周りの魔素を喰っている。それは事実だった。
「……アシュレイ、これは何だろうな?」
彼の顔も見ずに質問する。
「説明できないことくらい世の中には一つは二つはあるさ。それもその一つに過ぎん」
つまり分からないというわけか、彼の考えは簡単に分かった。
「しかし、必要な時に助けが現れるというのは必然性がどっかにあるはずだ」
こうして左手が出来たのは何かしらの訳がどこかにあると彼は言いたいらしい。当吾もそう思っている。どこでそう繋がっているのかは知らないが、要因というのはどこかにあるはずである。
「さあ戻るぞ。俺達が戻らないと泣き始める奴らが大勢いるんだ」
――そうだな、あいつの顔が見たい。
ほんの数分前くらいだと言うのに一年は会ってない気分になっていた。
癖のついた長い金髪をなびかせて、半ばふんぞり返って待っているに違いない。
「……帰ろうか」
「おう、帰るとするか青年」
当吾は重かった腰を動かし、帰路に着くことにした。今回の出来事で出てきた単語と現象を頭の中でごっちゃごちゃに混ざっていくのを感じながら、そして一抹の不安に後ろ髪引かれながら皆が待っている家に足を運んでいくのだった。
この話で戦闘は終了です。この腕の設定を見て、「あれのパクリだ」「これに似ている」と思われる方が多いと思います。それは作者も重々承知です。許せないと言われる方がいらっしゃったら、遠慮無く言ってください。断固としてこれだけは譲りませんが。
感想、意見、誤字脱字があれば遠慮なく言ってください。
最後に、こんな駄文でも読んでくださる方々に感謝します。
ありがとうございました。