第一話:始まり
気付けば、誰もいなかった。
さっきまで冷たい雨に打たれながら、人通りの多い商店街をうろついていたはずだった。ふと歩みを止めるとあるはずのシャッター街が一つもない。その代わりにあったのが、樹齢二千年を思わせる太い幹の木々だ。
差していた傘を折りたたみ、ゆっくりと周辺の景色を確認する。気付けば雨も降っていなかった。
己の両目が捉える映像は、綺麗に茂った緑の山と腐葉土の混ざった土だけである。
__おかしいな。道を外れたか。と、自分の歩いていた道順はいつも通り大学からの下宿先へのコースであるはずだった、それなのに現在はブラジルの未開の地を思わせる森へと足を踏み入れていた。
いくらなんでも気付くはずだ。自分ではなくても、自分以外の誰かが、『おい、そこは森だぞ』と声を掛けてくれたっていいはずである。
しかし、そんなこともなく、目の前には都会育ちには一生掛っても見られないような大樹が聳え立っている。
冷静に考えても、自分の大学は田舎にあったとしても、大学近辺は総じて学生が住むアパートや学生寮、そして半ばベッドタウンと化している最もたる地域である。こんな森があるはずがない。
大樹の幹に触れ、その圧倒的な存在感を肌で感じてみた。非力な自分では力を入れてみても折れるどころか反作用で吹き飛ばされるような錯覚さえ起きる。
半ばその大樹にもたれかかりながら、状況を整理することにする。
自分は樫臣当吾。19歳。理工学部情報系学科1年。
髪の毛の色は黒。目も黒。典型的な日本人。着ている服は薄手の紺のジャケット、内側に長袖のTシャツにデニムのジーンズ。足にはごく普通のスニーカー。持っているものは、携帯電話、筆記用具、教科書数点、そしてビニールの傘が一点。
ポケットから携帯電話を取り出す。こんな場所で通じているわけがないのだが、一応確認してみる。携帯が開かれるとそこにはとあるキャラクターの待ち受けと時間、電池残量、そして電波状況が映し出される。結果は案の定、圏外である。
さらに運の悪いことに電池残量が既に空に近かった。そういえば充電しなかったな、とひとりごちて、彼の携帯はその役目を終えたかのように電源が切れた。
まさにこれからの自分の末路を暗示しているかのようだと、心で皮肉って、当吾は空を見上げた。
当然のように、そこには9割9分葉っぱと枝に隠れた空があり、わずかな光だけが地面を照らしていた。
木漏れ日だけがこの地面を照らしている状態にしては、とても明るい。
そのまま一分ほど空を眺めて、我に帰る。
この森はいったい何処なのだろうか。今の疑問はその一点につきる。
一つ、都市の緑化推進プロジェクトによって作られた土地である。まさか通学路にこんな木々が植えられていくのを気付かないわけがない。それに一日か数時間でこんな樹海にまでなるわけがない。没。
一つ、実は一瞬で拉致され、立ったまま気絶して夢遊病のようにこの森に置いて行かれた。現実にそんな凄腕の運び屋がいるとは思えないし、ましてや自分を狙う理由もないだろう。それにさっき携帯で確認していた時間は大学から出て五分も変わっていなかった。つまり不可能である。これも没。
ならばあとは何が残るのだろうか。超常現象や神の力や第六感でしか感知できないものが干渉して、運悪くそれに巻き込まれたということなのか。まさか、それこそ正気を疑う。
だが、頭から否定することがどうしてもできなかった。
これでも当吾は工学部に入学して物理や化学、機械を勉強してきた身である。そういったファンタジーやSFは男としては大好きだが、一人の科学者、技術屋としてはどうしても納得のいくものではないのだ。
そこまで当吾は考えて、とにかくこの森からは出た方がいいと思った。
今のこの森はまだ明るいが、暗くなってしまうとどうしても方向感覚を狂わされたり、闇に乗じて現れる夜行性の野獣に襲いかかられる可能性だってある。ましてやこんな見慣れない森だ、何が潜んでいるか分かったものじゃない。
移動しようと動いた先、当吾の足が動かなかった。
蔓にでも引っかけたか、と足を見ても何もない。ならばどうしてと考えた矢先、視界が揺らぎ、膝が地面についていた。
最早、為すがままの状態だった。
そのまま四つん這いで突っ伏し、そのまま顔までもが地面にくっつく。
体中に力が入らなかった。
それどころか、動悸がこれまでにないくらい激しくなり、呼吸が荒くなり、体中が熱湯を浴びせたような熱を感じていた。異常なまでに汗が流れ、まるで小さな滝のように水滴が体から流れていく。
耳元では激しく心臓の音が高鳴り、息を吸えば吸うほど、体を覆う倦怠感は増していった。
まるで病人のようだと、不気味なまでに冷静な部分がそう判断する。風邪やインフルエンザの時もここまでは酷くない。
__このまま死ぬのか。こんな誰も来なさそうなところで一生を終えるのか。
一瞬でも死を想像しただけで、精神が瓦解し始める。
体が冷たくなる。それだけで死への恐怖が生まれ始め、歯が鳴り始めた。
ガチガチと力が入らないはずの体が少しだけ動き始める。それでも今の当吾にとってはこの得体の知れない状況は恐怖以外の何ものでもない。
「まだ、死に、たくない」
か細く消え失せそうな声だったが、それでも彼の喉から出た本音だ。
「まだ、死にたくない。死にたくない」
呪文のようにその言葉をつぶやき、声に力を注いでいく。それだけでも確実に恐怖は和らいでいく。
しかし、これらの体の変化はまだ序章に過ぎなかった。
「あ、あ、ああああああああああああっ!!」
彼の身体に、この世の終わりを思わせる激痛が走った。
たとえるなら、そうである。
足であると思えば、今度は腕。腕であると思えば、今度は腹と、それはまるで自由自在に動き回る虫のような勢いで彼の体を蹂躙し、筋肉はまるで意思に反するように激しくのたうちまわっていた。
しかし、一際酷かったのは、四肢で蠢く針を刺すような激痛より、頭の中で響く痛みであった。
まるで脳を直接触れられるような感触。皺ひとつひとつが蠢いているような錯覚。
これらの状況で、生への渇望を考えることで緩衝を図っていた当吾はこの頭痛の所為で理性をめちゃくちゃにされるような錯覚さえ起こさせた。
体は針を刺すような激痛を、脳には内から響く鈍痛を。
何故、自分がこんな目に。
すべてを呪いたくなるような黒い感情が彼の奥底で動き出す。
まるで自分の体が別の何かに造りかえられているような気分ですらある。
そう納得してしまうような状況ですらあり、すべてを否定したくなるような気分ですらある。
結局、彼に残された行為は、叫ぶということしかなかった。
その状況が一体いつまで続いていたのか、ついには彼の喉は血の味がするほど潰れ、叫び声も既に呟きにしか聞こえない。
口からはだらしなく涎を垂らし、目からも止めどなく涙があふれ、その顔は体液で汚れていた。
体の痛みが激痛から鈍痛へと変わり、彼のすり減らされた精神が余裕という言葉を手に入れた時には、夜の帳などとっくに落ち、辺りが完全な闇に飲まれていた頃だった。
「…生きてる」
彼の口は確かにそう動いたのだが、潰れかけている喉ではそれは掠れた音でしかなかった。
仰向けに寝ているはずなのだが、夜の森と先ほどの激痛と頭痛の嵐により彼の五感は機能していないに等しい。激痛に耐えたといっても、まだ頭痛は酷いし、体を覆う倦怠感はまだぬぐえない。
その痛みに耐えること以外、今の彼に出来ることはなかった。
そのまま数分だろうか、数十分だろうか、数時間だろうか、感じることの出来なくなった時間が経った後、周りから音がするようになり、その音源は確実にこちらに近づきつつあった。
獣が自分に気づいて餌にするつもりだろう、彼は満足に動かせない体を少しだけ嘆き、天命に身を任させることにした。どうせ喰われるなら、潔く死んでからの方が楽だ。
しかし、その音が近づいてくると共に微かな光源も近づいてきた。闇の中に小さな色が見えている。
発光体でもこの森に棲んでいるのかと納得したいが、どうやらそんなことはなかったようだ。
「やあ、手を貸そうか?」
松明のようなものを携え、横たわる彼に一人の青年が声を掛けた。
これが、当吾の今後忘れたくても忘れられない人物との邂逅だった。
目が覚めたら、知らない天井だった。
家を囲う基礎の上に木の板で組み合わせたような簡単な天井。無機質な現代の天井と違い、心が和むが耐久性は段違いだろう。
そんな碌でもないことを考えながら、当吾はゆっくりと上半身を起こした。
辺りを見渡すとまるでファンタジーのゲームで出てきそうな趣たっぷりの部屋だった。機械なんて何一つ置いていない。
「目が覚めましたか?」
楽器を思わせるような声音に振り返り、その音源を見上げる。
そこにいたのは長い茶髪の女性であった。その肌は健康的で、病的に白すぎることもなければ、黒人のように黒くもない。その目は少しだけたれ気味でおっとりとした印象を与える。
ただ、その耳だけは当吾の知っている人間とは違っていた。
尖っていた。しかも何かが刺さりそうなくらい鋭く尖っている。
「何か変なものでもありましたか?」
あなたの耳です。とはさすがに言えず、当吾は首を横に振った。
その女性は目線の高さを当吾に合わせると顔を近づけてきた。無論、当吾も男である。異性だと分かる相手にここまで近づかれて動揺しないわけがない。その証拠に今は心臓が鳴り止まなくなっている。
「口を開けて舌を出してもらえる?」
なんでまた?と聞こうと思ったが、喉に鋭い痛みが走り、出しかけた言葉を飲み込んだ。
「ダメよ。あれだけ喉を酷使したのに、喋ろうとしなくていいわ。さあ、舌を出して」
そういえば、今は喋られないのか。とこの間までの自分を思い返して、彼は納得し、言われるがまま喉を晒す。
「やっぱり、酷く赤いわ。これじゃ、喋ろうにも痛すぎて何も言えないわね」
ごもっともです。と当吾は心の中で返事をし、彼女の次の行動に驚愕する。
『癒せ』
短い言葉の後に、小さな燐光が当吾の喉に纏わりつき、そのまま弾けた。
「どうかな?少しだけましになったと思うのだけれど?」
あまりの光景にあっけに取られていたが、確かに言われてみれば喉の痛みは和らいでいる。
「…ありがとう」
やはりまだ痛むが、喋る分問題ない。ただ大声とかは当分無理そうだ。
「どういたしまして」
そう言って微笑む俗に言うエルフ耳の彼女は、とても愛らしく見えた。
「おう、目が覚めたか。青年」
今度の声は、楽器は楽器でも小さな太鼓を連想させた。
出てきたのは浅黒い肌の特徴的な偉丈夫だった。髪は濃い茶で、その目はきりっと鋭く、口の周りには薄く髭が生えていた。よく思い返してみれば、闇の中から出てきたのはこの男だった。
ただ服装が、どこかで見たことがある。
「…俺の服」
「おう、青年。ちょっとだけ貸してもらってた。いやあ、こんな着やすい服はやっぱり気持ちがいいねぇ」
あの森にいた時の服をこの男性が着ていた。幸いにも身長は似通っていたので別段問題はないが。
「ああ、そんな目で見るな。分かった。着替えてくるから、すぐに返してやるから待ってろよ」
心底残念そうな顔をして言いながら男性は部屋の外に出て、物の数秒で当吾の服片手に入ってきた。代わりに彼の服装はどこか品のある浅葱色の服を着ていた。
よくもまあ、一瞬で着替えられるものだ。
「ごめんなさいね。彼は珍しいものに目がなくて」
エルフ耳の女性が代わりに謝罪するが、何だか楽しいし笑って許した。
「ひどいな、マール。男なら未知のものに心惹かれるのは当然だ」
自分の説によほど自信があるのか、胸を張ってふんぞり返っている。こういう男は異性よりも同性を引き付けやすい。
「おっと、紹介が遅れたな。俺の名前はアシュレイ。こっちは家内のマルシェルカ」
紹介され、お辞儀をする。
「マルシェルカです。気軽にマールとお呼びくださいな」
首を少し傾げ、薄く微笑む。それだけで普通の男子は心奪われるだろう。心底、人妻であるのが残念で仕方がない。
「森で倒れてた君を見つけたのは俺で、今の今まで世話をしていたのはマールだからな。感謝してくれよ」
恩着せがましい台詞だが、この人好きのする笑顔と声音でまるで気になりもしない。なんとも不思議な気分にさせる男だった。
「それでは出会った幸運に」
そういいながらアシュレイは手を差し出した。どうやら握手らしい。
「…当吾と申します。よろしくアシュレイさん」
挨拶をして相手の手を握り返す。その手は大きく、温かみのあるいかにも男の手であった。
「ようこそ。異世界へ」
初めましてvolareと申します。こんな駄文を読んでくださる方には感謝も仕切れない思いです。この小説は作者の妄想と空想と独断が混ざっていますのでどうか取り扱いにはご注意ください。更新頻度はおそらく多くないでしょうが、もし仮に楽しみに待っているという方がいれば頑張れる気もします。誤字脱字、不明な点などございましたら遠慮なく言ってください。